駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

CEDAR×defi『女中たち』

2022年12月18日 | 観劇記/タイトルさ行
 シアターブラッツ、2022年12月15日19時。

 奥様(月船さらら)の部屋で「奥様と女中ごっこ」にふける女中の姉妹、妹クレール(黒河内りく)と姉のソランジュ(円地晶子)。その遊びはやがて、旦那様の逮捕、奥様殺害計画へと向かい…
 作/ジャン・ジュネ、演出/石川大輔。1947年パリ初演の三人芝居、全1幕。

 タイトルは聞いたことがある舞台で、さららんが出るというのでいそいそとチケットを手配して出かけてみました。
 駅から遠かろうがハコが小さかろうがそれはいいんだけど、せっかく前方席が取れても床が平らで男性客が多くて舞台が見づらくて閉口しました…下手に置かれたドレッサーがまるっと見えないんだもん、当然そこでの芝居は全然見えないワケで…逆サイからなら上手のベッドがまるっと見えなかったことでしょう。こういうの、ホントどうにかしていただきたいです。何を見せる場所だと思っているのか…
 まあ、寝ていてうつむいている客が多くてその分は多少視界が開けたのはよかったんですけどね!

 さて、プログラムによればこれも不条理演劇の範疇の作品なんですか? 最近不条理づいてるな…うん、確かにワケわかりませんでした。
 いや、話はわかりますよ?
 わかりやすいのはさららんの奥様で、もともとちょっとエキセントリックな人なんだろうし今は夫の収監にパニックになっていてハイになってもいて、こりゃ口ではどんなにいいこと言ってても仕えるのは大変そうな相手だな、ってのが手に取るようにわかる芝居、人物像なワケです。だから口では雇い主に感謝してるのなんのと言いつつも、女中たちには実は鬱屈がたまっていて、主人の留守には勝手に部屋を使ったり服を着たり宝石をつけたりしちゃうし、ワガママな奥様ごっこもしちゃう、というのもわかる。そしてそのうち旦那様の罪を告発する匿名の手紙も書いちゃうし、奥様の薬に大量の睡眠薬も混ぜちゃうってのも、まあわかるワケです。持たざる者の悲劇というかなんというか、ね。
 でも、それがこの演目になる意味が私には観ていてよくわからなかったのでした。どうしてあんな過剰な、そして謎に詩的な台詞になるのか。それが何を表しているのか。現代日本で上演されることでなんの意味を持つのか。何を表現したくてこの演劇は今ここで上演されているのか…正直よくわかりませんでした。
 実存に対する不安とか? 階級や差別やそうしたものを容認する社会への反抗とか? なんかそういうことなんでしょうけれど…泥棒詩人とも言われた作者の生き様や思想からすると、ね。でもそれが今回上演された舞台から感じ取れたかというと…うーんどうだろう? それで、別に観ていておもしろくなかったわけではないんだけれど、オチがきても「で、だから?」と私はちょっとなってしまったんですよね…役者は熱演していたと思うので、あとセットがとても素敵で(美術/平山正太郎)照明も良くて(照明/南雲舞子)好印象で、なので演出とか、脚本の解釈や伝え方の問題なのかな、とも思うのですが…うーんどうなんでしょう? 私に感受性や教養が足りないというだけのことだったらすみません。
 プログラム含めて、宣伝写真がとても素敵だったのも印象的でした。
 奥様のお衣装(衣裳/藤崎コウイチ)は舞台と同じで、茶と黒のレーシーなドレスにお揃いみたいなストッキングと靴。女中たちは舞台ではいわゆるメイド服のやや簡素なヤツ、お仕着せの黒ワンピに白エプロンみたいな服装でしたが、プログラムでは白いドレスで姉妹それぞれ違っていて、それがキャラクターの違いを表現していてとても素敵。ポスターもとても素敵でした。
 だからなんか、こういうことを伝えたい、こういう作品なのである、という確固たるものは何かしらあったんだろうと思うんだけれど、私はそれを舞台から感じ取れなかったので、総合的にはやや退屈してしまった、という観劇だったのでした。
 まあ、そういうこともたまにはあるやね。また違う座組で上演があれば、しつこく行ってみるのもおもしろいのかもな、とは思いました。
 さららんはあいかわらずからりと背が高く麗しく、女中たちと並ぶと本当にエレガントでハンサムウーマンな上流階級の女性、って感じで素晴らしかったです。


