イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
よみがえり主
「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)
---
よみがえり、ということ。死んで復活するということ。
イエスはもっぱら、そのことを為すためにこの世に来られた。
神が罪深い私たちのために極刑の十字架に架かって死んで、しかも復活を遂げてくださったのだから、神の愛とは正にこのことを指すのだろう。
そのイエスに従わざるを得なくなり、私たちも死んでよみがえって「いのち」を授かるのである。
ところで私たちは確かに生きている。
だがそれは、生物学的な意味においてのことにすぎない。
人間としては死に続けている。
それは魂の死のことで、多くの人は、そのこと自体に気がつかないか、目をそらしてやりすごしている。
イエスは、そんな私たちによみがえりを与えようとしている。人間本来の生が回復されるためである。
「いのち」とは、見かけとか言動、魅力、つまり外見上のことではなく、その人を真に生かす内側から湧き出る原動力についてのことだ。
いいかえると、人様からどう映るかではなく、自分の内面の方向性ががらりと変わることであり、「回心」という言葉そのものである。
イエスは、私たちを回心に導くための、いわば「よみがえり主」であり、このことにイエスの本質がある。
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[一版]2014年 8月23日
[二版]2017年 5月16日
[三版]2021年 1月11日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
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また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)
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よみがえり、ということ。死んで復活するということ。
イエスはもっぱら、そのことを為すためにこの世に来られた。
神が罪深い私たちのために極刑の十字架に架かって死んで、しかも復活を遂げてくださったのだから、神の愛とは正にこのことを指すのだろう。
そのイエスに従わざるを得なくなり、私たちも死んでよみがえって「いのち」を授かるのである。
ところで私たちは確かに生きている。
だがそれは、生物学的な意味においてのことにすぎない。
人間としては死に続けている。
それは魂の死のことで、多くの人は、そのこと自体に気がつかないか、目をそらしてやりすごしている。
イエスは、そんな私たちによみがえりを与えようとしている。人間本来の生が回復されるためである。
「いのち」とは、見かけとか言動、魅力、つまり外見上のことではなく、その人を真に生かす内側から湧き出る原動力についてのことだ。
いいかえると、人様からどう映るかではなく、自分の内面の方向性ががらりと変わることであり、「回心」という言葉そのものである。
イエスは、私たちを回心に導くための、いわば「よみがえり主」であり、このことにイエスの本質がある。
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[一版]2014年 8月23日
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