律法というフック

 「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
 それは、次のように書いてあるとおりです。
 「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
 「彼らの足は血を流すのに速く、 彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」
  「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(ローマ3:9-18)

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 今日の箇所は、大きな恵みに至るまでの、その直前の箇所。
 旧約聖書から様々な「罪の下」をリストアップしてゆく。
 やろうと思えば、このリストは幾らでも膨れあがるだろう。

 これらはみな、フックだ。
 ひっかかってもらわないと困る、そういうフック。
 ひっかけて罪に気付かせ、そして罪の赦しという恵みへと導きたい。
 そのためには、まずは罪の下にいることに気付かせたい、そういうフック。
 だから律法は、肉の罪に気付かせるためのフックなのである。
 律法というフックによって自分の罪深さを洞察することができたならば、それが信仰の第一歩となる。
 赦し、あわれみ、また恵みについては、続いてこのロマ書3章後半で書かれている。

 この律法を、自分にではなく他人に対して適用する人々がいる。聖書ではパリサイ人がそうだ。
 しかし、聖書、信仰とは、もっぱら神と私との関係についてのことであり、他人を裁くためのものではない。
 大切なことは、自分がこの律法というフックに引っかかることの幸いである。

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[一版]2007年 6月11日
[二版]2007年 7月 5日
[三版]2015年 2月15日

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