ネットのニュースに、「閉校した小学校の二宮金次郎像が入札で売却されることに」という記事がありました。
元ネタは毎日新聞の記事で、売却されるのは兵庫県三木市で閉校した市立旧東吉川(ひがしよかわ)小学校に残されていた金次郎像。
高さ100センチで重さは23キロ。まきを背負いながら(正しくは柴なのですが)本を読みながら歩くお馴染みのスタイルのものだそう。
設置されたのは1959(昭和34)年とわかったそうですが経緯は不明とのこと。
ニュースになったのは、一般には廃棄などで処分されていつのまにかなくなるのが、今回は市側が「移設(や処分)するにしても費用がかかるので、廃棄するのであれば購入した方に活用してほしいと考えた」というのが珍しいということでした。
明治大正を通じて自らの勤行によって苦しい経済を立ち直らせるという報徳の教えは教育界にも影響を与え、学校報徳社などと言うのも作られた時代がありました。
幼い金次郎像が普及したきっかけは、1929(昭和3)年の9~11月に開催された御大典奉祝名古屋博覧会だったと言われています。
このときに愛知県岡崎市の石材業者が薪を背負った金次郎の石像を出品し、さらに小学校を対象にその建立を働きかけたといいます。
これに続き、富山の鋳造業者も銅像の販売を始めたとのことで、ある意味民間商業者がこれらの像の普及に一役買ったというのは面白いことです。
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戦争と報徳の関係ですが、実はアメリカ軍は戦時中から尊徳の存在に注目しており、B29からの撒かれた降伏勧状には損得を民主主義者として評価する文章も載せていました。
戦後はアメリカ軍の民間情報教育局の新聞課長であったダニエル・インボーデン少佐が報徳を評価したことが知られています。
彼は幼い金次郎の勤倹力行のみを強調した修身の教科書を「危険な学び方である」と批判し、成人後の報徳仕法に取り組んだ姿までも学ぶべきだと述べています。
そして報徳の徳目の一つである「推譲」をして、「推譲には二つの道がある。一つは『おのれの将来ための貯蓄』であり、もう一つは『他の足らざるものに融通する他への推譲』である」とさえ述べています。
現代の日本人よりもよほど報徳の考え方に通じているではありませんか。
またある研究者によると、1950年代に金次郎の銅像が増えていることを指摘しています。
その背景として、①復興が進み道が自由に使えるようになったこと、②1955(昭和30)年に二宮尊徳百年祭があったこと、などを揚げていますが、今日話題になった廃校になった小学校の銅像もまさにその頃におそらく父兄らによって寄付されたものでしょう。
二宮金次郎の勤倹力行は第二次大戦に人々の心駆り出したというネガティブな側面を批判する向きもありますが、それにしても今や二宮尊徳のことが教育界でも取り上げられることが少なくなり、その銅像を見ても馳せる思いすら浮かんでこないというのが現状なのでしょう。
いわゆる「徳目」や「規範」といったことを抽象論で語るよりも、それで疲弊した村々や人々の心を救済した歴史や事実を語ることのほうが教育的効果がありそうなものですが。
さて、金次郎の銅像を買うほど関心のある方は現れるでしょうか。