イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
ヨセフ、彼のほんとうの成功
「ヤコブは父のところに行き、「お父さん。」と言った。イサクは、「おお、わが子よ。だれだね、おまえは。」と尋ねた。ヤコブは父に、「私は長男のエサウです。私はあなたが言われたとおりにしました。さあ、起きてすわり、私の獲物を召し上がってください。ご自身で私を祝福してくださるために。」と答えた。
イサクは、その子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」すると彼は答えた。「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」(創27:18-20)
「さて、ヤコブはユダを先にヨセフのところに遣わしてゴシェンへの道を示させた。それから彼らはゴシェンの地に行った。ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えるためにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けた。
イスラエルはヨセフに言った。「もう今、私は死んでもよい。この目であなたが生きているのを見たからには。」(創46:28-30)
---
「成功哲学」なる「概念」があることを、かなり前に知った。
「ブログランキング」というサイト?を眺めると、「成功哲学」のひとことで括ってしまうことのできる、それはそれは多くのブログ群が上位に陳列されている。
新聞での本の広告群に目を見やっても、「成功哲学」にカテゴライズされるタイトルを多く見かける。
さて、ほんじつのタイトルを、「ヨセフ、彼のほんとうの成功」とした。
ヨセフというと、大方の人は、彼の宰相就任、そしてその政治手腕発揮、この「豪華絢爛絵巻」の方に目がゆくのではなかろうか。
教会の説教で観た(!)「ヨセフ」のビデオも、「宰相就任時の就任儀式の豪華絢爛さ」の箇所にばかり、やたら長大な時間を割き、また細かいディテールを追求していた(つまりそこにお金を掛けた)、そんな記憶が蘇る。
(今売っているのかを、私は知らない。ボロモデムでネットがつながらないし。)
ところで今私が「追求している課題」、その第一は、聖書。
その第二は、「家庭」である。
ほんじつは、この二兎を敢えて追ってみよう、そう思い立ち、それで創世記をぱらぱらめくり、そして、冒頭に挙げた2つの聖句を選んでみた。
前置きが長くなった。
「ヨセフ、彼のほんとうの成功」、それは、「あの豪華絢爛絵巻の世界」ではない、これが今の私が思うところだ。
創世記には、何人もの人についての物語が、それは丹念に描かれている。
アブラハム。
その子イサク。
そしてこのイサクの子、ヤコブ(イスラエル)。
冒頭に挙げたのは創世記から、2箇所。
ヤコブという男の若かりし頃、彼は「どうしようもない」人間だ。
冒頭に挙げた聖句、その1つめ、こここそ「そのどうしようもなさ」の頂点である。
お父さんであるイサクは年老いて、ろくろく目も見えない。
正にイサクのその弱点を突く形で、冒頭の聖句通り、平気でウソをつく。
「私は長男のエサウです」、と。
重ね重ね、「どうしようもない奴」だという感をもつ。
(「愚母の教唆」、この点も無視できないと思うが、これはいずれ書くかと思う。)
ヤコブ、彼の苦渋に満ちた波瀾万丈の人生は、実にここから始まったように思える。だが今は「ヤコブ物語」は、さて措こう。
(対比して、「イサク物語」は、おおむね平穏な印象を受ける。)
このヤコブの子どもたち・12人兄弟の末っ子、彼こそヨセフ。
この「ヨセフ物語」について……。
彼の悲惨な境遇。
なにしろ父・ヤコブの愛情を独り占めしてしまうものだから、当然のように兄たちからひどいいじめを受ける。
またヨセフも、「若い」。
というか「幼い」。
暖かみを持って換言すれば、「あどけない」。
兄たちに捨てられて隊商商人に拾われエジプトに連れて行かれ、そしてかの地で、奴隷として売られてしまうヨセフ(創37:26-28,36参照)。
この「ヨセフ物語」も大幅にはしょって、上に書いた宰相就任とその政治力発揮の箇所。
ここに「ばかり」目が行き「ヨセフは大成功を収めました、おしまい」……、これこそ冒頭に記した「成功哲学」的な読み方だろう。
「まだ先があるだろうに、この物語は」、私はそれを言いたく筆を執った。
冒頭に取り上げた2番目の聖句。
父ヤコブ(イスラエル)が、老体に鞭打ちエジプトまで赴き、そうして、「それは可愛い末っ子」ヨセフとの再会の場面、その頂点。
「家族の和解」。
(創48:14-49:1に注目されたい。)
4000年に渡って綿々と続くユダヤ人の血筋、そのほんの最初の頃の物語だ。
その頃の「4000年前の家庭回復」の物語……。
(なお、例えばマタイ1:1-17にて特異に見られるように、ユダヤ人は血筋を重視すると、しばしば聞いた。)
「ヨセフ、彼のほんとうの成功」、これを今の私は、「家庭回復」に成功した点に見る。
なぜなら、この一点にこそ、実にユダヤ人4000年の歴史、それが幕を開けるのであるから。
この「成功」の過程を俯瞰してゆく中で、どうしても外せない要素がある。
「世界中を襲った大飢饉」。
これなくして、ヨセフはあれだけの政治力を発揮できなかったであろうし、ユダ達がエジプトの地に向かうこともなかったはずだ。
(創41:57、創42:3に注目のこと。)
「この大苦難」、その克服なくして「成功」なし……。
そのような「広い意味」では(巷間言われているそれとは全く異なる意味で)「成功哲学のほのかな香り」、それを「ヨセフ物語」から私はかぎ取る。
実にいにしえの昔から、東西多くの人が、その人その人の切り口で、この「広い意味」について論じているような気がするのは私だけだろうか?
