梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ、2023年8月28日15時(初日)。
日本青年館ホール、9月13日15時。
イタリアのナポリにある個人病院、マルチーノ・メディカル・ホスピタルに勤務するフェルナンド・デ・ロッシ(和希そら)は、外科医として優れた腕を持ち、かつては大学病院で将来を嘱望されていた。その彼が約束されたエリート・コースを捨て、何故民間の病院で生きる道を選んだのか、その経緯は謎に包まれていた。今も第一線で活躍し、患者からの信頼も篤いフェルナンドだが、夜勤中の飲酒行為や女性との火遊びを繰り返す姿が問題視されていた。特に、医師としての理想に燃えるランベルト・ヴァレンティーノ(縣千。序盤の代役は眞ノ宮るい)は彼に反発し、何かにつけて衝突していた。一方、院長の愛娘で秘書を務めるクラリーチェ・マルチーノ(野々花ひまり)は、フェルナンドの良き理解者として批判的な同僚たちから彼を守っていた。新人看護婦のモニカ・アッカルド(華純沙那)もまた、数少ないフェルナンドの理解者のひとりだったが…
原作/渡辺淳一、監修・脚本/石田昌也、潤色・演出/樫畑亜依子、作曲・編曲/手島恭子、中尾太郎。渡辺淳一の医療小説『無影燈』をイタリアに舞台を移してミュージカル化し、2012年に雪組で早霧せいな主演で上演された作品の再演。全二幕。
初演の感想はこちら。
当時も全然、まったく、評価しない作品でした。むしろ怒り狂った記憶があります。なので再演の報にも「は? なんで? たとえばどうしてもそらでチギちゃん作品の再演を、ということなら『ニジンスキー』とかの方が良くない? すわっちとかディアギレフができそうじゃない?」とかまで考えたのですが…なのでそらファンの親友と、初日に観てわあわあ腐そう、と意気込んで出かけたのでした(嫌な客…)。
…ら、なんか…よかったんですよね…ちゃんとしてたんですよ…どういうことなの、カッシーマジックなの…?
「イシダは『死んだ』と思って自由にアレンジして下さいとお願いしました」と言うダーイシが潔かったのかもしれないし、当時の悪評ないし再演発表時の「は? アレを?? なんで???」の大合唱がさすがに届いてのことなのかもしれませんが、イヤしかしこの態度は立派です。某植Gにも是非『ベルばら』に関してこの姿勢を見せていただきたいものですが…ホント頼むよ……
それはともかく、それを受けてカッシーが本当に絶妙な微調整、ブラッシュアップをしてきたんだと思います。探せばスカステの録画ディスクがうちのどこかから出てくるとは思うのですが、わざわざ初演を見直したりはしないので、どこにどう相違が、というのは検証できていないのですが、一幕はほぼママだったと聞きますね。二幕はチャリティー場面始め、かなり改変されているそうです。
私が覚えているのは、モニカとクラリーチェのキャットファイトめいた場面が不快だったことと(何故男は女にこういう喧嘩をさせたがるのか…)、そのクラリーチェの病気が判明し移植できる骨髄を探そうってところにアントーニオ(咲城けい)の存在が発覚して、院長(夏美よう)がちょうどよかった、みたいな反応を見せて話が進んだところだったんですよね。父親として医者として人として、ホントどうなんだ、こういうキャラクターを描いて平気な作家って人としてホントどうなんだ、と絶望的な思いがしたことを覚えています。このあたりは、微妙に順番を変えたり会話の言い回しを変えたりして、いたってナチュラルかつちゃんとしたものに改変されている気がしました。イメージだけで語っていてすみません。でもクラリーチェがモニカに喧嘩売っちゃうのも共感できる流れでしたし、それに対してモニカが毅然と対応していたこと、あとでフェルナンドとその話になったときもきちんと対応していたことにすごく好感が持てました。そしてマルチーノ家の家庭争議に関しては、これもロザンナ(五峰亜季。『カルト・ワイン』のときはだいぶ痛々しかった脚が全快していて、安心しましたよ…)の好演もあって、すごくまっとうな対応、展開になっていたと思いました。
もちろん、アニータ(希良々うみ)、ちゃんと養育費はもらいなさい、当然の権利だよ、お金は大事だよ、とかのつっこみはある。というかカッシーマジックをもってしても話のおおもとは変えられないのであって、たとえばモニカみたいなヒロイン像の在り方とかフェルナンドの生き様、というか死に様はどうなんだ、というつっこみはもうつっこんでも不毛で、変更するならそもそももうお話ごと全取っ替えした方がいいようなものなのでした。なのでどんなにそらが素敵でも、かすみちゃんが大健闘していても、作品自体がモヤるしクソだし嫌いだ、という意見が多いのもうなずけます。まあ渡辺淳一の昭和ロマンだからさ、それをイタリアに移しても作ったのはダーイシだしさ、そりゃそこからの挽回は無理ですよ…
