駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『幸福論』

2020年12月06日 | 観劇記/タイトルか行
 シアタートラム、2020年12月4日19時。

 第一部は瀬戸山美咲・作の『道成寺』。橘清(高橋和也)は広告代理店を辞めて独立したばかり。妻・真姫(明星真由美)は高級コンサルティングサロンを経営し、息子の清史郎(相葉弘樹)は医学部四年生。順風満帆に見えるが、まだ満ち足りなく…
 第二部は長田郁恵・作の『隅田川』。夏帆(瀬奈じゅん)は同僚の酒々井(高橋和也)とともに働く家裁調査員。ある日、万引きをした犯罪少年・彩佳(清水くるみ)を担当することになるが…
 演出/瀬戸山美咲、監修/野村萬斎、美術/堀尾幸男、照明/齋藤茂男。能の『道成寺』『隅田川』からインスピレーションを受けて現代社会を描く「現代能楽集」第十弾。

 私がこのシリーズで観ているのはこちらこちらこちら。いずれも元の能についてはざっくりしか知らないかほとんど知らないかで観ましたが、毎度おもしろく観られた記憶があります。
 今回も、他に鷲尾真知子の計6人の役者が揃いも揃ってめちゃくちゃに上手くて、ふたつの作品で全然違う役をやっているのがもう恐ろしいくらいで、そしてそのふたつの作品がそれぞれ違った方向性で現代社会と人間の心理をあぶり出していてもうすごかったです。

 『道成寺』は安珍清姫伝説をもとにしていて、僧に思いを寄せた女が拒絶され、蛇に変身して男を追い、ついには道成寺の鐘ごと男を焼き殺す…というお話ですが、今回はおそらくそれを男女逆転させています。橘家の男ふたりの名に「清」があり、清史郎が付き合う奥野あんず(清水くるみ)や清が通う小説教室の講師を務める小説家・安藤千佳(瀬奈じゅん)の名に安珍を思わせる音や文字が振られているからです。清史郎の母親の名が真姫で、彼女の顧客の名が白河安子(鷲尾真知子)なのも、一応そうかな? ただここは女性同士であることと、お金が絡んだ問題であることが少し違うのかもしれません。でも、やっぱり同じかな? 清が千佳に求めたのも愛ではなく認知や賞賛、敬意みたいなもので、彼にとっての「幸福」はそういうものだったのだろうし、そんな夫の浮気や不誠実、虚栄に疲れた真姫はお金を得ることに走ったので、それが彼女にとっての「幸福」だったということなのでしょう。そして清史郎があんずに求めたのも、別に愛情とかではなかったのでした。経済的に裕福で、けれど高圧的で過干渉な両親にいい子であること、いい学校へ進むことを求められて育った清史郎は、それが自分自身の望みだと勘違いしたまま大人になり、けれどいつも不安で不満で、だから安心して下に見られるあんずとつきあい出したのです。そんなものは愛ではない。
 地方から上京してきて、バイトに明け暮れ、売れない地下アイドル活動を細々と続けているあんずは、それでも清史郎なんかよりずっとずっと幸せです。彼女は自分の望みが何かちゃんとわかっているし、その夢に向かって努力し、苦労することすら楽しんでいる。清史郎が自分とつきあうことの意味をうすうすわかりながらも、彼の優しさや変わる可能性に賭ける心の強さ、愛の大きさを持てている女性なのです。彼女のインスタライブの観客がたとえ13人だろうと、清史郎にはその半分も友達と言える存在を持てていないことでしょう。そして彼はついに彼女にも甘えられず、素直になれず、自分の言いなりにさせようとして手を上げる…
 お話は、あんずが家に火をつけて逃げ出し、橘一家3人が炎に巻かれて死んでいって終わりました。冒頭が、おそらくその数年後、火事の跡地にマンションが建つので地鎮祭が行われ、そこに現れた「通りすがりの男」(とプログラムにはなっているが、おそらく清史郎の亡霊?)が巫女(演じているのはあんず役だった清水くるみ)を手にかけてしまう場面だったので、そこに戻って何かオチをつけて終わるのかな?と思ったのですが、特にそういうことはなく、そういう意味ではちょっと尻切れトンボにも感じました。火事は「事件」でしかないので、「物語」になりきっていない気がしたからです。でも二幕も合わせて何かあるのかもしれない、と休憩を迎えました。安子は死んだ息子を追って真姫を訪ねたことになるので、そこは『隅田川』っぽくて、なおさらこの二本をセットで観たあとに何か意味が取れるのかな、と思えたのです。
 そんなわけでとてもおもしろく、スリリングに観ました。簡素で無機的な装置というか小道具というかが素晴らしく、脚本の的確で過不足ない戯画化が素晴らしく、作家の才能に唸らされました。台詞に無駄な言葉も意味が取りにくい言葉もまったくない。どんぴしゃの「現代」。それを体現する役者がまた素晴らしく上手い。特にゴロゴロしながらスマホでインスタを見るあんずの自然さとリアリティがたまりませんでした。常に何かを演じているような橘一家との差異がまた怖い。アサコの、靴下にローファーの、ちょっと野暮ったいけれど、才能も世間知もあるのだろう四十代の独身の小説家の女性、というのもものすごく感じが出ていました。清に言い返すところは男役みも感じましたよ…(笑)

