聖書の『背骨』

 「聖書は一名これをイエス・キリストの伝記といってもよいと思います。その旧約聖書というものは、キリストがこの世に生まれてくるまでの準備を述べたものであって、新約聖書はキリストのこの世における行動や、あるいは直接キリストに接した人の言行等を伝えたものであります。もし聖書の中からキリストという人物を取り除いてみるならば、ちょうど穹形(ゆみがた)の石橋から枢石(かなめいし)を引き抜いたようなものでございまして、その全体が意味も形像(かたち)もないものとなるだろうと思います。聖書が解しがたいのは文字のゆえではなく、また理論が込みいっているわけでもなくて、実にキリストがその枢石であることがわからないからでございます。」
(『一日一生』 5月18日の項、岩波全集版?)

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 過日、ある方から、上の引用を頂戴した。
 「こういうことですよね」、と。
 ええ、そう思いますとも。
 内村鑑三の冒頭の引用、それと今の私の思うところ、それは実に、相似形だということを確信させていただきました(無論私の方が「小さい」わけですが)。

 「一日一生」。
 この本は、私は三冊保有している。
(1)教文社版(生誕百年記念版、昭和35年、山本泰二郎 編)
(2)角川文庫版(昭和45年、武藤陽一氏による解説付)
(3)教文社版[新版](鈴木範久氏による解決付)

 私は昔日、(1)に随分親しんだ。
 今思うと、これが「内村鑑三との邂逅」であった。
 (3)は、聖句を新共同訳に、また本文を口語体に翻訳してあるので購入してみた。ちなみに、1度めくっただけだ。
 (2)は古本屋で見かけて購入した「単なるコレクション」…、そう思って取り出してみたら、かなり詳細な解説が付されていることに気付き、「じきに読む予定」に押し込んだ(ちなみに、安く入手できた覚えがある)。
 「冒頭の引用」は、もっぱら「便利なので」、ある方が下さった「引用」を、そのまま用いさせていただいた。
 上記(1)ないし(3)のいずれとも、冒頭の「引用」とはニュアンスが異なっていたので、おそらくは岩波全書版と想像するが、もし違っていたらご容赦願いたい。

 「実にキリストがその枢石(かなめいし)」、そう、聖書はそういう書物と今は思っている。
 「福音書こそ聖書の『背骨』」仮説。
 いつだか福音書について書いた頃から、それは思っていた(だからこそ書いた。リンク省略)。
 分けても「ヨハネ伝は『脊髄』」仮説は、さすがに今は、踏み込みすぎだろうか。
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