駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

平成中村座十月大歌舞伎第二部『綾の皷/唐茄子屋』

2022年10月20日 | 日記
 平成中村座、2022年10月17日15時45分。

『綾の皷』は作/有吉佐和子。1956年初演の舞踊劇。謡曲『綾鼓』を題材に、室町時代に華姫(中村鶴松)に身分違いの恋をする庭掃きの三郎次(中村虎之介)が、綾糸でできた飾り物の皷を鳴らせたら望みを叶えてやると言われて…という物語。
『唐茄子屋』のサブタイトルは「不思議国之若旦那」。作・演出/宮藤官九郎の新作歌舞伎。古典落語の「唐茄子政談」を題材に、浅草の祭り囃子が鳴り響く中、達磨町の八百八(荒川良々)が吾妻橋から身を投げようとする男を助けると、それは甥の徳三郎(中村勘九郎)で、彼は山崎屋の若旦那で放蕩息子、店の金に手をつけて吉原遊びをして一文なしになったと言うのだが…という物語。

 浅草寺の裏手にできた仮設劇場は靴を脱いで上がる形で、いわゆるSS席みたいな松は土間に座椅子に座布団、その後ろや二階は竹でベンチみたいな椅子に座布団でした。私はクレカ先行でたまたま取れた席が二階正面1列目で真ん中寄りっぽくてラッキー!と思っていたら、なんとお大尽席と名付けられた、お相撲の枡席みたいなお土産だのドリンクサービスだのが付いているっぽい豪華四席のみのSSS席のすぐ脇の席で、ちょっとした格差が感じられておもしろかったです(笑)。他に桜という、ほとんど舞台の袖じゃん、みたいな二階席もありました。ともあれちゃんと花道もある、ちゃんとした歌舞伎の芝居小屋で、雰囲気あって素敵でした。お尻は痛くなりましたけれどね…

『綾の皷』は、舞台奥に置かれた屏風が場面ごとに描く季節を変えていって時間経過を表すという素敵なもの。亡くした息子が生きていれば三郎次と同い歳、ということから彼に鼓を教える中年女、秋篠が中村扇雀。やがて彼女は彼を愛しく想うようになってしまうのですが…という展開がせつない。結局、三郎次が鳴らせることに成功した鼓は実は秋篠がすりかえたもので、でも華姫は自分の驕慢を反省し、三郎次は姫への妄執が晴れて芸の道に進もうと決心し、そして秋篠は病に倒れてはかなくなる…という、なんとも静かにせつなく美しい物語でした。
『唐茄子屋』は、まあもとの落語がおもしろいんだろうな、という印象だったかな。つっころばし役の勘九郎はそら生き生きと楽しそうでした。瓜ふたつのキャラとかそれをひとり二役で演じるとかさらに入れ替えなりすましの展開になるとかよくある話ですが、今回はそこを七之助が演じていてこれまた楽しかったです。やじゅパパが悪人ポジションの因業な大家役をやっているのもおもしろかったです。あと片岡亀蔵がホントええ声で、惚れてしまう…
『不思議の国のアリス』要素が散りばめられて…というほどには蛙は白ウサギではなかった気がするし、チェシャ猫もハンプティダンプティも赤の女王も出てこず、吉原の大門の代わりに小門なるものがあって若旦那がそこを通ると若旦那(小)の中村勘太郎になる、ってだけだった気がしますが(そして蛙はオタマジャクシになる(笑))、ここは親子なんだからホント歌舞伎って卑怯ですよね(笑)。最後はもうちょっと、徳三郎が活躍してみんなも協力して大家をやり込めて問題解決、大団円!みたく盛り上げた方がよかったかな、とは思いました。なんとなく「アラこれで終わり?」って感じだったので。別に人間的成長とかは見せなくてよくて、ずっとただのしょーもない若旦那でいいんだとは思うんですけれど、それはそれとしてこのエピソードはこれがオチです、という演出が弱かった気がしたので。
 でも荒川良々がさすが上手くて、中村獅童の役はなんかよくわからなかったけどやはり大活躍で、下ネタはつまらないとか滑るとかより客席をいたたまれなくさせていたと思いましたが、まあ全体としては楽しかったので良いのではないでしょうか。
 一部演目を変えて来月いっぱいまで、どうぞ盛り上がりますように。


