救いがもたらす自立

 「彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。
 また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、
 広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。」(マタイ23:5-7)

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 マタイ23章は、イエスの悪口を集めた箇所。悪口の対象はパリサイ人たちである。
 イエスは神であれ肉を持つ身なのであるから、当然に鬱屈としたものは溜まり吐き出すのであり、それは我々人間と何一つ違わない。
 そこを、あのイエス様がなぜこれだけの悪口を、などと思うならば、その人には、イエスはかくありきというのが最初にあって、そこから我田引水して聖書に接しているのである。
 それはさておき、イエスは罵詈雑言を言っている。

 ここに描かれているパリサイ人像は、見栄っ張りだし、とにかく上にいたい、そういう人々である。
 他人の目を非常に気にし、人との関係を常に上下でしか捉えられない。
 自分一人になったとき、はたして経札の幅の広さというのが何の役に立つだろう。誰に見せるのだろう。一人で悦に浸るのであろうか。
 死ぬとき、経札などかなたに持っていくことはできない。
 端的に、彼らは教師であるにも拘わらず神から最も遠く、それどころか世俗的すぎるのだ。
 神の律法を人には押しつけておきながら自分はそれをせず世俗的なふるまいばかりで、イエスの罵倒は、この点にある。

 私たちは、イエスに死んで、イエスによみがえる。
 そのときの私たちは、和解できた神との関係性の中で生きることになる。
 そうすると、その関係性の中に他者はいないから、他人からどう思われているかなどということは、かなりどうでもよくなってくる。
 個、というのは独りよがりなわがままのことではない。依存せずに自立することである。
 自立した個と個との出会いには、上下はない。共鳴しあう。
 アダムとエバは、善悪と知識の実を食べる罪を犯し、まず、局部をいちじくの葉で隠した(創3:7)。他人の目に恥ずかしみを覚えたのである。
 しかし御父はイエスを通して、人間のこの罪にも赦しを与えてくださるのである。
 素っ裸で歩くことが許されるのではない。それほどの自立心を御父によって回復できるのである。

 なお、聖書とは関係がないが、他人の目を非常に気にし、人との関係を常に上下でしか捉えられない、というのは、日本の現代社会(すなわち世間)でも同じである。日本語に敬語と謙譲語があることは、言語の中に既に上下が規定されていることを意味する。しかし、この世間のことは本旨から全くはずれるので、ここで筆を置く。

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