北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

道具について考える

2005-06-05 23:58:50 | Weblog
 今日気温が低めで少し肌寒い感じ。今年の北海道、東北は涼しい夏になるかも、とか。

 雪氷輸送プロジェクトを推進するためには少し暑い方が良いのだけれど。

 さて今日は、

■ほんのちょっとした道具 の1本です。

【ほんのちょっとした道具】
 昨日買った物干しを木製の壁に取り付けようとしてみたのだが、木製の壁が柱を角と角を会わせるように凸凹に立ててあるものなので、取り付けに苦労している。

 木材を三角形に加工できれば簡単に取り付けられると考えたのだが、その単純な加工ができず、ホームセンターをかけずり回る。

 自分で道具を借りて作業できれば、どうということもないのだが、最近のホームセンターではなかなか道具を貸してくれるところがない。

 道具を使って木材や鋼材を加工するのはお手の物なのだが、なによりあまりそういう機会にも恵まれないので自分で道具を持っているわけではない。

 なかなか思い通りの造作ができずに、道具のなさを嘆くばかりである。

    *   *   *   * 

 道具というのは良くしたもので、本当にある目的の一点に絞れば「これほど作業が楽になるのか!」と驚くことがしばしばある。

 ただ残念なのは、実際にはそういうごくごく特別な単目的にはほとんど出会う機会がないということである。

 先日もテレビでマーフィー岡田が野菜の薄切りができるピーラーと一体型ステンレス包丁のセットで、実に鮮やかに野菜を切って綺麗に盛りつけをしているのを見たが、実際あれなら自分でもできそうだ、と8千円ほどのお値段に納得をしたことがあった。

 「見て、見て、見て~!」とやられるとつい見てしまうし、実演販売を見ると、あのような使い方をする自分を頭に浮かべて、うれしくなるのも事実である

 実際は単体でそれらの道具を日用店で買えばもっと安いことにきづくはずなのだが…。実演販売の味わいは実はその鮮やかなパフォーマンス料だと思えばまあ腹も立つまい。 

    *   *   *   * 

 多くの便利な道具という能力を買ってスペースを与えるのか、それとも所有するのはごくシンプルな道具だけにしてそれらを縦横に操る能力を自分自身の中にスキルとして蓄積するのか、という選択のような気がする。

 前者は金で買えてすぐに手にはいるが、後者はお金では買えずにしかも習得するには時間もかかる。

 簡単に手に入ったものは失っても未練はあまりないが、苦労して手に入れたものは簡単に失われることはないし、失うことへの未練もあるし、なにより失うまいとする強い意志が働くのではないか。
 
 その選択は、自分自身の生き方の選択にも繋がりそうである。

    *   *   *   * 

 ところが本当にその一点の目的とそのために作られた道具が出会うと、これまたすばらしいハーモニーを奏でるのも事実である。

 蕎麦打ち道具の包丁の握りやすさやまな板の摩擦係数一つが思い通りの蕎麦になるかどうかの分かれ目で、人の道具では上手くいかないということもよくある話。

 本当に相性の良い道具が手に入ったときの喜びは何物にも代え難いし、プロの料理人は良い包丁に出会うまでは、一度しか使わない包丁が何本もあると言うし、プロの大工さんは愛用のノミを研いで研いで本当にもうこれ以上使えない、というところまで使い切ると言うから、道具との相性は確かにあるというのは実感としてよく分かる話である。

 いずれにしても道具は使ってあげてこそ命が吹き込まれるもの。

 家に眠っていて使ってあげられない道具はありませんか? 
  
コメント (4)
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