久しぶりの書籍のレビュー。
今回は「西南戦争」(小川原正道著 中公新書)を読みました。
西南戦争は明治維新が起こってから10年後の明治10年に鹿児島士族が挙兵し始まった近代日本最後にして最大の内戦です。
明治の初期はまだ世の中が落ち着いておらず、明治7(1874)年からは佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱など士族による反乱が続きました。
これらは維新によって家禄などの特権を失った士族による恨みという側面が大きいのですが、そうした不平不満をあわよくば政権を倒せるのではないか、という期待まで背負ったのが西郷隆盛であり西南戦争でした。
反乱軍は九州一円からはせ参じ最大3万人といわれましたがこれに対抗する政府軍は総数6万人。
西南戦争は明治10年1月末に、政府の密偵が西郷暗殺を目論んでいるという情報から、それまでの不平不満が一気に高まり、西郷のいないところで政府軍の弾薬を奪うという事件が発生し、もはや私学党らの一団を押さえることができず挙兵ということになりました。
最終的には「政府をただす」ということから東京の政府を目指したものの、戦闘はあくまでも陸路で熊本城を急襲しましたが、谷干城(たに・たてき)が率いる熊本鎮台は薩軍の猛攻に耐えに耐え、援軍の到着を待ち続けます。
熊本城は熊本地震で大損害を受けましたが、加藤清正築城の名城であることを後年証明しました。
その後熊本城を包囲しつつ戦線は拡大してゆきましたが、政府軍が到着してからは各所で抑え込まれることになります。
私自身不勉強だったので、西南戦争では田原坂(たばるざか)の戦いが有名だということは知っていましたが、田原坂の場所は鹿児島のすぐ上くらいに思っていました。
今回改めてそれが熊本市のまだ北にある峠だということを知りました。
【田原坂はここだったか】
また、戦闘の場所も「せいぜい鹿児島と熊本くらい」に思っていたのが、実際には熊本から宮崎県、大分県と九州の広範な地域に渡っていたことも初めて知りました。
戦争は結局物量と兵力に勝る政府軍が次第に攻勢を強め、薩軍を追い込んで行くのですが、薩軍は当初「西郷さんが立ち上がれば全国で不平分子が蜂起する」ということに大きな期待を寄せていました。
しかし現実にはそうはならず、西郷とともに不平士族の頭目と目された板垣退助は西郷とともに起つかどうかの選択を迫られた時に「(大儀)名分がない」と言ってこれを渋ったと言われます。
結局不平の高まりという火薬庫に、西郷暗殺の密偵という火花が火をつけてしまったものの「戦いの名分が人々の心に響かなかった」という点で、その火は広がらなかったという顛末となりました。
西郷隆盛は反乱者として戦争後に評価を下げましたが、その誠実な性格は次第に彼を慕う有力者らの努力もあって明治22年に大日本帝国憲法発布に伴う大赦により赦され、正三位を追贈されています。
こういう本を読んでいれば上野の西郷さんの銅像の見方も、熊本旅行の際の立ち寄り場所も変わったことでしょうが、惜しいことをしました。
「何事もことを起こすには大義名分がなくてはならぬ」ということを戒めにしたいと思います。
次の九州旅行はいつになるかなあ。