イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
怒れる神との和解
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:8-10)
---
ロマ書5章では、同じ事が形を変えて、繰り返し書かれている。
上の聖書箇所もまた、そうである。
アダムの違反以来、私たちはアダムの肉をまとった存在であり、そのゆえに神の御前に罪深い者である。
言い換えると、神との間に平和がなく、人間はこの絶対者たる神の怒りをかいつづけている。
人間は神によって造られたにもかかわらず、アダムの違反以降、その神と常に対立構造に置かれている、と言ってもよい。
そのさなかに、神の側から救いの手が差し伸べられた。
すなわち、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかに」されたのである。
罪のなきイエスに私たちの罪を負わせ、そのイエスが極刑の十字架に架かる。
その血のわざによって私たちの罪は処理され、その処理はイエスの復活によって承認された。
このイエスを信じることができれば、神によって義とみなされて神との間に平和が訪れる。
平和とは、この、罪からの救いのことだ。
私たちの肉は、依然としてアダムの肉なのであり、本質的に罪深いことは変わらない。
それにもかかわらず、イエス・キリストを信じるが故に、神は私たちを義と認めてくださった。
これほどまでに創造主が私たちを愛しておられることを、私たちは日々実感するのである。
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[一版]2009年 9月20日
[二版]2011年 8月27日
[三版]2015年 4月19日(本日)
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ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:8-10)
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ロマ書5章では、同じ事が形を変えて、繰り返し書かれている。
上の聖書箇所もまた、そうである。
アダムの違反以来、私たちはアダムの肉をまとった存在であり、そのゆえに神の御前に罪深い者である。
言い換えると、神との間に平和がなく、人間はこの絶対者たる神の怒りをかいつづけている。
人間は神によって造られたにもかかわらず、アダムの違反以降、その神と常に対立構造に置かれている、と言ってもよい。
そのさなかに、神の側から救いの手が差し伸べられた。
すなわち、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかに」されたのである。
罪のなきイエスに私たちの罪を負わせ、そのイエスが極刑の十字架に架かる。
その血のわざによって私たちの罪は処理され、その処理はイエスの復活によって承認された。
このイエスを信じることができれば、神によって義とみなされて神との間に平和が訪れる。
平和とは、この、罪からの救いのことだ。
私たちの肉は、依然としてアダムの肉なのであり、本質的に罪深いことは変わらない。
それにもかかわらず、イエス・キリストを信じるが故に、神は私たちを義と認めてくださった。
これほどまでに創造主が私たちを愛しておられることを、私たちは日々実感するのである。
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