駒子の備忘録

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『尺には尺を』『終わりよければすべてよし』

2023年11月14日 | 観劇記/タイトルさ行
 新国立劇場中劇場、2023年11月3日18時(『尺には~』)、9日18時半(『終わり~』)。

 ウィーンの公爵ヴィンセンシオ(木下浩之)は後事を代理アンジェロ(岡本健一)に託して突然旅に出る。だが実はアンジェロの統治を密かに見届けるという目的があった。ウィーンではこのところ風紀の乱れが激しく、謹厳実直なアンジェロが法律に則りどう処理するのか見定めようというのだ。法律の中には婚前交渉を禁ずる姦淫罪があり、19年間一度も使われていなかったが、アンジェロはさっそくその法律を行使し婚姻前にジュリエット(永田江里)と関係を持ったクローディオ(浦井健治)に死刑の判決を下す。だがクローディオはジュリエットと正式な夫婦約束をしていて、情状酌量の余地はあったのだ。それを知ったクローディオの妹イザベラ(ソニン)は、助命嘆願のためにアンジェロを訪ねて…(『尺には~』)
 ルシヨン伯爵夫人(那須佐代子)のひとり息子バートラム(浦井健治)はフランス王(岡本健一)に召し出され、パリへ向かう。王は不治の病に蝕まれ、命は長くないといわれていた。伯爵夫人のもとには侍女として育てられた娘ヘレナ(中嶋朋子)がいて、その父は先ごろ他界した高名な医師だった。彼はヘレナに、万病に効く薬の処方箋を残していた。ヘレナは身分違いのバートラムのことを密かに慕い、妻になりたいと願っていたが、その想いを知った伯爵夫人はヘレナにバートラムを追ってパリへ向かうことを許し…(『終わり~』)
 作/ウィリアム・シェイクスピア、翻訳/小田島雄志、演出/鵜山仁。2009年から歴史劇シリーズを上演してきたカンパニーによるダークコメディ交互上演。いずれも全二幕。

 私は歴史劇シリーズの方は全然観られていないのですが、メイン4人はいずれも好きな俳優さんなので、チケットを取ってみました。
『尺には~』の方がおもしろく、『終わり~』はやや退屈したので、逆の順で観た方がよかったかな、イヤこの順の方が耐えやすかったかな…などと考えていたのですが、『終わり~』のラストに、話がオチたところで突然フランス王が王冠を下ろして中の人の顔になり、役者として観客の拍手を請う、みたいな挨拶のくだりがあり、ならこの順で観てこれで締められてよかったのかな、などと思いました。これはもともとの脚本にある台詞なのでしょうか、それとも2回公演の夜の回ではどっちの演目でも必ずやってる、とかなのかなあ? ともあれいかにもシェイクスピア、ですよね。
 どちらもソニンがよかったなあ。中嶋朋子もよかったけど、やっている役がどちらも「待て待て待てそんな男はやめておけ」一択だったので、ちょっと共感しづらかった…というのはあります。
 男優ふたりはいずれもあまりチャーミングな役とは言い難かった気がします。特にバートラムは観ていてしんどかった…アンジェロも後半はただのセクハラパワハラ親父になっちゃゃうんだけれど、彼にはまだ自省とか迷いとかがある描写があったので。
 ただこれもそもそも公爵の人の悪さが問題なんじゃんと思うので、彼が最後にイザベラの腕を取って結婚式へ向かうところで話は終わるんだけれど、ぜひイザベラにはただ困惑したまま引きずられていくんじゃなくて、オチのあとでいいのでその腕を振り払ってビンタのひとつもかまして修道院に戻ってほしい、と思いました。彼女がそもそも何故見習い修道女だったのかは語られていないし、こういう信仰とか教会のこととかは私はなんにも知らないんだけれど、要するに当人の生きたいように生きさせてくれよ、という言いたいということです。
 この時代には、女性にとっては結婚することはまさしく死活問題だったのでしょう。婚姻前に不名誉な噂でも立とうものならたちまち社会的に抹殺されるし、下手したら厳格な父親に殺されかねないわけで、まさしく生殺与奪の権限を他者に握られていたわけです。だから処女性にこだわらざるをえないし、ひとたび婚約が整えば必ず式を上げ、床入りもし、なんなら子種を得るところまでやってもらわないと、その後を生きて暮らしていけないわけです。だからこんなに必死になるのです。ほとんど好きでもない男を、たいがいはろくでもない男を…
 だから「そんな男はやめておけ」とは言えないのです、彼女たちには他に活路がないので。これはそういう時代の物語であって、そういうものだから、として観ないと整合性も共感も感情移入も何もない作品世界なわけで、なので観ていてイライラする私はシェイクスピアを観る資格がないのである、もう『ロミジュリ』だろうが『リア王』だろうが『マクベス』だろうが『ハムレット』だろうが、私は金輪際観るのはやめよう、と思うに至りました。現代視点で換骨奪胎するのはほぼ無理な世界だと思われますし、シェイクスピア作品の良さはおそらくそういうところにあるわけではないんでしょうからね。浅学な私めはさっぱりわかりませんが…というか原語で観て古英語の韻律を楽しめるような素養がないと、無理なんじゃないの? 知らんけど。観たかったけどチケットが取れなかったゆりちゃんのマクベス夫人も、評判は全然聞こえてこないし、きっと私が観てもあまりおもしろく思えなかったんじゃないかしらん…と、悔し紛れ半分に思います。
 この二作が喜劇でも悲劇でもない問題作、などと分類される、というのはわかる気がしました。まあでも、同じ役者が似ている、あるいは全然違った役を…というおもしろみは、あまり感じられなかった気がしました。というのも今の演劇界はミュージカル含めて、客が呼べるとされる役者はもう決まっていてどの舞台もそのメンツ内での組み合わせで編成されているにすぎない気がするので(私の観劇の方向性がそうだというだけかもしれませんが)、そんなのいつものことじゃんって気がするから、というのがあるからかもしれません。まして私は最近歌舞伎づいてきたこともあり、アレこそ似たメンツでいつも何かをグルグル上演しているので、あえてのダブルビルとか別に意味なく感じられてしまうんですよね…
 やっている方がただ大変なだけだった、とかでないといいのですが…
 ともあれ、いわゆる「ベッド・トリック」なんてリアリティの点でも人権としても問題外、と考えるし、そもそもロマンティック・ラブ・イデオロギーに染まっている私には、この作品世界は向かないものなんだ、と学べたので、それでよかったということにします。







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