砕かれた悔いた心

  「たとい私がささげても、
   まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。
   全焼のいけにえを、望まれません。
   神へのいけにえは、砕かれたたましい。
   砕かれた、悔いた心。
   神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩51:16-17)

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 全焼のいけにえというのは、値の張る物を神に捧げることという理解でいいのだろうか。
 物の捧げ物というのは心が伴っていなくともできるもので、このことはどの人にも心当たりがあると思う。
 そこを詩人は、「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心」と詠う。
 心が伴っているか以前に、心そのものが大切なのだ。

 その心は「砕かれた、悔いた心」であるという。
 頑なな心ではない。
 この頑なな心は、イエスの十字架の死に預かることではじめて砕かれ、そしてイエスの復活と共に悔いた心によみがえる。
 上の詩を言い替えると、十字架と復活のイエスを待ち望むことこそ、御父に喜ばれるいけにえと言えるのかもしれない。

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 健やかな一日をお祈りします!

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