スケープゴート

 「もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」
 しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。
 ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」
 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、
 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」(ヨハネ11:48-52)

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 希代の芸術家である岡本太郎は、こう述べている。「この現し身(うつしみ)は自分自身の、そして社会の、象徴的な生けにえであってかまわない。そう覚悟したんだ。」(「自分の中に孤独を抱け」,p.45)
 私は現代アートを好きになれないので、岡本の芸術も好きにはなれない。だが、通勤電車の中で上の一文に接したときに、この覚悟に感極まり不覚にも涙を流してしまった。自らスケープゴートになるというのは、この社会との軋轢を起こす自分を鑑賞者にさらしていこうということだろうか。

 イエスの公生涯、特に十字架は、やはり自らスケープゴートを自ら買って出ている。これは多くの人を救うための御父からの命令である。イエスは誰からも理解されずに極刑に死に3日目によみがえる。この救いの道を開拓したことこそ神の愛であろう。

 一方、大祭司カヤパは、「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策」と言っている。イエスをスケープゴートにして国民を救えと言っているのであるが、救いたい対象が国民というより自分自身であることは明らかである。

 私たちアダムの子孫が他者のために自らスケープゴートになるということは、なかなかなれるものではない。むしろこの点についてはカヤパのように打算的あるだろう。しかし、三浦綾子の「塩狩峠」の主人公のように自ら命を投げ打った人も中にはいる。それに比べると些細なことだが、私も仕事でスケープゴート役としかいいようのない職務を買って出て2年目に入る。
 自分を生きるのか、漫然生かされているのかの違いであり、言い換えると、「いのち」の有無の違いである。

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 健やかな一日をお祈りします!

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