ヒルティも、ことある毎に語っていることを、日々知り続けている。
(「幸福論」に、まとまった論考があるそうだ。)
「成功」という「ことば」を用いる、今の世の中では「ある種の誤解」を受ける危惧を抱いている、そのことは付記しておこう。
「家庭の回復」、これが今、私の追い求めている「第二の要素」であることは、前置きした。
であるから、「ヨセフ物語」を「ビデオの観点」とは全く異なる観点からほんじつ書き進めたというのは、今の私の我田引水であると率直に思う。
「家庭の回復」。
これをもっともっと大々的に追求している人を、今のところお二方、私は知っている。
小説家の小川洋子氏。
「博士の愛した数式」の著者と書けば、現代日本人もおおかた「ああ、あの人…」と頭をよぎるものがあるかも知れない。
もうお一方、哲学畑出身の信田さよ子氏。
この人は、…ある意味、「戦っている」という印象すら受ける。
一方私はというと、「とあるビルに籠もって、もっぱらデスクとパソコンが与えられて日常業務を日々こなすだけの『ただの男』」であって、上に挙げたお二方の足下にも及ばないものである。
そうと理解しつつ、「オフはもっぱら(聖書と)家庭」を「自分なりに」追求してみよう、そう静かに決意する自分を、今こうして筆を進めていっても、思いを新たにする。
(「第三の課題」、それはそういうわけで、「後々の作業」との位置づけだ。)
二兎を追うの愚、その試みの「成功」のジャッジ、それは読者にお任せするほかない。
イサクは、その子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」すると彼は答えた。「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」(創27:18-20)
「さて、ヤコブはユダを先にヨセフのところに遣わしてゴシェンへの道を示させた。それから彼らはゴシェンの地に行った。ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えるためにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けた。
イスラエルはヨセフに言った。「もう今、私は死んでもよい。この目であなたが生きているのを見たからには。」(創46:28-30)
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「成功哲学」なる「概念」があることを、かなり前に知った。
「ブログランキング」というサイト?を眺めると、「成功哲学」のひとことで括ってしまうことのできる、それはそれは多くのブログ群が上位に陳列されている。
新聞での本の広告群に目を見やっても、「成功哲学」にカテゴライズされるタイトルを多く見かける。
さて、ほんじつのタイトルを、「ヨセフ、彼のほんとうの成功」とした。
ヨセフというと、大方の人は、彼の宰相就任、そしてその政治手腕発揮、この「豪華絢爛絵巻」の方に目がゆくのではなかろうか。
教会の説教で観た(!)「ヨセフ」のビデオも、「宰相就任時の就任儀式の豪華絢爛さ」の箇所にばかり、やたら長大な時間を割き、また細かいディテールを追求していた(つまりそこにお金を掛けた)、そんな記憶が蘇る。
(今売っているのかを、私は知らない。ボロモデムでネットがつながらないし。)
ところで今私が「追求している課題」、その第一は、聖書。
その第二は、「家庭」である。
ほんじつは、この二兎を敢えて追ってみよう、そう思い立ち、それで創世記をぱらぱらめくり、そして、冒頭に挙げた2つの聖句を選んでみた。
前置きが長くなった。
「ヨセフ、彼のほんとうの成功」、それは、「あの豪華絢爛絵巻の世界」ではない、これが今の私が思うところだ。
創世記には、何人もの人についての物語が、それは丹念に描かれている。
アブラハム。
その子イサク。
そしてこのイサクの子、ヤコブ(イスラエル)。
冒頭に挙げたのは創世記から、2箇所。
ヤコブという男の若かりし頃、彼は「どうしようもない」人間だ。
冒頭に挙げた聖句、その1つめ、こここそ「そのどうしようもなさ」の頂点である。
お父さんであるイサクは年老いて、ろくろく目も見えない。
正にイサクのその弱点を突く形で、冒頭の聖句通り、平気でウソをつく。