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シベリア少女鉄道『アイ・アム・ア・ストーリー』

2022年10月16日 | 観劇記/タイトルあ行

 シアター・アルファ東京、2022年10月13日19時。

 これは私の物語。決して華やかな主役なんてガラじゃないけど、たくさんの人たちと出会い、たくさんの人たちを見てきたから、そんな私だから伝えられる物語があると思う。私だけが伝えられる物語があると思う。たとえるならここは皆の思い出を集めた小さな雑貨店。さあ、民よ私に跪け、崇め讃えよ、命乞いをしろ。とても穏やかで優しくて、どこかせつない物語がやってくる…
 作・演出/土屋亮一。全1幕。

 シベ少、名前だけは聞いていたんですよね。今回は漫画家のとよ田みのるのイメージビジュアルが可愛かったのと、上手く都合が合ったのでシュッとチケットを取って出向いてきました。しかしこの劇団名はどこから来ているんだ、♪か~なし~みのぉう~らが~わになぁにぃがあるの~
 恵比寿駅からまあまあすぐの劇場の客層は若く、久々に「わあ、自分、おばさん!」と思う空間に身を置きました。客席に対して舞台が低く、手前に場面を作って役者に座ったり寝たりされると後方座席からは前の観客の頭で遮られて何も見えなかったので、これは芝居の作り方を改善していただきたいと思いました。あとは舞台奥上手にも出入り口を作っていたけれど、そこから出入りする役者が上手手前の壁に遮られて上手端の席の観客からは全然見えず(3席センター寄りの私でギリだった)、ウケる場面でも全然ノレていなかったので、この見切れも解消していただきたいです。こんな小さいハコでこの不具合は残念でした。
 作・演出の土屋氏が前説?に出てくるのは毎度のこととなんでしょうか。しかし今回はこれがキモだったのですね。やたらと役者の人数のことを言うな、とは思っていたのですよ。でも役者が10人だからって11人いる!みたいな話でもなかろうし…とかしか思っていなかったんですよね。あとは、何者でもない自分がこんな挨拶を…みたいなのも、単なる謙遜ギャグとしか思っていなかったわけです。それがまさか、こう作品に直結してくるとは…!
 序盤は何やらのどかな離島の人々の暮らしが点景的に描かれて進みます。しかし暗転による場面転換ばかりだなとか、短い場面ばかりでテレビドラマじゃないんだから舞台って演劇ってもっとこうさあ…とか思っているうちに、小さい島ながらどんどん出てくる役が増えていき、まあ小さい座組だと役者がひとり何役かしたりするよね、とか思っていたら…あとは観てのお楽しみ(笑)。そうキタか!という、これはそんな「私の物語」なのでした。なんだろう?と興味を惹かせるという点でも、作品の本質としても、タイトルが秀逸で素晴らしい!!
 思えば、ヨシオ(川井檸檬)はハナから診療所に入り浸っていてクドー先生(野口オリジナル。てかこれはやはり『Dr.コトー診療所』から来ているの…か?(笑))に憧れているようだったけれど、だからって医大に行きたいとかそういう具体的なことは言いませんでした。つまり、先生は東京からやってきた島唯一の医者で、優しくて頼りになってみんなから慕われている、人気者なわけで、ヨシオは「そういうものに私はなりたい」ってだけだったのでした。まあ中学生っぽいと言えば言える、しかしそれがまさか…というお話で、笑うわ怖いわ舞台裏が心配になるわな(しかしオマケのネタバレペーパーを見るとあたりまえですが周到に計算されていたことがわかる)とてもおもしろい舞台でした。私だったら最後にいい話にしちゃうオチをつけると思うんだけれど、この作品はやりっ放しで暗転して、明るくなったら舞台は空で終演アナウンスが流れ、「あっ、さっきので終わり!?」となった客席がどっと沸く、までがセットの作品だったのでしょう。鮮やかでした!
 女優さんは見分けやすいんだけど、男優さんは私の目にはそこまで特徴的でなかったり役もそこまで特徴がないものも多く、どれを誰がやってたんだっけ?ってのが判別しにくくなるのもかえってなかなかミソでした。個人的には、ちょっと変わった声の小関えりかが素敵だなと思いました。瀬名葉月もよかったな(笑)。
 年2回くらい、基本的にはちゃんと新作を上演している劇団なんですね。また観てみたいです、おもしろい観劇体験でした。



