『福音書はすべての人に語りかける』仮説

 「イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。」(マルコ2:14)

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 本ブログの「ブックマーク」欄に、私こと Levi のホームページへのリンクを張っている。
 そのホームページのトップには、なぜ私が Levi を名乗るか、そのことを(少しばかし)紹介させていただいている。やはり冒頭のマルコ伝聖書箇所を引用して。

 自分は実に、「取税人だった」……。
 福音書が私に、「そう語りかけた」。
 あれは、ゆうに3年は前のことだ。

 あるいは「ゲサラの狂人」が、福音書を読む人に語りかけてくるかも知れない(マルコ5:1-15)。
 あるいは「長血を患い続けた女」や「ヤイロ」、その人達が、福音書を読む人に語りかけてくるかも知れない(マルコ5:22-43)。
 あるいは「百人隊長」が、福音書を読む人に語りかけてくるかも知れない(マタイ8:5-13)。
 さらには、「律法学者、パリサイ人」らすらも、福音書を読む人に語りかけてくるかも知れない(マタイ23章)

 こう挙げてゆくと、福音書は古今東西のすべての人に語りかけているように思えてくる。
 「良い地」(マルコ4:8,20)でさえあれば、いつかは「福音書の語りかけ」が耳に届くのではなかろうか。
 昨日の記事「アウグスティヌス紹介」でも、彼の十代後半の頃の記事として、既に「神と共に生きる真実の休息をこいねがう」という章題が見いだされる。
 あれだけの荒れようだった彼も、実は「良い地」だったように思える。
 私事で恐縮なのだが、中学1年の頃には「ざんげ」観念は、自身の内にはっきりと芽生えていた(だから「苦しんでしまう」ことになると思う)。それをもって自らを「良い地」だったとするのは、無論傲慢にすぎる。ただ思う、「良い地」たらんと欲して「良い地」になれるものではなかったと。
 そうすると「まじめ」はいいこと、心底そう思う。
 また、「ふまじめな人」のなかにも、それこそ「良心のかけら」がきらめく。
 これも私事で恐縮なのだが、私の亡き父の処世術、それは「ワル」だった。
 葬式の時でさえ言われたのだから、「ワルぶり」はよっぽどだったのだろう。
 そんな「ワルの」亡き父も、しかし子どもには良くしてくれた(それも様々な意味で)。
 だから、「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)、この通りだ。

 さてほんじつ冒頭の聖句を引用して、我が身について再確認する。
 「私はまったくもって取税人だ」、と。
 そして、それでいいと思っている。
 「取税人」を受け入れた上で、では、「どのように取税人を生きるか」、そういう割り切りだ。
 ザアカイが取税人を辞したわけではない(ルカ19:1-10)。
 「取税人」は「律法学者」には、なりようがないではないか。
 「まじめ」な私は、「ふまじめ」の試みも「ワル」への転身も、到底叶わなかった。
 「まじめ」は「まじめ」なのであり、「まじめ」を受け入れた上で「そのまじめさ」をどう生かすか…。

 さて、ほんじつも「まじめな取税人のいちにち」を始めますか。
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