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宝塚歌劇雪組『蒼穹の昴』

2022年12月17日 | 観劇記/タイトルさ行
 宝塚大劇場、2022年10月15日11時、18日13時、18時(新公)。
 東京宝塚劇場、12月8日13日18時半。

 19世紀末、清朝末期の中国・河北。村はずれの居酒屋で、飲んだくれて寝てしまった地主の次男・文秀(彩風咲奈)は、まどろみながら聞いた言葉に目を覚ます。老占い師・白太太(京三紗)の「そなたは長じて紫禁城に登り、天子さまの傍らで天下の政を執ることとなろう」といういつもの言葉だ。そこへ科挙の院試に合格したという報告が届き…
 原作/浅田次郎、脚本・演出/原田諒、作曲・編曲/玉麻尚一。シリーズ600万円部を超える大ベストセラーを舞台化したグランド・ミュージカル。トップ娘役・朝月希和のサヨナラ公演。

 原作小説は未読。学校の世界史の授業でなんとなく勉強したような…くらいのほぼノー知識で観ましたが、特にわかりづらくは感じませんでした。キャラクターが紹介されあーなってこーなってと話が展開して、豪華なセットやなかなかの大曲があって見応え聞き応えがあり、特に一幕は楽しく観られました。二幕はお話がやや駆け足になったのと、え、なんで?ってのが何度かあったのと、最大はオチに「え? コレで終わり??」って引っかかったのがあって、そしてフィナーレもまあフツーという印象だったので、全体としてはアレレ…な感じで観終えてしまいました。それが観劇回数にも如実に表れてしまっていると思います、すみません。
 小説は春児(朝美絢)が主人公なんだそうですね。それを、今の雪組の座組に合わせて翻案したということなのでしょう。マイ楽を一緒に観た親友は原作ファンで、いつかそら春児の主演で再度きちんと舞台化するといい、と言っていました。それはちょっと観たいかもしれません。別にヒロインとのラブはなくても、西太后(一樹千尋)との親交? 同志愛? みたいな交情メインでもドラマは紡げると思いますしね。
 それから考えると、一幕なんて特に、文秀ってホントたいしたことしていない、というかほぼ何もしていないに等しいキャラなのに、この人が主役なんです感をバッチリ醸し出す咲ちゃんってホントすごいな、とは思いましたね。タッパがあって映えるしお衣装も着こなすし、やや力任せだけど歌い上げるナンバーもあって、賢く優しく志ありげなことを語ってとにかく頼れる感じで、ホント「感じ」だけなんだけどちゃんと成立させているんだからたいしたものでした。リョウサエバも夢介も若干カッコよくない系の主人公だっただけに、よかったねえ咲ちゃん、とは思いましたが…というか実はそんなに芝居が上手いタイプのトップスターさんではないと思うので、わかりやすい白い王子さま役に配しちゃった方が本当はいいんだと思うんですが、何故そういう作品が来ないんでしょうね? ボニクラちょっと不安だわー…
 それはともかく、そんなわけで一幕はまあ起承パートでもあるしなんとなくのハッタリでも保ったんでしょうが、二幕はさすがに文秀のやっていることがよくわかりませんでした。
