駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

新野剛志『あぽやん』(文春文庫)

2013年04月20日 | 乱読記/書名あ行
 遠藤慶太は29歳、大航ツーリスト本社から成田空港所に「飛ばされて」きた。返り咲きを誓う遠藤だったが…パスポート不所持や予約消滅といった旅客トラブル解決に奮闘するうちに、空港勤務のエキスパート「あぽやん」へと成長していく…さわやかな空港お仕事小説。

 テレビドラマの方は、一話完結ものが苦手で見なかったのですが、せっかくなので原作を読んでみました。まあドラマ化されたのはシリーズ2冊目のほうですが。
 初めて読む著者でしたが、ミステリー作家のようですね。それが取材してお仕事ものを書いたのでしょうが、なんといっても主人公が女々しくて後ろ向きでプライドばかり高い女の腐ったような男だったのがもの珍しかったです。
 そういうキャラクターとして立てているんじゃないの。おそらくごく普通の男性主人公としてただ普通に書いているんだろうけれど、そこはかとなく嫌らしさが漂うの。一人称形式なだけに逆にある種の客観性が出るのが救いでしたが、読んでいてチクチクイライラさせられました。普通は主人公に共感して、感情移入して、主人公を応援しながら読むものですからね。
 どうせならダーティ・ヒーロー、アンチ・ヒーローにしてしまえばいいのになあ…絶対無自覚だよこの作者。まあ別にいいんですけれどね…機会があれば推理ものも一応読んではみたいと思っています。

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『トゥモロー・モーニング』

2013年04月20日 | 観劇記/タイトルた行
 シアタークリエ、2013年4月18日ソワレ(初日)。

 離婚前夜のジャック(石井一孝)とキャサリン(島田歌穂)。結婚前夜のジョン(田代万里生)とキャット(新妻聖子)。人生の岐路に立つ二組のカップルが、それぞれの夜を迎えていた。「明日の朝」という新たな扉が開くとき、彼らが目にするものとは…
 脚本・作詞・作曲/ローレンス・マーク・ワイス、翻訳・訳詞・演出/荻田浩一、音楽監督・編曲/玉麻尚一。ロンドン、シカゴ、メルボルン公演を経て2011年にオフ・ブロードウェイで上演されたミュージカル。全2幕。

 初日ということで原作者が来日観劇していて、カーテンコールで挨拶がありましたが、この演目の公演で最も大きい劇場での上演だったそうです。さもありなん。キャスト四人の一夜の物語で、もう一声小さい劇場でも親密さが出てよかったかもしれませんからね。でも上品なセットといい、なかなかいい空間でした。
 オギーの訳詞も綺麗に韻が踏まれていて、実力者四人の三重唱四重唱でも美しく聴けました。

 以下ネタバレ。
 二組のカップルは異なる空間にいて、同じ歌を歌っても出会いませんが、台詞の端々から私は、キャサリンはキャットの上司なのかな?と思っていました。そしてどこかで四人が顔を合わせる瞬間が来るのかと。
 その一方で、ジョンとジャックって同じじゃん、同じ名前の愛称じゃん、でもまあ西洋人のファーストネームにはバリエーションがないからな、とかも思っていました。
 しかしこんなギミックがあったのですね。二組は違う空間にいるのではなく、違う時間にいるのでした。
 ジョンとキャットは十年前のジャックとキャサリンだったのです。ワクワクソワソワしながら明日の結婚式を待っていたジョンとキャットは、十年して離婚の危機を迎えていたのでした。
 それがわかると、確かに男性ふたりは背が高すぎて女性ふたりは小柄すぎて、どちらもカップルバランスが悪いなあとか思っていたのも当然だったのですね。ふたりは同一人物だったのですから。
 そしてこれは、どちらのカップルも、一悶着あって乗り越える話でした。すなわちジョンとキャットは無事に結婚し、ジャックとキャサリンは離婚を取りやめました。結婚前夜のことを思い出したからです。
 しかしでは何故、ジャックは、男というものは、浮気をする前に結婚前夜のことを思い出せないのか。遊びだろうとそうでなかろうと関係ない。何故そのときには振り返られないのか、何故そんなに愚かなのか、愛があろうとなかろうと女はそんな男の愚かさを許し続けないといけないということなのか、そんな疑問への回答は当然ながらありません。
 だから私だったら。
 一夜を越えて、ジャックとキャサリンは離婚を取りやめる。その一方で、ジョンとキャットには結婚を取りやめさせます。「私たちやっぱり合わないみたい、お別れしましょう」と言わせる。キャットが妊娠していようと関係ない。子供の問題は夫婦の問題とは別に考えることができるはずです。
 ジョンとキャットが結婚しないならジャックとキャサリンが離婚を考えることもないんじゃない?というタイム・パラドックスを作る。そうやってメビウスの輪のようにぐるぐるしていくのが男女なんだ、とする。安易な結婚ハッピーエンドなんてちゃんちゃらおかしいやね、としたい。

 こんなハッピーミュージカルを見ながらそんなアイディアを思いついている私はダメなんでしょうかね…
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『今ひとたびの修羅』