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東京バレエ団『ラ・バヤデール』

2022年10月13日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 東京文化会館、2022年10月12日18時半(初日)。

 振付・演出/ナタリア・マカロワ(マリウス・プティパの原振付による)、音楽/ルトヴィク・ミンクス、舞台美術/ピエール・ルイジ・サマリターニ、衣裳/ヨランダ・ソナベント、指揮/フィリップ・エリス、演奏/東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。
 この日はニキヤ/上野水香、ソロル/柄本弾、ガムザッティ/伝田陽美、ブロンズ像/池本祥真。全3幕。

 …うーむ、眠いというかタルい、なんかぼやぼやした舞台に見えました。私が『白鳥の湖』や『ジゼル』ほどこの作品の音楽を熟知していないせいもあるのかもしれませんが、何を踊っているのかよくわからなかった、というか…イヤあらすじはわかっているからなんの場面かとかはもちろんわかるんですけど、感情が伝わってこないというか…芝居っ気がない、のかなあ?
 過去にはこちらこちらなどを観ていて、おもしろく観た記憶もあるのですが、この西洋人のなんちゃって東洋みたいな世界にぼちぼち辟易してきたこともあり、この演目の観劇飽和量を個人的に超えてしまったのかもしれません。
 来週は『ジゼル』をまた観るんだけど、大丈夫かなあ…



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『A・NUMBER』

2022年10月09日 | 観劇記/タイトルあ行
 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA、2022年10月8日12時。

 クローン技術が進み、人間のクローンを作ることは技術的には可能になったが、法的にはグレーゾーンにあたる、そんな近未来。ある日、自分がクローンであることに気づいたバーナード(B2)(戸次重幸)は、父・ソルター(益岡徹)に自分を作った理由を問う。ソルターは、亡くなった実の息子を取り戻したくて医療機関に息子のクローンを作り出してもらったと言うが、実は医療機関ではソルターには秘密で、ひとりではなく複数のクローンを作っていたらしく、しかも実の息子バーナード(B1)(戸次重幸の二役)は生きていて…
 作/キャリル・チャーチル、翻訳/浦辺千鶴、演出/上村聡史。2002年ロンドン初演、全1幕。