 袁世凱(真那春人。というかメジャーだろうとなんだろうと日本語読みと中国語読みの混在はおかしいと思う。統一すべきでしょう)の説得に行くのは原作では別の人物なんだそうですね。なので主人公の活躍場面としてスライドさせたエピソードなんでしょうが、説得に行ったはずが持論を言いっ放しにしただけでさっさと帰ってきているので、結果的には決裂しただけでなんの成果も出せていないんです。それでいいのか? 何しに行ったんだ? って気になりましたし、なんかやっていることの意味がよくわかりませんでした。そのせいでこのあと国内が割れて内ゲバみたいなことになるから、文秀たちは日本大使館に逃げ込んだんだろうけど、ここでのそれぞれの立場や取る行動のメリットデメリットみたいなこともよくわからなくて、なのでそのあとの譚嗣同(諏訪さき。ホントによかった…もともと上手い人で上手さが先行していた時期もあったと思うけれど、今スターとしていい感じに仕上がりつつある気がします)の処刑とか文秀の脱出とかもすごくドラマチックな展開なんだろうけれど、なんか私には意味がよくわからなくて、感動しきれませんでした。
 さらに、文秀と玲玲(朝月希和)の関係がよくわかりませんでした…玲玲の方は文秀を愛している、しかし文秀は弟分の春児(「弟同然」か「弟分」のどちらかでしょう、「弟分も同然だ」って台詞はヘンですよ…)の妹、としてしか玲玲のことを見ていない。よく言って家族、でもせいぜいが面倒を見るべき使用人程度で、見下しているということはなくても対等には扱っていないのが丸わかりでした。そこに玲玲と譚嗣同とのエピソードもあったんだから、これはこの形で完全に正解だったと思うんですけれど、この顛末を通して玲玲もひとつ大人になったというか目が覚めたというか文秀とは生きている世界が違うんだなとあきらめるというか、な進展があって、まあ家族みたいなおつきあいは続けるにしてもラブとしてはチャラになったんだろうと思ったわけですよ私は。文秀の方は玲玲の抱き寄せ方にしてもなんにしても、ほぼ最後まで異性に対するものではなかったじゃないですか。なのに急に、えええぇ~いつの間に~!?ってなりましたし、大丈夫か玲玲ホントにそれでいいのかけっこう面倒だぞそいつとか思いましたし、何より文秀のとりあえず日本に撤退するみたいな行動に、結局全部投げ捨てて自分だけちゃっかり逃げるんじゃん何ソレ、って思わせられちゃったんですよね…皇帝の傍らで天下の政を執るはずの人が、島流しにされた皇帝のもとに馳せ参じることもなく、自分だけ女連れて脱出しちゃうんですもん。えええええぇ~ってなりますよそりゃ…
 で、話としてもオチてないじゃないですか。この内乱みたいなの、どうなるの? 外国との戦争がどうとかは? 春児は今何してるの、これから何をするの、彼は何ができたら幸せになってゴールなの、天下のお宝is何、昴is何???
 全然わかりませんでした…
 紫禁城の城壁?がくるんとひっくり返ると船体になるのはよかったんですけどね。でもそれは単なるギミックにすぎないので…
 で、フィナーレもわりとベタでしたし(そらの歌唱指導はスタァ!でしたよー! そしてデュエダンのはおりんのカゲソロは素晴らしかったです)、景徳鎮な娘役ちゃんたちは可愛かったけど揃いのお衣装のあーさは特にズボンがなんかヘンなパジャマみたいだったし、デュエダンのリフトかなんかがなんかいつもヘンでいつもドタバタしててハラハラさせられて、なんかホント全然感心しませんでした。そもそも娘役ちゃんの出番がなさすぎて…これで退団のカレンちゃんやはおりんにはムリヤリ台詞が作られていましたが…てかぶーけたんもったいない…
 あとこれはちょっと違う問題だけど、昴を金星みたいな表現しているのは天文ファンとして許しがたかったです…
 なので、なんか、やっぱり咲ちゃんって作品に恵まれていないんだなあ、それじゃ辞めるに辞められないじゃん…とかつい心配して終わってしまったのでした。しょぼぼぼん。

