イエスの癒し

 「すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。
 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。
 イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。」(マタイ9:20-22)

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 長血を癒し死人を蘇らせ盲人の目を開くイエス。

 御父は天地を創造し、この天地を統べる自然法則もお定めになられた。
 想像に過ぎないのだが、御子イエスにとっては御父の定められたその法則性の内にある長血も盲目、また死すらも、自らの手の内のものにすぎなかったのではないか。
 そうであるとしたら、数々の病や不具を元に戻すことは、イエスには実にたやすかったのかも知れない。
 ところが、当時の人々は、イエスを神の子と見ることが全くできなかった。
 病を治してくれる預言者、名医ぐらいの認識にすぎなかったと思われる。

 だが、病の治癒そのものよりもずっと大切なことは、この神の子が肉をまとって世に来られたことなのである。
 このイエスの肉は、全人類の肉の罪を処罰するために極刑の十字架上で処理され、そして復活する。そのためにこそイエスは受肉して世に来られた。
 イエスが病を癒すのは、人々にご自身を悟って欲しいからだ。
 神の子を神の子として信じる信仰こそ、その人を肉の罪からの救い、ほんとうの癒しに導くからである。
 ところがイエスを単に腕利きの医者として見るとしたら、2000年を経た現在、これほど意味のないことはない。
 パウロですら、3度願っても「とげ」が取り去られることはなかった(2コリント12:7-9)。

 イエスにとって、治療は目的ではなく手段に過ぎなかった。
 そしてイエスは、私たちの局部的な病を癒すために来られたのではなく、根源的な病であるところの罪を処理するために来られたのである。

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[一版]2012年 3月18日
[二版]2013年11月13日
[三版]2016年 2月21日(本日)

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