 チラシで、ふたり芝居でクローンがモチーフ、とだけ知って自分が絶対好きそう、とチケットを手配した舞台だったのですが、作者はトム・ストッパードと並び称される英国演劇界の有名どころなんだそうですね。『クラウドナイン』『トップ・ガールズ』のタイトルは知っていましたが、私は作者名は初めて聞きました、不勉強ですみません。
 ともあれふたり4役70分の緊張感あふれる芝居、堪能しました。場面数はいつつ、かな? 暗転で途切れて、益岡徹は舞台に残って椅子など動かしたり、そうでなければ客席に背を向けて気配を消して佇み、その間に引っ込んだ戸次重幸が別の「息子」になって登場してきて新たな場面が始まる、という構成でした。怖ろしい…しかも最初にただの窓だった奥の壁が第2場以降は開いて、過去かどこかの子供部屋のようになるんだけれど、それがまた怖ろしいのです…全体としては無機質な部屋のセットで、でも床は八百屋でその不安定さも怖く、心理描写を表す照明の明暗も怖い(美術/乘峯雅寛、照明/沢田祐二)、たまらない舞台でした。
 ふたり4役と言っても益岡徹はずっと父親のソルター(劇中では名前は出てこないけれど)を演じていて、戸次重幸が3人の息子を次々と演じます。父親はともかく、息子の名前もまた劇中で出てこないのが怖ろしい。父は全然子供の名前を呼ばないのです。そりゃ目の前にいて会話しているとそういうものかもしれないけれど、不自然と言えば不自然なわけで、それがまた怖ろしいのです。
 第1場では息子がなんかわあわあ言うのを父親がなかなか真剣に取り合わない感じなので、観客の心情は自然と息子側に寄り添うよう誘導されているんだと思います。そして彼らの行きつ戻りつする会話から、彼らの状況が見えてくる。ところが次の場面ではずいぶんとやさぐれた別の「息子」が現れるので、観客は困惑させられ、また状況を把握していき、やがてゆっくりと父親側に沿うようになるのでしょう。さらに3人目の息子が登場すると、彼はソルターの言うことを全然取り合おうとしません。そしてラストに至って、オチが鮮やかに決まるのでした。お見事でした!
 私にとっては最後の暗転が実にスリリングでした。わあ、すごいこと言っちゃったよ、この続きなんてある? あ、明るくなったらふたりが気をつけして立っている、あらお辞儀したコレで終わりだアレがオチだったんだわあぁすごい!というような感じだったのです。終演後、リピーターチケット売り場に行列ができていました。さもありなん!
 これはクローンの可否みたいなものを問う作品ではなくて、父性批判の物語ですね。人間のクローンを作ることが可能になったんだとしても、人工子宮は開発されていないんだろうし、卵子も子宮も産道も、母乳も養母も子供には必要なはずなのです。でもそれはこの物語には出てこない。ソルターに見えていないからです。彼は自分の理想の子供が、息子が欲しかっただけなのですから。そうは見えなくても精神的にはとてもマッチョで、なんなら実際に暴力的な男なのでしょう。妻を鬱にさせ自殺に追い込み、残された幼い息子はネグレクトしなんならこれまた手を上げていたに違いないのです。そして息子が懐かないからと言って別の息子をクローンで作るような人間なのです。これまた、凍結されていた妻の卵子を彼女の意志に反して勝手に使用したに決まっているのでした。
 男だから、父親だからということに留まらず、そもそも人間は世界に対してこういう傲慢さを持っているのではないか、ということをこの作者は、作品は突きつけているのかもしれません。俺が作った、人間がこの世を作った、だから相手は俺に依存するべきだし世界は人間のコントロール下にあるべきだ、という不遜な思考。それに対するマイケル・ブラックなる名前を持った「息子」の(この名前は誰がつけたものなのでしょうか、どんな意味が込められたものなのでしょうか。ソルターは塩商人ということでそれこそ商人、ビジネスライクな、損得しか考えない…というようなイメージを重ねられているのだと思うのですけれど)飄々と自立した生き方のカウンター・パンチよ! 彼は自分の妻を持ち子供たちを持ち職業を持ち趣味を持ち、世界を愛し自分の人生を愛している。自分がクローンであることや遺伝的な両親のことはハナから単なる事実として教えられていて、彼にとってはそれはそれでそういうものだということでしかなくて、目の前の養父母や学友や世界が明るく優しかったからそれで十分だったのでしょう。健全で健康で、普通のことです。ソルターは彼に悩んだりグレたりしていてほしかったのでしょうが、つまり自分の息子として自分のそばで育たなかったことに屈託を持っていてほしかった、自分の影響下にあってほしかったわけですが、そんなこたマイケルには全然関係のないことなのでした。それでソルターは焦りとまどいキレて暴れる。彼が自分の影響下にいる息子がいないと自分を保てない、そんなつまらない人間だからです。でもそれもマイケルには関係ない。彼は自立し自律し、幸福なのです。幸せかと問われて彼はスッパリ応えます、「はい、すみませんけど」。それで幕。
「すみませんけど」という言葉にはやや皮肉めいた響きもあって、その意味ではマイケルはソルターに求められていることがわかっていて、でもあえて応じなかったのだ、とも捉えられます。でもそれはマイケルにソルターへの思慕や屈託が実は多少はあってたとえばプライドや意地からそれを隠していたのだ、ということを別に意味しない。単に見当違いのことをあれこれ言われても人は困惑し多少立腹してこういう反応をするに違いないからです。マイケルは本当にソルターとは無関係に生きているのでしょう、世界が人間と関係なく存在するように。人類が滅亡しても地球はなんら痛痒を感じないように。宇宙がただあるがままにあるように。
 世界にとって人間の方こそが数あるもののひとつにすぎないのに、人間は思い上がっている…そんなことを描いた作品のように思えました。タイトルのナカグロは日本版オリジナルのもののようですが、英語では定冠詞か複数形になるはずのところをこのタイトルになっているのだそうで、それを考えるといい表現だなと感じました。
 一般的に想像される「クローン」は現実的ではないということは科学的にすでに明らかになっているそうで(同じように育てても同じような人間にはならないということが多々ある、という問題を別にしても、単に成長過程でゲノムが変化してしまうのでコピーにはならないということがわかったのだそうです)、この作品が初演された2002年が「クローンをテーマに扱える最後の時代だったかもしれない」とプログラムではされています。「そもそもコピーは機械の発想です」と一刀両断でもありますが、ロマンチックな妄想を掻き立てるモチーフではあると思うので、寂しいようでもありますね。でも人間とは何か、アイデンティティとは何か、幸福とは何か…というようなテーマは永遠で、手を変え品を変えモチーフを変えて語り続けられることでしょう。わかっていてもなお書いてしまうのが作者なら、なお観てしまうのが観客なのだと思います。良き作家との出会いでした、また別の舞台を観てみたいです。