 例によって大劇場新公は観られましたので、以下簡単な感想を。
 主役はかせきょー。『夢介』新公のあーさ役でも華があるわー、いい若手キタわー、という印象でしたが、今回も歌もしっかりしていて真ん中力がバーンとあって、堂々としたものでした。このまま上手く育ててほしいものです。ただし、マイ初日が東京新公になってしまい、かつ下級生の見分けが全然つかない後輩は誰が主役か全然わからなかったと言っていました。確かに大きなナンバーが削られていたりしましたし、私が感じた真ん中力はまあまあいい席で観たし顔や声で識別できるから、というせいもあったのかもしれません、すみません…
 ヒロインはねいろん、メロディちゃん。いじらしく、歌がまた素晴らしく、手堅いヒロインっぷりでした。
 春児は一禾くん。毎度言っている気がしますがとにかく上手い。でもぶっちゃけスター扱いされる人だとは私には思えないのですが、2番手までやらせちゃってどーする気なの?という気がむしろしてしまいました、すみません。
 順桂(和希そら)は紀城くん、これまた毎度上手いなと思っているような気が…今回も、ちょっと地味に感じましたが綺麗で上手くていいなと思いました。まあいいお役だというのはあるかもしれません。
 光緒帝(縣千)は聖海くん。本公演の蘭琴も雰囲気あって素敵ですが、こちらも若くて綺麗な皇帝っぷりで、頼りなさげな塩梅もちょうどよく感じて好印象でした。
 王逸(一禾あお)の蒼波くんも手堅く上手かったです。黒牡丹(眞ノ宮るい)の壮海くんも綺麗でした。そして新公蘭琴の水月くんも美形で震えました…!
 ミセス・チャン(夢白あや)は愛陽ちゃん、美人系でしたねー。譚嗣同の霧乃くんもいじらしくて泣かせてくれました。玲玲とのやりとりが新公バージョンになっていたのも良き、でした。
 専科祭りでは白太太の愛羽ちゃんが娘役ちゃんには難しいだろう老けを上手くこなしていて好感持ちました。はっちさんとこの真友月くんもちゃんとしたてなー。カチャのところのさんちゃんはナンバーカットが残念でしたね。しかし圧巻は次期トップ娘役の夢白ちゃんによる西太后でしたね、すんばらしかったです! これからも単なるお姫様役者ではないヒロイン像を築いていっていただきたいです。好き!
 あとはまなはるのところの月瀬くん、上手くて舌を巻きました! あすくんのところの苑利くんもまだ研1さんなのにあの上手さ的確さ華、どーいうことなの最近の若手はなんなのすごいな天才なの!?
 娘役陣は、あとはねいろんのところの華純ちゃんが可愛かったけれど、これだけでは…という感じでしたね。りなくるもぶーけも、うーん…とにかく出番として芝居としてやりようがなくて、残念でした。

 これがひらめちゃんの退団公演となりましたが、就任が遅かったせいもあるのかハナから3作のみと決めていた、という潔さよ良し、という印象でした。ひらめらしいというのかな、娘役の方がホント男前(性差別かな?)でもののふですよねえ(笑)。役柄もヒロインとして幅があり、よかったと思います。なんか妙な組替えだったし、決して順当に育てられていたわけではなく若干の棚ボタ感もあったわけですが、やはり前回ショーの仕上がりっぷりとかを見るとホント男役も娘役も学年や立場で磨かれるんだな、と格別ファンでない私ですら感心したので、このまま咲き誇り無事に良き大千秋楽を迎えることをお祈りしています。大劇場サヨナラショーはタカラヅカニュース映像やレポツイートでしか知りませんが、大階段に娘役全員を出して始めたと聞いてホント胸アツでした。娘役を従えてバリバリ踊るトップ娘役、という構図は全トップ娘役が何度でもやってくれていいヤツですね!!!
 そしてお相手が変わると咲ちゃんもまた変わって見えて良きでしょうが、しかし演目に恵まれて上手くあーさへのバトンタッチをするといいと思うよ…とは思ってしまうのでした。ここまで育てた御曹司にちゃんと花を持たせてくださいよね劇団…
 というわけで今年の宝塚観劇納めはやや早めになりました。今夜のスペースでいろいろ語って締めくくりたいです。
 来年もどうかチケットに恵まれますように…(笑)