 さて、『隅田川』は、人買いに拐かされた息子を追って都から武蔵国隅田川まで来た母親のお話、だそうです。今回はその「失われた子供」が娘になっていることがミソの、女の物語になっていました。
 まとめてしまうと、夏帆は流産経験があり不妊治療を続けている女性で、彩佳はネグレクトに近い環境で育ち出会い系で会ったような男の子供をひとりで産んで捨てていて、悦子(鷲尾真知子)はその死骸を拾いかつて亡くした娘の名で呼んで、面倒を見ていた老女です。ヘルパーに咎められて河原に葬りに行き、そこへ子供の生死を確かめに来た彩佳と夏帆がたどり着き…というラストシーン、夜が明けて川面がきらきら光るというのに何故か降り出す雨。そしてカテコでラインナップのあと役者が全員引っ込むと、舞台に残っているのは赤ん坊に捧げられた弔いのラムネ瓶だけ…というのが実に刺さる作品でした。
 悦子を、彩佳と同居していた祖母だとミスリードっぽくしているのは上手いなと感じましたが、『道成寺』と比べると抽象化が少ない、リアルな作品で、それがまたしんどく、逆に言うとちょっと浅く感じられたかもしれません。でも、よかったです。
 しかし私はファンとして、アサコが不妊治療などの末に養子を迎えて育てていることを知っているからさあ…そんなの仕事には、演技には関係ない、と思いつつも、わかってて書いたのか、当てたのか、引き受けたのかとかちょっと考えちゃいましたよね。
 悦子が彩佳を抱きしめるところではダダ泣きしましたが、でもこれはちょっと卑怯な展開だとも思いました。泣かないわけないし、泣いても何も解決しないしね。
 私は、これは幸運なことにと言っていいかと思うのですが、ヒヤリとした思いをしたことはあれど妊娠も出産も中絶も流産も経験がなく、子供を欲しいと心底願ったこともおそらくありません。なのでこの3人の女性のような「子供を亡くした経験」がない。だからわからないといえばわからないけれど、でもたとえば自分の母親が自分を産んで育ててくれたことや自分を愛し慈しんでくれていることは身をもって知っていて、やはり深く感謝していますし、だからその母のことを思えばやはり我がことのように考えることはできるのでした。
 自分の子供がどこかで生まれていて死んでいったことを知らない、父親になれていない若い男や、仕事ばかりにかまけて自分の子供をきちんと養育できていない、父親になれていないいい歳した男がそもそも悪い、と言ってもそれでどうなるものでもありません。愛があろうとなかろうと男女が性交すればできるものはできて、それは女の身体が引き受けるしかない。その理不尽は神を責めても覆らない。でもそうして生み出し育て繋いでいかないと、ヒトは滅んでしまう。もちろん人類のため、社会のため、国家のためになんて産む必要はなくて、あくまでその人が幸せになるため、そしてその子供を幸せにするために産むべきなんだけれど、その「幸福」がなかなかままならない。河、流れ、雨などの水の要素はすべて堕胎のイメージに重なります。オチのない、結論のない、救いも希望も逆に絶望もない、静かに沁みるラストシーンでした。つらい、しんどい、でもよかったです。

 というわけで一、二幕通しての何か、みたいなものはなくて、ただ同じ6人の役者が全然違う役をやっているという趣向のおもしろさはありました。プログラムで作者が「『道成寺』で幻の幸福に別れを告げ、『隅田川』で本当の幸福の入り口に立つ」と言ったようには私には感じられませんでしたが、『幸福論』というなかなかに漠然としたタイトルに想いはせ、己を振り返ってみるといいのかもしれないな、とは思いました。
 それで言えば私は本当に幸せ者だと思っています。幸せになりたい、とか幸せにならなくては、なんて普段考えていないことがまず幸せだし、人は幸せになるために生きていくのだと自明のように考えているくらい幸せ者です。まあまあ貧しかったけれど仲が良くて愛のある両親に過干渉も放任もされず育てられ、大学まで出て就職してまあまあ健康で、絶賛ローン返済中だけれど住む家があり、趣味があり友達がいて家族もそこそこ健康です。この厳しい現代社会ではそこそこ恵まれている方でしょう。感謝して、驕らず、けれど卑屈にならずに楽しんで生きていこうと思っています。そのための観劇です。そしてできることなら誰かより弱い、たまたま恵まれなかった者に手を差し伸べるべきなのでしょう…無理ない範囲でがんばらねば、と思いました。

 長田さんはこちらなど見ていますが、瀬戸山さんは初めてでした。好もしい作家さんがまたひとり増えました。また機会があれば観てみたいです。違うコンセプトで書けばまた全然違う作品になるのかもしれませんしね。今回の、古典を解釈して現代ものにする、というのは作家の個性がより強く出ておもしろいの企画なんだとと思います。古典のどこにおもしろみを感じてどう変換させるか、が勝負ですものね。なんにせよ、スマホを出したり台詞でネット云々と言わせれば「現代もの」になると思っているどこかのおじいさん作家たちとはワケが違う、きちんと現代社会を生きている人の視点だなと感心しました。インスタ、ツイッター、オンラインサロン、地下アイドル、配信ライブ、デリバリーの食事、小説の新人賞や小説講座…ちゃんとリアリティと生活感、実感がありました。「現代」ものには必須だと思います。そういえば最近のテレビドラマにやっと外国人労働者キャラクターが出始めたな、とか感じていたところでした。
 我々は誰も現代を生きることから逃れられないので、目を背けてはいけないし、少しでも良くしよう、良くあろうという思いを捨ててもいけないのだろうな、と思うのでした。幸福は求めすぎるとむしろ不幸になるものかもしれませんが、希望や理想はそういうものではない。むしろ求めなくなったら本当になくなってしまうものなのではないでしょうか。だから、細々とでもがんばるしかないのでした。







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