恵みに代えて恵みを

 「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネ1:16-17)

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 「恵みの上にさらに恵み」という箇所は、「恵みに代えて恵みを」とも訳せるとのこと(新改訳聖書2版の注釈欄より)。文脈のつながりを考えると、個人的には後者の方が分かりがいい。

 私たちの肉は、御父のいいつけにも拘わらず善悪と知識の実を食してしまう。
 このことが、というよりこのようなことをする肉そのものが人間の原罪であり、私たちはこの肉ゆえに神の怒りを買っている。
 しかし、私たちをお造りになった御父は、私たちに救いの手、和解の手を何度も差し伸べて下さった。
 とりわけて大きなものが、モーセを介して与えられた律法、それから御子イエス・キリストを世に送って下さったこと、この2つだ。

 律法とは神のルールで、それ自体を私たちに教えて下さった。これは恵みであり恩寵である。
 仮に肉が律法を全うすることができれば、その肉は神と同じようになるので確かに救われる。だが、不完全きわまりない人間は神とはまるで違う。
 では完全には守れもしない律法など遵守しなくともいいのかというと、それは全く違う。
 どこまでも律法を突き詰めていって、それでも神の要求水準からはほど遠いということを身をもって悟るのでなければ、一体誰が本当の救いを求めるのだろうか。
 だから律法が養育係というのは、確かなことなのである。

 そして御子イエス・キリストが、養育係からその肉を引き継ぐ。
 十字架と復活という「まこと」が肉を処罰し、恵みによって人に赦しを与える。
 私たちの肉が処罰されるのではない。御子のかりそめの肉が、十字架という極刑に身代わりに架かるのである。
 律法を遵守できない私たちの肉が極刑に値するのに、神は御子を通して私たちを逆に赦し、和解へと導いて下さった。

 律法を授けて下さったこと、それから御子を世に遣わしてくださったこと、この2つは神の私たちへの大きな愛、差し伸べた握手の手なのであり、特に御子については「恵みに代えて恵みを」与えて下さったのである。

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[一版]2014年 5月 5日
[二版]2016年12月24日(本日)

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