北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

「メンバー」への違和感と、それに期待する力

2018-04-26 23:38:02 | Weblog

 

 人気グループTOKIOの山口達也メンバーが、未成年者に対する強制わいせつ容疑で書類送検されたという事件で世間はもち切り。

 謝罪記者会見では自ら事件の顛末を語り、強い反省の気持ちを示していました。

 聞けば、飲酒で肝臓を悪くするなど体調を崩して入院していたのが、退院をしたことで「飲もうかな、と思って」とまたお酒に手を出した結果としてのこの不始末。

 社会的な影響の大きいタレントであると同時に、TOKIOの一員であることから、グループとしての活動を大きく損ねることから、被害は甚大です。

 「酒は百薬の長」と言われますが、そのあとに「されど万病の元」と続くことを忘れてはなりません。


 それにしても、誰もが違和感を持ったのが「山口達也メンバー」という表現でしょう。

 「メンバー」という言い方の理由については、被害者と示談が成立していることから「容疑者」でもなく、また「芸名のみの呼び捨てを避けるために何らかの肩書呼称が必要となり、その結果TOKIOの一員という職業上の肩書から『メンバー』という言葉になったようだ」とのこと。

 「メンバー」という表現が珍しくて、「TOKIOの山口達也氏」ではだめなのかな、と違和感が大でした。

 まあ多くの社会人は、どこかの組織に帰属しているわけで、その組織の信用や信頼、評判を背負っています。

 いくら「俺は俺で、一人の国民だ!」と言っても、特に日本では、所属している組織や集団が、もしそれらがなくても、家柄や血筋まで、その縁が問題になる。人はどこまで行っても何かの「メンバー」なのです。

 公務員であれば、「信用失墜行為」というのが立派な処罰の理由になりますが、昨今は、財務省も厚労省も防衛省も、様々な評判を落とすような行為が世間の批判を浴びています。

 セクハラも、実際の行為だけでなく口先での発言も大きな問題になる時代。

 一罰百戒で、厳罰化に向かって立派な人ばかりの世間になるのか、それとも犯罪者だらけの社会になるのか。どこかの「メンバー」であることが自制の力になるでしょうか。

 犯罪に該当するようなレベルは論外ですが、一瞬の過ちや感情の高ぶりも許されない社会って、ちょっと怖いような気もします。

コメント
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