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『住所まちがい』

2022年10月08日 | 観劇記/タイトルさ行
 世田谷パブリックシアター、2022年10月6日19時。

 社長(仲村トオル)、警部(渡辺いっけい)、教授(田中哲司)が、社長は女性との密会のため、警部は警備用品を購入するビジネスのため、教授は自身の最新出版書のゲラチェックのため、同じ場所にやってきて鉢合わせする。この場所はなんなのか、その住所は3人それぞれにとって「正しい」ものだったが…
 伝統的なコメディア・デラルテの手法を現代的に蘇らせた原作を、現代の日本にスライドさせて日本初上演。原作/ルイジ・ルナーリ、上演台本・演出/白井晃、翻訳/穂坂知恵子、溝口○夫、美術/松井るみ。1990年ミラノ初演、全1幕。

 現代日本が舞台なので、渡辺いっけいの役は元警部で今はシークレットサービスということで「警部」と呼ばれています。でも商人、博士、隊長、下男、小間使い役が定番の仮面劇…というのがイタリアの伝統なんだそうで、そこから来ている配役というかキャラ立ての芝居なんだそうな。プログラムの蘊蓄のすごいこと! 勉強になりました。なのでコムちゃんの掃除婦/謎の女(朝海ひかる)は小間使いの系譜に入る役どころなのでしょう。白井さんはかつてルナーリ作『パードレ・ノーストロ』に出演していて、それでいつか演出を、という二十年来の約束をついに果たしたものだそうです。
 130分の4人芝居(というか最後の20分くらい以外は3人芝居)、というので期待して出かけましたが、期待に違わぬおもしろさでした。不条理劇っぽくもありシュールレアリスムでもありSFでもあり、そしてスピリチュアルでもあるような、でもとても今日的でもあるような…そんな作品でした。
 原題は『Tre sull’ altalena』、英題は『Three on the Seesaw』だそうで、「シーソーの上の3人」という意味だそうですが、このシーソーはあのギッタンバッコンするアレじゃなくて、円盤状で、回転して上下にもスイングするような、複数人で漕いで揺らして回して遊ぶような遊具のことだそうです。私も見たことはあるのかなんとなくイメージがつくので、日本にもないことはないんだと思いますが、なんて名前なんでしょうね…? ともあれ、そんな不安定だけど連携し合っている3人の関係というか状態、状況を描いた芝居なので、粗訳についていた仮題をそのまま、「『この世』のつもりで来たら『あの世』だった、という場所の間違いという意味も込め」、また作品本来の喜劇性がより伝わるように、このタイトルにしたということでした。なんとなく漠然としている感じが、ちょうどよかったように私には感じられました。イタリア演劇の伝統とかフツーの人にはなかなか伝わらないし、といってシーソーだとやはりふたりで乗るものなので(まあ人間と神様とで乗ってもいいんだけれど)違うイメージを喚起してしまいそうですしね。
 大気汚染の警報で3人が一晩閉じ込められることになるこの部屋は、生と死の間の世界のようでもあり、キリスト教でいうところの最後の審判を待つ煉獄のような場所でもあるのでしょう。日本と欧米とではそれこそ死生観というか宗教というか神様が違うのでなかなか難しいものですが、社長が盛り塩を始めたり、教授だったかな?がギリシア神話の女神たちの話をし始めたりして、いい感じにブレンド(?)されて、それがラストに謎の掃除婦からの謎の美女、コムちゃんに結実(?)して、良き仕上がりになっていたと思いました。まあ最終的にはこの神様はマリアさまとかキリストとかメシアとかより弥勒菩薩かな、とは私は思いましたけれどね。おお『百億の昼と千億の夜』よ!
 あとやはり笑ったのは作家名の混同のくだりで、原作戯曲ではツァラトゥストラとツルゲーネフとかなんだそうですが、塩野七生と佐藤愛子とか宇野千代と上野千鶴子とか私はめっちゃ笑いました。でもお若い方にはちょっとぽかんかも、そして登場人物たちもせいぜいアラフォーなんじゃないかと思うと世代的にちょっとどうだろう…? でもこれくらい教養で笑ってほしいですけれどもね! そんなわけでこのセレクトをした同世代だろう白井さんを私は支持しますけれどもね!(笑)
