日本青年館、2013年4月9日ソワレ。
大二次世界大戦中、南太平洋に浮かぶとある美しい島。アメリカ軍が進駐するその島に住むフランス人農園主エミール・ド・ベック(轟悠)は軍主催のディナーパーティーでアメリカ人従軍看護婦のネリー・フォーブッシュ(妃海風)と出会う。ふたりはすぐに惹かれ合う。一方、膠着した戦況にうんざりした海兵たちを相手に、ポリネシア人のブラッディ・メリー(英真なおき)が土産物を売りつけていたが…
音楽/リチャード・ロジャース、脚本・作詞/オスカー・ハマースタインⅡ世、脚本/ジョシュア・ローガン、潤色・演出/原田諒。1949年ブロードウェイ初演、2008年リバイバル版上演。1984年宝塚初演。全2幕。
古き良き時代のブロードウェイ・ミュージカルでした。現代の日本で、そして宝塚歌劇で上演する以上、もっと手を加えて欲しかったと思いました。
ますナンバーが長くて単調です。メリハリをつけるか、短くして、むしろ人物を書き込んでほしい。欧米の人間が観るなら自明のことでも、我々にはわからないことが多すぎます。アメリカ人とフランス人の違い、アメリカでの南北の違い、有色人種差別についてあまりにも情報がなさすぎます。
今の我々からしたら、エミールに以前女がいたということにネリーがショックを受けるのはわかっても、それが現地人だからなんだっていうの?としか思えません。それで言ったら我々も演じているのも有色人種の日本人で差別されるらしい側ですしね?
もともとの原作の小説ではエミールとネリーの物語とジョセフ・ケーブル(真風涼帆)とリアット(綺咲愛里)の物語は別エピソードだったそうですが、むしろこちらを掘り下げる手もあったかもしれませんね。
ケーブル中尉は、まっかぜーが素敵だったというのもありますが、本来は学究肌の優男で、軍務を共用する父親との間に確執もあって、もちろん有色人種との恋愛も結婚もとんでもないという育てられ方をしていて…という青年なワケですが、それが義務を果たしたら何もかも捨ててこの島でリアットと暮らすことを選ぶまでになる、というドラマがあるのでした。なのに死に目を見せないなんてもったいないよね、宝塚ならイシちゃんの腕の中で死にゆくまっかぜーを見せるべきだよね…
それにしてもこういう、文明国から来た白人男性と現地の若い有色人種の女との恋、というのがわからん。ひと目惚れというのはあると思うし、第一印象がいいとか悪いとかそら単純にあるのはわかります。でもそのあと、言葉も通じないのに、なんの共通項もないのに、結婚するとか一緒に暮らすとか判断できるほどの恋愛ができるとは私には思えないのです。だって相手のことなんか何も知らないじゃん、わからないじゃん。一時だけ燃え上がっているだけの肉欲に過ぎないんじゃないの?
メリーがリアットをケーブルに引き合わせるのも、最初は意図がわからなくて不快に感じました。母親が女衒かよ、としか思えなかった。ケーブルならリアットを幸せにしてくれる、という根拠や発想の元が皆目理解できないんですけれど…ビリス(美城れん。素晴らしかった、いい仕事するなあ!)の方がよっぽど頼りになるしいい男だと思うよ?