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『ドン・ジョヴァンニ』

2022年12月11日 | 観劇記/タイトルた行
 新国立劇場オペラパレス、2022年12月10日14時。

 明け方、騎士長(河野鉄平)の娘アンナ(ミルト・パパタナシュ)の部屋に忍び込んだドン・ジョヴァンニ(シモーネ・アルベルギーニ)だが、当の騎士長と決闘になり、彼を殺して逃走。アンナは悲嘆し、婚約者のオッターヴィオ(レオナルド・コルテッラッツィ)に復讐を果たしてほしいと求める。ジョヴァンニは従者のレポレッロ(レナート・ドルチーニ)と落ち合うが、昔棄てた女のひとりエルヴィーラ(セレーナ・マルフィ)に見つかってしまい…
 指揮/パオロ・オルミ、演出/グリシャ・アサガロフ、美術・衣裳/ルイジ・ペーレゴ、照明/マーティン・ゲプハルト、再演演出/澤田康子、管弦楽/東京フィルハーモニー交響楽団。モーツァルトのオペラの代表作のひとつ、全2幕。

 ムーティ指揮のミラノ・スカラ座のDVDは持っていて、フレンチ・ミュージカルの『ドン・ジュアン』はこちらこちらなどで観ていますが、生のオペラの舞台は初めてでした。改めて観ると、このオペラがあのミュージカルに化けるのはすごいな!?という感想でした(笑)。ともあれセットや照明がずいぶんとスタイリッシュでモダンで美しく、聴いて楽しい観て楽しいで贅沢な舞台でした。だってあんなお洒落なメリーゴーランド、あります!? でも馬の像がちゃんと使い回されているのにもニヤリ、でした。
 三階B席からオペラグラスも使わず全体を眺めていただけなのでアレなんですが、主人公の魅力ってのは結局は口の上手さと歌声の甘さ、多少の金払いの良さや権力…ってことなんでしょうかね? だって所詮ただのおっさんで単なるクズの色魔なんですよマジで。冷静に考えていいところは全然ないし、口説いた女性を単なる頭数でしか考えていない、セックスした数だけを記録し何かと競い勝った気でいる救いようのない愚か者なわけです。犯罪に対する刑罰を受けるべきなのはもちろんですが、神の罰が…とか地獄に堕ちて報いを…なんと高尚なレベルでは考える必要がない俗物、獣同然と言ったら獣に失礼なくらいの男なのです。雄がハーレムを作る動物はいろいろあるけれど、それはみんなこんな理由じゃないでしょう。相手への愛も尊重もない、ただ見下しやり込めてものにした気になっているしょうもない男で、なんでみんながヨロメロしちゃうのかぶっちゃけ全然わからないわけです。
 でも、女性陣はみんなけなげでまっとうで、踏み留まるのがいいですよね。特にエルヴィーラは、ドンナ・アンナにはオッターヴィオがいるしツェルリーナ(石橋栄実)にもマゼット(近藤圭)がいるけれど、彼女には守ってくれたり頼れたりする男性キャラクターがいなくて、でも単身なんとか踏ん張り通すじゃないですか。偉い!と思いました。
 当時の人が観るときとは、シメの説教パートなんかも含めて今の受け取られ方は違ってきている作品なのかもしれませんが、ちょいちょいユーモラスなところもあり、複雑なストーリーやドラマ展開みたいなものを楽しむのではなく、ごく簡単なあらすじと設定だけ押さえてあとは音楽を楽しむような作品なのかもしれません。観ていて理解不能とか気に障って不愉快で仕方がない、とかいう感じはなく、おもしろかったです。キャストも私にはみな過不足なく歌えているように聞こえて、満足でした。