 日本に設定しなおしてさらにおもしろかったのが、名前のくだりでした。最初に社長と警部だけの場面で、警部役の渡辺いっけいが「田中です」と名乗ります。一般的な日本人の名字、ということもあるけれど、まだ出てきていない教授役の田中哲司の名字でもある。そのあと結局教授が仲村と名乗り社長が渡辺と名乗る…んだったかな? 要するに中の人の名字がくるりと一周入れ替わっているのですが、でも田中、渡辺、中村って鈴木、佐藤、小林と並ぶ日本人の代表的な、というかとにかく数が多い名字ですよね。そこがすごくいい! 私はこれがやりたいがためのキャスティングだったのか?とすら一瞬考えてしまいました。そんなわけなくて、逆にこの3人だったからこそこういうネーミングにするアイディアが出たんだと思いますけれど。そもそも原作は商人とか隊長とかの役職?がそのままキャラクター名なんでしょうからね。
 で、これが、時空の歪み?か何かのせいで、最後は社長の名が仲村で、警部が渡辺で教授が田中ということになって終わる。もうニヤリとしちゃいましたよ! 大好きセンスオブワンダー! 冷蔵庫のアイディア以上にSF的だと思いました。
(ちょっと脱線しますが、今萌え萌えで見ている華流ドラマ『宮廷の茗薔』は現代北京に生きるOLのヒロインが康熙帝の時代にタイムスリップして皇子と恋をするお話なんですけれど、流れ星とかワームホールとかなんとかでそういう時空の重なり合いとか歪みが生まれてふたりは出会い、恋に落ちるのですが、その後ヒロインがいざタイムスリップして再会すると、その歪みのせいでお互い恋に落ちた記憶が飛んでしまう…という展開なのです。この舞台の、翌朝ドアの向こうの街の様子が変な感じ、そして彼らが再び部屋に戻ってきたときには名前が変わっていることは、こういうパラレルワールドとかタイムパラドックスみたいなものを思わせて、私はおもしろすぎてときめきまくりでした)
 また、原作戯曲には「最初の登場人物が入ってくる扉は舞台中央にあるか、もしくは極めて目立った形にしていただきたい」という指定があるそうですが、それは今回、舞台と客席を仕切る部分にあるとされている壁にあるとされているドアになっていて、教授は上手の壁のドアから、警部は下手の壁のドアから出入りし、舞台奥の壁には掃き出し窓が作られています。社長は客席登場して舞台にかかる数段の階段を上がり、いわゆるパントマイムでドアを開けて出入りします。つまり客席はハナから舞台のこの部屋に対して異空間、異界とされているんですね。観客はそこからこの部屋を眺める構造になっているのでした。私なんか今回3階てっぺん席から観たので、さらにまさに神の視点で、もうスリリングこの上なかったです。
 そういう構造はもちろん、掛け合いの会話劇としても極上におもしろく、演じる方は大変でしょうがユーモアもよく出ていて、とてもおもしろかったです。ラストは、つまるところ姦淫とか強欲とかうぬぼれといった罪を悔い改め、清く正しく生きなさいよ…ということなのかもしれませんが、説教臭くならずユーモラスに、おかしみとせつなさと少しの恐ろしさも感じさせつつ綺麗に終わって、よかったかと思います。

 ポストトークがある回で、コムちゃんが涼しい顔で「今日あともう一回できる」というのに対してぐったりする男優3人、というのもおもしろかったですし、これが有観客でできてよかった、無観客配信のみとかだったらゾッとする、と語られるのにも胸が熱くなりました。そして仲村トオルの仲村は芸名で、本名は中村なんだそうです。私にとってはいつまでも『あぶない刑事』の町田トオルくんですが(笑)、それもまた感慨深いものですね…
 豊橋、兵庫、松本、新潟まで、どうぞご安全に。



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