れんたやみっきぃの海兵隊たちの男祭りとかも楽しかったけれどね…従軍看護婦たちの水着ナンバーも楽しかったけどね…
でもモヤモヤしたままストーリーを追うのがつらかったのでした。
あ、イシちゃんはなんてことないスーツ姿でも超絶スタイルが美しい、極めまくった男役振りが素晴らしい。
ふうちゃんはファニーフェイスだしネリーにはちょっと落ち着きがありすぎて見えるくらいすでに出来上がっている娘役で、しかし置き場所がないだろう大変だなとか思わせられる仕上がりでした。
そうだ、冒頭のエミールとネリーの会話とか、母親からの手紙を読んだネリーとケーブルの会話とか、いかにも外国のもので、翻役そのまんまでしたね。日本語オリジナルでこれだけ洒脱な会話の台詞をきちんと書ける脚本家はなかなかいないのでよく勉強してほしいところだけれど、そのままやるとわかりづらすぎることにも早く気づいていただきたいのですが…考えて手を入れろよ頭使えよ、もう!!!(><)
大二次世界大戦中、南太平洋に浮かぶとある美しい島。アメリカ軍が進駐するその島に住むフランス人農園主エミール・ド・ベック(轟悠)は軍主催のディナーパーティーでアメリカ人従軍看護婦のネリー・フォーブッシュ(妃海風)と出会う。ふたりはすぐに惹かれ合う。一方、膠着した戦況にうんざりした海兵たちを相手に、ポリネシア人のブラッディ・メリー(英真なおき)が土産物を売りつけていたが…
音楽/リチャード・ロジャース、脚本・作詞/オスカー・ハマースタインⅡ世、脚本/ジョシュア・ローガン、潤色・演出/原田諒。1949年ブロードウェイ初演、2008年リバイバル版上演。1984年宝塚初演。全2幕。
古き良き時代のブロードウェイ・ミュージカルでした。現代の日本で、そして宝塚歌劇で上演する以上、もっと手を加えて欲しかったと思いました。
ますナンバーが長くて単調です。メリハリをつけるか、短くして、むしろ人物を書き込んでほしい。欧米の人間が観るなら自明のことでも、我々にはわからないことが多すぎます。アメリカ人とフランス人の違い、アメリカでの南北の違い、有色人種差別についてあまりにも情報がなさすぎます。
今の我々からしたら、エミールに以前女がいたということにネリーがショックを受けるのはわかっても、それが現地人だからなんだっていうの?としか思えません。それで言ったら我々も演じているのも有色人種の日本人で差別されるらしい側ですしね?
もともとの原作の小説ではエミールとネリーの物語とジョセフ・ケーブル(真風涼帆)とリアット(綺咲愛里)の物語は別エピソードだったそうですが、むしろこちらを掘り下げる手もあったかもしれませんね。
ケーブル中尉は、まっかぜーが素敵だったというのもありますが、本来は学究肌の優男で、軍務を共用する父親との間に確執もあって、もちろん有色人種との恋愛も結婚もとんでもないという育てられ方をしていて…という青年なワケですが、それが義務を果たしたら何もかも捨ててこの島でリアットと暮らすことを選ぶまでになる、というドラマがあるのでした。なのに死に目を見せないなんてもったいないよね、宝塚ならイシちゃんの腕の中で死にゆくまっかぜーを見せるべきだよね…
それにしてもこういう、文明国から来た白人男性と現地の若い有色人種の女との恋、というのがわからん。ひと目惚れというのはあると思うし、第一印象がいいとか悪いとかそら単純にあるのはわかります。でもそのあと、言葉も通じないのに、なんの共通項もないのに、結婚するとか一緒に暮らすとか判断できるほどの恋愛ができるとは私には思えないのです。だって相手のことなんか何も知らないじゃん、わからないじゃん。一時だけ燃え上がっているだけの肉欲に過ぎないんじゃないの?
メリーがリアットをケーブルに引き合わせるのも、最初は意図がわからなくて不快に感じました。母親が女衒かよ、としか思えなかった。ケーブルならリアットを幸せにしてくれる、という根拠や発想の元が皆目理解できないんですけれど…ビリス(美城れん。素晴らしかった、いい仕事するなあ!)の方がよっぽど頼りになるしいい男だと思うよ?
れんたやみっきぃの海兵隊たちの男祭りとかも楽しかったけれどね…従軍看護婦たちの水着ナンバーも楽しかったけどね…
でもモヤモヤしたままストーリーを追うのがつらかったのでした。
あ、イシちゃんはなんてことないスーツ姿でも超絶スタイルが美しい、極めまくった男役振りが素晴らしい。
ふうちゃんはファニーフェイスだしネリーにはちょっと落ち着きがありすぎて見えるくらいすでに出来上がっている娘役で、しかし置き場所がないだろう大変だなとか思わせられる仕上がりでした。
そうだ、冒頭のエミールとネリーの会話とか、母親からの手紙を読んだネリーとケーブルの会話とか、いかにも外国のもので、翻役そのまんまでしたね。日本語オリジナルでこれだけ洒脱な会話の台詞をきちんと書ける脚本家はなかなかいないのでよく勉強してほしいところだけれど、そのままやるとわかりづらすぎることにも早く気づいていただきたいのですが…考えて手を入れろよ頭使えよ、もう!!!(><)