2013年04月20日 | 観劇記/タイトルあ行
 新国立劇場、2013年4月16日ソワレ。

 昭和初頭の東京・深川のはずれ。渡世人の飛車角こと小山角太郎(堤真一)は義理の上から加担した出入りで人を殺め、警察に追われる身になる。飛車角は泣いて止めるおとよ(宮沢りえ)を後にしてね警察に出頭するが…
 原作/尾崎士郎、脚本/宮本研、演出/いのうえひでのり。全2幕。

 いやあ、いくら任侠だ昭和だアナクロだっつったって、ファンタジーとしか思えませんでした。ちょっと単純すぎないかなあ?というか、リアリティやシンパシーが感じられませんでしたよ私にはね。
 この舞台を作っている側がギリギリこの時代の感覚を知る者として自覚的なだけに、より若い世代に向けて作っているんだろと魚もいますが、はたして刺さるものやら…
 まあ物語として楽しくなかったわけではないのですけれどね。
 でももしかしたらわざとなのか、意外に色気を感じなかったところも、私が肩透かしに感じた原因なのかもしれません。

 今だったら、私だったら、というかこの話って本質的には、吉良常(風間杜夫。かつて映画版で宮川を演じたというのはおもしろい)と飛車角と宮川(岡本健一。そうかタメだったのか…いい役者になったよねえ)とのブロマンスなんだと思うんですよね、だからそう作る。
 ブロマンスという言葉自体は最近のアメリカ文芸の造語だそうだけれど、要するにそういう概念は昔からあったわけで。
 吉良常はまあ現役じゃないからちょっと置くにしても(年寄り扱いして申し訳ない)、宮川がおとよの面倒を見る、というか結局のところおとよに惚れる、おとよを抱くのって、要するに宮川が飛車角を愛しているからなんですよ。おとよを通じて飛車角と寝ているんだよね。おとよを抱くことで飛車角を抱いている、あるいは飛車角に抱かれているわけ。
 おとよはそういうこととはまた別に、まあだらしがないといってしまえば簡単だけど常に誰かにそばにいて愛してもらいたがっている、そうでないと駄目な、常に人肌を求めているような女なんだけれど、心のどこかで自分がふたりの男の間にただあるだけのものだとわかっているところもあって、だから余計に空しいしますます誰でもいいから人肌を求めるのだ、というところがあるのだと思うのですよ。
 そうして男は宮川のように出入りで死のうが(これは飛車角との心中だよね、飛車角はたまたま落命しなかっただけで)吉良常のように寿命で老衰死しようが要するに勝手に死んでいって完結するわけですが、女はそうはいかないし残される側としては冗談じゃない、って話だってことですよね。
 任侠ものだからマッチョで当然なのかもしれないけれど、演劇の観客って過半数以上が女性だと思うし、これじゃ楽しくないと思うけどね…
 しかしそういえば風間杜夫つながりでもあるが、そんなワケでおとよは小夏なワケですねえ。銀ちゃんとヤスは精神的に共依存というよりもはやデキていたのだし、女は常に「だって銀ちゃんいつも一緒にいてくれないじゃない、どっかいっちゃうじゃない」と泣き叫ぶしかないわけです。
 まあこのお話は飛車角が死に切れずおとよと再会して終わるわけで、でもまたきっと同じことの繰り返しが待つだけだろうし、だからこそのこのタイトルなのでしょうし、そういうある種の愛の形を描いたものなのでしょうが…誰もあまり幸せになっていない感じなのが、観ていてちょっとしんどい、というのはあるのですよね。やはり女は幸せが好きなんだなあ、幸せを信じたいのだなあ。

 だからもうおとよは本当は照代(村川絵梨)とかとくっつくといいと思うんですよね。
 飛車角とおとよと宮川との三角関係とある種の対象を描いて、お袖(小池栄子。とても良かったがこの人が意外にクレバーでいい女優なことは隠せないので、その意味ではミスキャストだったのではあるまいか)と瓢吉(小出恵介。こういうボンボン役が本当に似合いすぎていて素晴らしい)と照代との三角関係があるのだけれど、こちらは崩壊して終わっています。というかそうあってほしい。実際には瓢吉とお袖がよりを戻すであろう幹事で終わっているのだけれど、もういい仕事もあるんだし独立させてやれよ、という気がします。
 というかそのふたりがどうであれそれでも照代は残されるのだから、だから飛車角は宮川と死なせてやって、おとよは照代とくっつくといいと思うんですよねー。
 照代はどこにも行かないよ、家で仕事をする才能ある作家だしね。ずっとおとよのそばにいて、愛してくれると思うよ。それでやっと幸せになれるんじゃないのかなあ。
 …とついつい考えてしまったこともあり、照代はもうちょっとネームバリューのある女優さんに演じさせるべきではなかったかとも思いました。美しさ、スターオーラがこのメンバーに入ると弱くて、いかにもサブキャラに見えてしまったのが残念でした。

 黒馬先生の浅野和之がまた素晴らしかった。いい役者さんですよねえ。

 と、なかなかおもしろい観劇体験だったのでした。
 わっと泣くとか感動するとかもいいし、いろいろ考えさせられるのもいいですよね。つまらない、退屈、何もない、なんかより断然いい。
 そして私はまたそんな出会いを求めて劇場に向かうのでした。
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