何が基準か

 「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。
 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。
 絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。
 でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。
 「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。――私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、――もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。
 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。」(ローマ3:3-9)

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 長い引用になったが、神が基準なのか自分が基準なのかということについて。

 「善を現わすために、悪をしようではないか。」というのは、自分を基準に定めた上で神を価値判断して、自分と神とでは自分の方が上に立っていると思うから出てくる発想である。
 言い換えると、神を神とも思っていない思い違いに陥っている。
 神を、ある種の言い訳に持ち出している形で、御利益宗教がこの形の典型である。
 自分の願いを叶えろよと神に向かってやっている、あの御利益宗教。
 イエスは病気を治すために世に来られたのであろうか。イエスは腕利きで無料の医師だというので、ありがたいのだろうか。

 そうではなく、「すべての人を偽り者としても、神は真実な方である」というのが、神を基準とした世界観である。
 「すべての人」の中には当然自分自身も入るので、「ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にある」。
 どうやってそのことが分かるだろうか。
 それは神の秩序である律法によってである。
 この律法を守っているつもりの人がパリサイ人はじめ多かったが、山上の説教での御子イエスは、この律法は厳密解釈されるべきものと説いた(マタイ5-7章)。
 そうなると、一体誰がこの厳格な神の掟を、たったの一つでも守り通すことができるだろうか。
 ゆえに、私は罪の下にある身なのである。
 そして、そのことを自覚すること自体が、救いへの第一歩となる。
 神は私たちをこの罪から救おうと、御子を受肉させて地上に遣わした。

 神を基準とするか、自分を基準とするか。
 この違いによって、このように話が全く異なってくる。
 だから、大切なことは基準をどこに定めるかを見誤らないことなのである。

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