イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
何を求めるのか
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:39-40)
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「あなたがた」であるところの彼らは、「永遠のいのち」を求めて聖書に当たる。
一方で、「いのち」を与えるのはイエスなのに、そのイエスのもとには行こうとしない。
「永遠のいのち」、「いのち」と敢えて抜き書きしたが、この両者は違うもののように思える。
彼らが欲しがっている「永遠のいのち」とは、死なないことなのではないか。
死ぬのが恐いのだ。もしかすると、老化しないことまで含まれるかもしれない。
一方、イエスのいう「いのち」とは、創造主との和解を通じて、死んでいた魂がいきいきとよみがえることをいう。
そのためには、むしろ死ぬことがどうしても必要なのだ。つまり罪に死ぬことである。
死はなににも増して恐いもので、彼らの気持ちに理解はゆく。あるいは、その不安を鎮めるために彼らは聖書にすがっていたのかも知れない。
しかし、聖書は精神安定剤の類ではないし、いやしを与えるものでもない。
この聖書の言葉が生きて入ったとき、その人は死ぬのである。そして、復活のイエスによってよみがえる。このように、聖書とは峻厳とした何かだ。
聖書に何を求めるかというのは、とても大切なことだろう。
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[一版]2018年11月23日
[二版]2020年 8月 2日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
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それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:39-40)
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一方で、「いのち」を与えるのはイエスなのに、そのイエスのもとには行こうとしない。
「永遠のいのち」、「いのち」と敢えて抜き書きしたが、この両者は違うもののように思える。
彼らが欲しがっている「永遠のいのち」とは、死なないことなのではないか。
死ぬのが恐いのだ。もしかすると、老化しないことまで含まれるかもしれない。
一方、イエスのいう「いのち」とは、創造主との和解を通じて、死んでいた魂がいきいきとよみがえることをいう。
そのためには、むしろ死ぬことがどうしても必要なのだ。つまり罪に死ぬことである。
死はなににも増して恐いもので、彼らの気持ちに理解はゆく。あるいは、その不安を鎮めるために彼らは聖書にすがっていたのかも知れない。
しかし、聖書は精神安定剤の類ではないし、いやしを与えるものでもない。
この聖書の言葉が生きて入ったとき、その人は死ぬのである。そして、復活のイエスによってよみがえる。このように、聖書とは峻厳とした何かだ。
聖書に何を求めるかというのは、とても大切なことだろう。
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