以前ある人から、「昔"天北線"という国鉄時代の汽車の路線があったんですが、知っていますか?」と訊かれました。
そこで「私が小学校三年生まで稚内に住んでいた時にはその路線はまだありましたし、三歳の時には南稚内駅の次の駅がウェンナイというところで、そのすぐ近くのアパートに一家で住んでいましたからよく知っています」と答えたところ、今度は「ではどうして天北線という名前が付いたかご存知ですか」と訊かれ、今度はぐっと詰まりました。
すると相手は、「あれは天塩国と北見国の頭文字を取って天北線と言ったんですよ」と教えてくれました。
「ああ、なるほど!」とその時は納得したものの、(そういえばなぜ"北見"というのだろう?)ということがちょっと引っかかっていました。
考えてみると、オホーツク海の枝幸町も通称「北見枝幸」と呼ばれ、かつてこの町には興浜北線の北見枝幸駅がありました。
ここでも北見が出てきますが、網走市の近くにある北見市とはずいぶん離れています。
そんな疑問はちょっと忘れかけていたのですが、今回利尻島へ渡るのに、利尻富士町史を引っ張り出してきて読んでいたところ、ちょうど明治維新後に国郡の設置があったという箇所に出会いました。
これによると、明治元年に新政府ができて、最後の反乱である箱館戦争が明治二年五月に榎本軍の降伏で終わると、七月に明治政府は開拓使を設置。ついで八月には松浦武四郎の進言に基づいて蝦夷地を北海道と改称して、十一国八六郡を設定しました。
このときに利尻島は北見国利尻郡となりました。
郡名をつけるに際しても、松浦武四郎の案に負うところが大きく、松浦武四郎は「蝦夷地道名国名郡名之儀申上候書付」を七月に提出しています。
これによると北見の国は、「西天塩の境をエキコマナイより奥で、ネムロ境のシレトコまで海岸百二三十里併せてリイシリ、レフンシリ二島一局にしたいと思います。この辺りは、ソウヤ、モンヘツ、シャリ等いかにも国号にするには不都合なところなのですが、常々このあたりのことは"北海岸"と唱えてきたことがあるのでこの文字を使いたいと思います。
カラフト島快晴の日には、見えるものですから、"北見"では如何なものかと存ずる次第です」とあります。
【「利尻富士町史」より】
つまり、彼は「北海岸と言われていて晴れれば樺太が見えるので『北見』では如何でしょうか、という提案をしたのでした。アイヌ語っぽくないわけですね。
こんな経緯があったのでこの当たりの現代の稚内からオホーツク海川沿いの知床半島の突端までの斜里町の範囲が北見の国とされました。
そういう目で改めてこの地域を見てみると、枝幸町手前のカムイ岬は、北見神威岬と言いますし、利尻島の利尻町沓形にあるのは北見富士神社となっています。
ちなみに網走管内にある合併前の初代北見市が誕生したのは昭和17(1942)年のことなんだそうで、ずっと新しいのです。北見の元祖はカラフトの見える宗谷にあり、です(笑)
知ってしまうと「なあんだ」ということなのですが、ちょっと面白かったので備忘録的に書き留めておきたいと思います。
地名の歴史も面白いですね。
【Wikipedia『北見国』より】