駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『デカローグ』プログラムC

2024年05月30日 | 観劇記/タイトルた行
 新国立劇場小劇場、2024年5月24日19時。

 プログラムA、Bの感想はこちら
 5は、街中で見かけたタクシー運転手ヴァルデマル(寺十吾)を殺した20歳の青年ヤツェク(福崎那由他)と、彼の弁護をすることになった新人弁護士ピョトル(渋谷謙人)の「ある殺人に関する物語」。6は、郵便局に勤める19歳のトメク(田中亨)と、向かいに住む30代の魅力的な女性マグダ(仙名彩世)の「ある愛に関する物語」。
 
 十戒の物語だけれど、「十戒を守るべき道徳ではなく、これを破ってしまう人間とその葛藤を描く物語」とのことで、「人間を不完全な存在として認め」「断罪や罰や哀れみすらなく、ただひたすらに人間の弱さや間違いを見つめるまなざしの奥には、人間という存在への根源的な肯定と深い愛が流れている」とのことです。それはそうかな、とは思うのですが、例によって市井の人々のささやかな日常を切り取り、そのまま…みたいな作風でもあるので、受け取る方にもなかなか胆力が要るな、とも感じたりするのでした。
 この二本は映画にもなっているそうなので、シリーズの肝ということなのでしょうか。劇場入り口に喫煙や暴力、自傷の描写がある旨のアナウンスも出ていましたが、確かにそういう意味では濃く、重い二本でした。でも繊細にも丁寧にも描かれているのだけれど…似たような生きづらさを抱えている人やこうしたことにシンパシーを感じてしまう人、引っ張られがちな人は観ていてかなりつらいのではなかろうか、と余計な心配かもしれませんが、私はそんなことにけっこうドキドキしてしまいました。私は今けっこう元気で健康なので、というかだからこそ引っ張られすぎないようにあえて客観視して距離を置こう、所詮他人事だもの、と思わないと目を背けたくなるくらい、なんというかすごくナチュラルで、「人間だもの」という感じでけっこう怖い事態というかお話が進む二本だったので…こういう感想が正しいのかどうか含めて、全然自信がないんですけれど。おもしろくなかったわけではないし、でもおもしろかったと言って片付けてしまっていいのだろうか、とかね…考えさせられました。
 私は学校の勉強がまあまあできた子供だったんですけれど、周りから医者になれば?とか弁護士になれば?とかは言われたことがなかった気がします。それで将来の選択肢に入らず、ただ本や漫画が好きだったから出版業界に勤めた…というようなところがあるのですが、うっかり医者とか弁護士とかにならなくて本当によかったよ、と最近よく思ったりします。なれたかは別にして、なっていたら、きっと世界の理不尽さとか人間の愚かさとかに、私は耐えられなかったと思う…理想を物語に託して創作で糊塗するくらいが私にはお似合いです。
 ピョトルの絶望は、わかります。理想に燃えた新人弁護士で、世の中を正したい明るくしたいと思っていて、死刑制度には反対で、しかし弁護を担当した青年には死刑の判決が下されてしまう。彼は殺人を犯していて、おそらくそれは本人も認めているんだろうし、量刑としては重い気もするけれどこの当時のポーランドの法律では妥当なものだったんでしょう。死刑とは国家による殺人なのでそれは到底認められない、というヤツェクの考えはわかるし、私も死刑には反対です。汝、殺すなかれ…けれど、だからといってヤツェクがヴァルデマルを殺害した事実は変わらないのです。その罪は、贖われなければならない。
 しかも耐えがたいのは死刑執行に対するヤツェクの動揺です。ヤツェクは、もしかしたらどこか足りないか病んでいるのかもしれないし、そういう意味では確かに情状酌量されなければならない身だったのかもしれないけれど、要するに「人が死ぬところを見てみたい」みたいな動機で人を殺した、どうしようもない若者でした。しかも衝動的ではない、ちゃんと準備してシミュレーションまでした。シミュレーションする想像力があるのに、その後どうなるか、自分がどう罰せられるかは想像できないのか? 殺したら殺されるのがあたりまえではないのか? では何故粛々と自分の死を受け入れないのか? 怯えて死にたくないと叫ぶくらいなら何故殺すのを止めなかったのか? ヴァルデマルも死にたくなかったはずだど何故考えないのか? 自分で考え自分で決めて自分で行動して自分で責任を取る、それが人として当然のことで、だから死刑も潔く受け入れるべきなのに、そうしない見苦しさに私はほとんど耐えられませんでした。同情なんかできない、哀れみも持てない、冷たい人間なのです。でもヤツェクは目を反らせることができないし、背負い込んで、落ち込んで、終わる…しんどい、しんどい話です…
 6も若者の話であり、トメクは友達の母親と同居し、家と職場を往復するだけのような、友達も恋人もいない味気ない暮らしをしている青年です。外国語を学ぶ才能があるのに、特に活かせているわけではない、というのがミソかもしれません。そして同じ団地の、向かいの上階に住むマグダの部屋を覗いている。
 マグダは売れないアーティストで、おそらくそれとは別の仕事をしていて、恋人というか部屋に連れてきてセックスをする男が3人ほどいるけれど、特に満足もしていないし幸せでもない、そんな感じの女性です。美しいけれど、もう若くはない、くらい。
 トメクが自分を見ていたことを知って、もちろん気味悪がりはするんだけれどおもしろく感じちゃうようなところもあって、だからトメクが現れなくなると今度はこっちから関わろうとするんだけれど、いろいろあって憑き物が落ちちゃったようなトメクはもうマグダへの関心を失っていて、それでおしまい、というお話です。
 トメクも別に幸せになったわけではないけれと、何かを乗り越え、何かが進んだのならいいな、とは思います。少なくとも命あっての物種だ、大事にならずによかったです。
 一方マグダは、心配かな…ストーカーチックであれ、誰かに関心を持たれていたことが嬉しい、というような気持ちはわからなくはないし、そのとき団地のセットの後ろにある暗いだけの紗幕みたいなのがぱあっと明るい青になって、まるで晴れ晴れとした青空が広がったように見えたのは(美術/針生康、映像/栗山聡之、照明/松本大介)、それは確かにそこで感じられた「愛」を表現していたのかもしれないけれど…結局それはマグダを救わず、どこにも連れていなかった、ということでしょう。まあ彼女は立派な成人なので、未成年の一過性の初恋みたいなものに支えられたりせず、独力でなんとかしなさいよ、ということなのかもしれませんが…しんどい、しんどいよ……
 しかしゆきちゃんはとても素敵でした。フェアリーからしたらとんでもない、という台詞を言わされていましたが、特に露悪的でも扇情的でもなく、ナチュラルでよかったです。こういう舞台にも出るんだなあ、と思うと、これからもますます楽しみです。
 今回も、一幕と二幕(というのか?)で全然別のキャラをやっている役者さんたちが素晴らしかったです。そしてやはりこの亀田佳明は無駄遣いではないのだろうか…10作すべてに出ていて、しかし台詞がない、という役ですが…うぅーむ、やはり10まで観ないと語れないのかもしれません。









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