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二兎社『歌わせたい男たち』

2022年12月06日 | 観劇記/タイトルあ行
 シアターイースト、2022年12月4日18時。

 仲ミチル(キムラ緑子)はある都立高校の音楽教師。売れないシャンソン歌手からカタギへの転身を果たしたばかりで、この仕事をなんとしてでもキープしたいという強い決意でいる。今日はミチルが初めて迎える卒業式。ピアノが大の苦手なのに国歌や校歌の伴奏を命じられたため、早朝から音楽室でピアノの稽古だ。だが緊張のせいかコンタクトレンズを片方落としてしまう。校長の与田(相島一之)はミチルを気遣いながらも、「君が代」をちゃんと弾かせることに異様なこだわりを見せる。ミチルは仲の良い社会科教師の拝島(山中崇)から眼鏡を借りて事態の打開を図ろうとする。しかし養護教諭の按部(うらじぬの)から、拝島が「ゴチゴチの左翼」と聞かされて…
 作・演出/永井愛、美術/大田創。2005年初演、08年に再演された作品の14年ぶりの上演。高校の保健室を舞台に、卒業式での国歌斉唱をめぐる教師たちの攻防を描き、大きな反響を呼んだ「笑える悲劇」。全1幕。

 持っていたチケットがコロナによる中止で一度飛んだのですが、無事に振り替えていただき、出かけてきました。
 オーバーにパースがついた保健室と屋上のセットが、すでに不穏で怖かったです。置かれた小道具とかとズレてるんだもん、その歪みがもう怖い。そんなわけで「笑える悲劇」というよりは「笑えるホラー」というくらいに、笑えるけどとにかく怖い舞台でした。
 怖いのは、これが再演当時の2008年に設定されている物語であることで、つまり今にアップデートしちゃうともう成立しない舞台なんだってことです。かつてこんなことがあったということが今はもう忘れ去られつつあるから、なかったことにされつつあるから。2019年に最高裁で、不起立への減給処分が取り消されたにもかかわらず。今年2月、ILO/ユネスコが日本政府に国歌斉唱強制の件で再度勧告しているにもかかわらず。私ももちろんこれらを知らず、プログラムから引き写しているだけではあるのですが。それに関しては忸怩たる思いがあります。もっと関心を持っているべきでした。
 でも国旗、国歌に関していろいろな騒動があったことはある程度は知っているつもりですし、私もなんのコンサートか競技だったかな、起立を求められたことがあったときに立たなかったことがありました。そのときはわりとそもそもそのアナウンスを聞いていない人も多いくらいの雑然とした雰囲気で、座ったままでも悪目立ちするとか周りから非国民と罵られるとかは全然なかったわけですが、私はそのとき国旗や国歌に思うところがあるというよりはその場にはふさわしくない持ち出され方だった気がして(とはいえなんの場だったかよく覚えていないのですが…)、それが承服しかねる気がして立たなかったのですが…ともあれそれこそ学校の式典とかでもないと、国旗掲揚や国歌斉唱に立ち会うことって普段の暮らしで意外とないのではないかと思います。つまり普通の人は日常的にあまり考えないですませてしまいがちな問題だということです。でも、突き詰めるとこの作品が描くようにいろいろな面で問題がある問題なわけです。プログラムの内田樹の寄稿はとてもわかりやかく、また共感できるものでした。