「私は長男のエサウです」、と。
重ね重ね、「どうしようもない奴」だという感をもつ。
(「愚母の教唆」、この点も無視できないと思うが、これはいずれ書くかと思う。)
ヤコブ、彼の苦渋に満ちた波瀾万丈の人生は、実にここから始まったように思える。だが今は「ヤコブ物語」は、さて措こう。
(対比して、「イサク物語」は、おおむね平穏な印象を受ける。)
このヤコブの子どもたち・12人兄弟の末っ子、彼こそヨセフ。
この「ヨセフ物語」について……。
彼の悲惨な境遇。
なにしろ父・ヤコブの愛情を独り占めしてしまうものだから、当然のように兄たちからひどいいじめを受ける。
またヨセフも、「若い」。
というか「幼い」。
暖かみを持って換言すれば、「あどけない」。
兄たちに捨てられて隊商商人に拾われエジプトに連れて行かれ、そしてかの地で、奴隷として売られてしまうヨセフ(創37:26-28,36参照)。
この「ヨセフ物語」も大幅にはしょって、上に書いた宰相就任とその政治力発揮の箇所。
ここに「ばかり」目が行き「ヨセフは大成功を収めました、おしまい」……、これこそ冒頭に記した「成功哲学」的な読み方だろう。
「まだ先があるだろうに、この物語は」、私はそれを言いたく筆を執った。
冒頭に取り上げた2番目の聖句。
父ヤコブ(イスラエル)が、老体に鞭打ちエジプトまで赴き、そうして、「それは可愛い末っ子」ヨセフとの再会の場面、その頂点。
「家族の和解」。
(創48:14-49:1に注目されたい。)
4000年に渡って綿々と続くユダヤ人の血筋、そのほんの最初の頃の物語だ。
その頃の「4000年前の家庭回復」の物語……。
(なお、例えばマタイ1:1-17にて特異に見られるように、ユダヤ人は血筋を重視すると、しばしば聞いた。)
「ヨセフ、彼のほんとうの成功」、これを今の私は、「家庭回復」に成功した点に見る。
なぜなら、この一点にこそ、実にユダヤ人4000年の歴史、それが幕を開けるのであるから。
この「成功」の過程を俯瞰してゆく中で、どうしても外せない要素がある。
「世界中を襲った大飢饉」。
これなくして、ヨセフはあれだけの政治力を発揮できなかったであろうし、ユダ達がエジプトの地に向かうこともなかったはずだ。
(創41:57、創42:3に注目のこと。)
「この大苦難」、その克服なくして「成功」なし……。
そのような「広い意味」では(巷間言われているそれとは全く異なる意味で)「成功哲学のほのかな香り」、それを「ヨセフ物語」から私はかぎ取る。
実にいにしえの昔から、東西多くの人が、その人その人の切り口で、この「広い意味」について論じているような気がするのは私だけだろうか?
ヒルティも、ことある毎に語っていることを、日々知り続けている。
(「幸福論」に、まとまった論考があるそうだ。)
「成功」という「ことば」を用いる、今の世の中では「ある種の誤解」を受ける危惧を抱いている、そのことは付記しておこう。
「家庭の回復」、これが今、私の追い求めている「第二の要素」であることは、前置きした。
であるから、「ヨセフ物語」を「ビデオの観点」とは全く異なる観点からほんじつ書き進めたというのは、今の私の我田引水であると率直に思う。
「家庭の回復」。
これをもっともっと大々的に追求している人を、今のところお二方、私は知っている。
小説家の小川洋子氏。
「博士の愛した数式」の著者と書けば、現代日本人もおおかた「ああ、あの人…」と頭をよぎるものがあるかも知れない。
もうお一方、哲学畑出身の信田さよ子氏。
この人は、…ある意味、「戦っている」という印象すら受ける。
一方私はというと、「とあるビルに籠もって、もっぱらデスクとパソコンが与えられて日常業務を日々こなすだけの『ただの男』」であって、上に挙げたお二方の足下にも及ばないものである。
そうと理解しつつ、「オフはもっぱら(聖書と)家庭」を「自分なりに」追求してみよう、そう静かに決意する自分を、今こうして筆を進めていっても、思いを新たにする。
(「第三の課題」、それはそういうわけで、「後々の作業」との位置づけだ。)
二兎を追うの愚、その試みの「成功」のジャッジ、それは読者にお任せするほかない。
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