北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

黄金道路に冒険家を思う

2007-05-05 23:14:11 | Weblog
 いよいよゴールデンウィークも終盤。好天の今日は思い切り道内のドライブを楽しみました。

 子供たちは市内でイベントがあってそちらへゆくというので、夫婦水入らず 長距離ドライブです。

 同じドライブでも、今日は今まで行ってみたかったけれど行けずにいたところ、としようと思いました。そこで今日のポイントは、日高のえりも岬を回った太平洋側の黄金道路と呼ばれるところ。

 ここは、急峻な崖がそのまま海に落ち込んでゆくところで、江戸時代に蝦夷地を訪れた冒険家たちが徒歩で渡るのにもっとも難渋をした難所中の難所なのです。

 実はここは北海道の道路の始まりといわれるところで、北海道開拓の記念的な場所でもあるのですよ。

  *    *    *    *    *

 さて、この今は黄金道路と呼ばれる急峻な土地に、探検家近藤重蔵が登場します。近藤重蔵は先手与力の家に生れ、長崎奉行手附出役をつとめた後、寛政九(1797)年に支配勘定となり、寛政十年から文化四(1807)年に至る間、蝦夷地政策と関わることになりました。

 寛政十年幕府は、目付渡辺久蔵胤以下180余名の巡見隊を蝦夷地へ派遣しますが、これは蝦夷地へのロシア人の進出などに対する対抗措置でした。

 この年、重蔵は七月下旬クナシリ島からエトロフ島に渡り、「大日本恵土呂府」の標柱をタンネモイに立てて戻り、八月には各方面から蒐集した情報をもとに多数の上申書を作成した。九月にアツケシに至り、先年最上徳内の建立した厚岸神社を修復する。

 重蔵はこの年十月に、今の黄金道路ができた山側のルベシベツ・ビタタヌンケ間に約12キロの新道を切り開いたのでした。(→参考「十勝毎日」に記事がありました)

 これが北海道における道路づくりの始まりと言われているわけで、今回はなんとしても、この近藤重蔵の碑を見るドライブにすることにしました。

    ※    ※    ※    ※

 さて朝八時に我が家を出発して、高速道路でETCの通勤半額割引を利用すると、環状線が200円、苫小牧東インターまででも750円でいけるからお得です。

 そこから先は無料開放中の日高自動車道をどんどんと南下して、 今は終点となっている日高富川ICで一般道に降ります。苫小牧東インターからの距離は40.1キロだそうですよ。早くもっと遠くまで建設を進めて欲しいものです。

 さてえりも方面はそこからが長い。延々と右に海を見ながら南下するドライブです。

 ついに、右に曲がれば襟裳岬というところまで来ましたが、今日は目的が違うので、素通りして黄金道路へ。

 黄金道路の南端付近には展望台があって、これから始まる黄金道路が望めます。しかしいかにもすごい展望が広がっていますね。

 さて、今の黄金道路は海岸に沿った道路を少しずつトンネルで山側に寄せる工事が継続して行われていて、悪天候時でも通行止めが少なくなりつつあります。

 いくつかのトンネルを抜けたところで、ビタタヌンケ隧道という文字を見つけました。このあたりがビタタヌンケのようです。ここから山へ入ったのでしょうね。

 やがていくつもあるトンネルや覆道を過ぎて行きますが、手元の地図にあるトンネルが出てきません。そのうち、地図では近藤重蔵の碑を過ぎたところにある地名が出てきたので、戻って確認をすることにしました。

 すると、戻ったトンネルの左側に今は通行止めとなっているかつてのトンネルがあり、そこの脇に石碑らしきものがありました。

 (これかな)と思って近づいてみると、やはりそう。よく見ると閉鎖されたトンネルの名前も「重蔵隧道」となっています。

 そのうえ、そこから山を眺めてみると、山道のようなものが見えました。近くへ寄ってみると、これがまさに近藤重蔵が道路を切り開いた基点であるルベシベツの地なのでした。



 国立国会図書館に収蔵されている伊能忠敬の古蝦夷地図にも、かすかに「ルベシベツ」の名が見て取れます。ここがまさに伊能忠敬も通った場所なのでした。
 試みに少しだけこの山道も上がってみましたが、ちょっと感動です。


 古の冒険家達の夢を少しだけ垣間見た、黄金道路へのドライブの旅でした。

 残念なのは、この石碑が道路看板などで紹介もされていないこと。北海道の道路開削の歴史を刻む貴重な歴史資料として、ぜひ大事にして欲しいものです。

 北海道にも歴史はあるのです。
 
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江戸時代の蝦夷地 (管理人)
2007-05-09 01:24:49
 江戸時代の半ばの18世紀前半から、次第に蝦夷地や北方の島々、樺太などを探検する冒険家達が日本の歴史に登場します。

 なにが彼らを突き動かしたのか、ということを見て行くと、当時力をつけてきたロシアが次第に南下して蝦夷地や北方の島々に影響を及ぼして事件を起こし始めたことや、幕府による北方からの脅威に対抗する施策などがからんで、北への関心が強くなって行きます。

 伊能忠敬が日本全図を作ろうと測量を始めたのは1800年のことで、最初は函館から測量を始めたのでした。

 北海道の開拓の歴史は、北方からの脅威に対する対抗措置という切り口で見てみると、いろいろなことが繋がってきます。

 最上徳内、近藤重蔵、伊能忠敬、間宮林蔵、高田屋嘉平、松浦武四郎、そして大友亀太郎、島判官などなど、開拓をしなくてはならなかった当時の歴史に触れてみると、北海道が違って見えてきますよ。
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