 校長先生は「国歌を歌わせたい男」だけれど、拝島先生だって「シャンソンを歌わせたい男」であって、人に何かを強制、強要しようとする、まして歌のようなまず喜びや愛から歌われるべきであるものを…という点で、同じと言えば同じなわけです。ではミチルは女性だから、女がいつも強制される側で被害者かというとそれも怪しくて、校長におもねっているように見える片桐(大窪人衛)先生とのらくら傍観者ぶっている按部先生って実はけっこう裏表なんじゃないかと私は感じて、それがいかにもな男女差だなーと思ったりもしたのです。特に意見は表明せず、うまく逃げていなしているような按部先生の処世術はすごく女っぽくて、こういう人は男に生まれていれば逆に片桐先生のようにゴリゴリに活動していたんじゃないかな、と思ったのでした。
 そういう意味では校長と拝島先生の論争を観ていて私はちょっとエモさを感じてしまって、なんかちょっとBLっていうか古のやおいの香りがあるよな、とかあらぬことを脳の端っこで感じてしまったんですよね。それはお互い真剣で、でも対立していて、でも相手のことを心底嫌ったり憎んだりはしていなくて、自分のためにも相手のためにも説得しようと言葉を尽くす、その対等な感じと真剣さの構図が、実にエモーショナルで、よくできたBLの構造に似て見えたからです。結局このふたりの論争はホモソーシャルな関係でのものにすぎないのではないか、異性とは違う形の議論になるのではないか、とは思うし、それは校長も拝島先生もミチルに対して違う論じ方をしているのでよくわかりますよね。
 そういう、権力勾配とか性差別なんかの構図も見える、本当に怖ろしい舞台だったと思いました。要するに根っこは同じで、他者への尊厳が損なわれている、基本的人権が尊重されていない、という恐怖です。単に校長と拝島先生のどっちが正しいか、というだけでは終わらないのです。だってかつては校長も内心の自由に関して生徒たちに抗議していたくらいなんですから。それが今や、お笑いにしかならないズレたスピーチしかできない人になってしまっているんですから。その根っこにあるのは人権に対する無理解でしょう。怖い、悲しい、恐ろしい。
 でもミチルが芸術に生きていて高尚かと言えばそんなことはないわけで、でも彼女がこの職にしがみつこうとし国歌に関して深いことを考える暇がないのは彼女が女性だからで、女がひとりで普通に働いても普通には食べられないという残念な現実があるからです。それはミチルのせいではない、彼女の自己責任では絶対にない。もちろん歌手としての才能が云々という次元の問題でもないのです。国民をそんな状態に置いている国家のために誰が国歌なんか歌うかよ、と観ていて私は思います。本当は素直に国を愛したいのに、気持ちよく国歌を歌いたいのに、国がそれに足るものであってくれないのです。
 ミチルが歌うのは「聞かせてよ、愛の言葉を」。愛の言葉だけ聞いていたい、話していたい。それが人というものです。でもそうもいかないのもまた人の世なのでした。なかば呆然と、ひとり口ずさむように歌うミチルと、絞られていくスポットライトのせつなさに、私は泣きました。怖かった、悲しかった、哀れだった、でもどうしたらいいというのだろう、私たちはこれからどうすべきなのだろう…
 そんなことを、考えさせられました。





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ケイト・クイン『亡国のハントレス』(ハーパーBOOKS)

2022年12月05日 | 乱読記/書名は行
 第二次大戦のさなか、ドイツ占領下のポーランドに「ザ・ハントレス」と呼ばれた殺人者がいた。森で人を狩り、子供や兵士を殺した冷酷な親衛隊将校の愛人。その女に弟の命を奪われた元従軍記者の英国人イアンはナチハンターとして行方を捜し、1950年春、手がかりを追って大西洋を渡る。一方、米国ボストンでは、17歳の娘ジョーダンが父親の再婚相手に不審を抱き始めていた…本の雑誌が選ぶ2019年度文庫ベストテン第1位の歴史ミステリー。

戦場のアリス』もおもしろく読みましたが、これもおもしろかったです。モデルがいいのはもちろんあるかもしれないけれど、キャラクターがみんな魅力的で愛嬌があって、お話がおもしろいというのもあるけれど彼らの日々を追うのがとにかく楽しかったです。イアン、トニー、ニーナ、ジョーダン、ルース…みんなものすごく奥行きがある、素敵な人間でした。
 お話としては、ローレライの正体に何かギミックがひとつあるのかな、だからセブのことが語られないのかな、そのどんでん返しがクライマックスなのかな、読者もそこである種の裏切りを作品から受けることになるのかな…とやや身構えて読んだのですが、そこは素直な作りでよかったです。そしてこれはこの「狩り」を通して、みんながトラウマを乗り越え何かを手に入れるお話になっているんですね。そこがいい。
 個人的には、ニーナがローレライを殺して終わり、みたいにならなくて本当によかったと思いました。彼女もまた傷を乗り越え、成長し変化したわけです。こういう作品は、女だって人間だ、と言いたいがあまり女にだって酷いこともできる、という方向に走ることがままあると思うのですが、そうでなくてよかった、と本当に安心しました。
 逆に言うと男も女もなく怪物は怪物でローレライはそれだ、というのが結論なんでしょうけれど、そこはあまり深く掘られていませんでしたし、私はローレライもまたわりと普通の人間だったんだろうな、と思いました。命令されたからやっただけ、むしろ有能で責任感が強くちゃんとしていて、戦後に人からそれは悪いことだったんだと言われてもでも当時はそれが正解だったんだし自分のせいじゃないし、と考えて自分を守り、追われたから逃げただけで特に悪びれていない、ごく普通の人間なんじゃないかと思うんですよね。自分もその立場だったらそうなりかねない、と私は思います。でもだから許されるというものではないし、だからこそこの作品はそこを掘らなかったんだと思います。そこがテーマの物語ではないので。
 そして、逃げて、過去から目を背けて、逆に言うと心理的には留まり続けていたローレライは変われず、成長できず、トラウマも乗り越えられず、だから捕まったわけです。これはそれを描く物語なんだと思いました。万物は流転するのです(ちょっと違うか)。
 エピローグは1年後、さらにその8年後に判決が出たことを報道するイアンの記事で締められていて、そのとき彼の妻がまだ傍らにいるかは描かれていないのだけれど、それはまた別のお話、という感じなのもいいなと思いました。そうであれ!(笑)
 あとは、ダンはもちろん気の毒だったしルースにもまだまだこの先乗り越えなければならないことがあるのかもしれないけれど、ジョーダンがアンネリーゼから得られた「世界」のことはやはり印象深く、禍福はあざなえる縄のごとしとかいうとこれまたちょっと違うのかもしれませんが、やはりよかったねとか、根っからの悪人というものはいないのだろうか、とか考えてしまいます。ジョーダンを追い出すためもあったかもしれないけれど、やはり女性の先輩として、親切として人生の指針として、「あなたは何が欲しいの?」とアンネリーゼがきちんと尋ねてくれたからこそ、ジョーダンは「あたしは世界が欲しい」ということに気づけたのだし、それはそれこそ性別問わずこの世に生まれた人間が当然持っていい希望であるはずなんですよ。人は幸せになるために生まれてくる、というのと同じくらい自明のはずなのです。でも女子は、誰からも尋ねてもらえない。尋ねてもらえればそれが望みだったと自分で気づけるのに。「女がしたいのは何がしたいのか尋ねてもらうこと」、勝手に決めつけられ仕向けられるのではなく、ただ人として尊重されること。歪んでいるしゆるやかすぎたけれどこの女性同士の一瞬の連帯が、彼女の人生を変えました。それはルースに、ニーナに、友情や親愛の情として広がっていくことでしょう。そこに確かに希望を見る、そんな物語だったと思いました。
 次作も楽しみです!





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