でも、私は、宝塚歌劇でやっている分、ギリギリ成立しているかなー、と思いました。リアル男優のフェルナンド、リアル女優のモニカは受け付けなかったろうけれど、この作品はつっこみはつっこみとして、それとは別にうっかり感動したしじんわり泣いちゃったりなんたりしちゃったな…というのが本音なのでした。
とはいえ本当に男のドリーム満載の作品ではあり、ホント「ケッ」の連続ではあります。フェルナンド、自身の病気を知ってそりゃショックだろうし、けれど研究に使って未来の医療に生かそうという志は高潔で素晴らしいですよ。でもそう決めても心が乱れるときもある…というのも、わからないでもない。だから酒や煙草には逃げてもいい。だが他人を利用するな、玄人だろうが何をしてもいいわけではない。カタリーナ(莉奈くるみ)もそこまで本気ではなかったかもしれない、でも気にかけ心配してはいたでしょう。人の心をいたずらにかき乱す権利はたとえ末期癌患者だろうとない。そこは作家はわかっているべきです。
末期癌患者にも恋をする権利はあります。でも恋とはそもそも権利とかなんとかよりただ落ちてしまうものなのであり、本人にも、誰にも止められるものではありません。だからフェルナンドがモニカに惹かれたと思うなら、それは真実の恋なのでしょう。
でも、黙っていることはできる。想いを告白したり、抱きしめたりせず、つきあいを進めないこともできるはずです。大人なんだし、自分が遠からず死ぬとわかっているならなおさら、相手のことを考えてそこで踏み留まることもできたはずなんです。ましてセックスしないことは選べたはずです、本能だなんて言わせません。チェーザレ(桜路薫)が死ぬのが怖くて看護婦にしがみついちゃうのはとわけが違います。避妊もできたはずだし、けれど百%の避妊手段はないんだから(セックスするためにパイプカットをする、とまで言うのならむしろ推奨しますが)セックスしないに限るんです。もちろんモニカの同意はあったのかもしれない。彼女は彼との未来を夢見ていて、結婚も子供を持つことも望んでいて、順番なんか多少どうでもいいや、と避妊なしのセックスを受け入れたのかもしれない。その上での、納得の、希望した妊娠なのかもしれない。でも、フェルナンドが早晩死ぬことは知らされていなかったわけで、未婚の母になり父なし子をひとりで育てる覚悟まではできていなかったはずなのです。フェルナンドが死んでもモニカの人生は続き、普通に考えてそのあとの方がずっと長い。それを、自分の子供を育てさせることで縛る権利はフェルナンドにはない、それだけは断言できます。
この大人げなさ、男のエゴを、男の可愛さなどといって許すようなことはできません。もうできない。これまでさんざん許し譲歩してきちゃったからこそ、今、世界はこんななんです。特に本邦。男の悪いところが全部出て、滅びかけているわけじゃないですか。その道連れにされるのはごめんです。ダメなことはダメと言っていかなければなりません。フェルナンドの弱さもわかるよ、愛しいよ、でもダメです。
あと、自殺もどうかと思うけれど、自殺するにしてもせめて遺体は残して献体しろよ、とも思いました。てか真の死に際まで記録させてこその研究だろう。さんざん研究云々言っておいて、最後だけナニ綺麗にバッくれちゃってんの?と思います。こういう男のロマンチシズムも、令和の世には撲滅していきたいですね。そらの、湖の水底でらしきダンスが素晴らしい、というのとはこれは別問題です。そらの色気と上手さにホントやられそうになり、見ている間はつい許しちゃうわけですが、しかしダメなものはダメなのです。ホント、リアル男優にやられたら途中で席を立つレベルでしょう。
モニカも、このキャラクターをカマトトにも白痴にも見せずに可憐に演じきってみせたかすみちゃんの娘役としての技量は素晴らしかったですが、そもそもこのキャラクターがどうなんだ、という問題がありまくりなワケです。飛行機にも乗ったことがない、おそらく田舎育ちの、若く純粋な、明るく優しい、ひまわりのような少女…幻想です。というかいないことはないんだろうけれど、そうした存在は男に都合良くつきあってなどくれません。男たちとは関係ない領域にひっそり生息している存在なのです。みだりに触るな。
こういう女性に母親や聖母や神を見てすがる…気持ちはわからなくはありません、だがやるな。仕方ないもの、むしろ美しいものとして描くな。そこをこそ戦え。そこに人間の尊厳はある。死に際なら何をやってもいい、ということなどないのです。かすみちゃんは可愛い、我々だって抱きつきたい、しかしそれとこれとは別問題なのです。もともと歌抜擢だった印象の新進娘役さんですが、新公ヒロイン経験も経て、芝居も立派に務めていました。コスプレ感ある、設定いつなんだ?とアタマかきむしりたくなるナース服も可愛かったからいいですが…これまたリアル女優にやられたら「すぐやめろー!」と席から立ち上がって叫ぶレベルだと思いました(観劇マナーとは)。
…というように、根本的に解決困難な問題がある作品ではあるものの、役者がみんな大健闘していて、セットがお洒落で(装置/稲生英介)、歌はやや昭和チックなメロディが突然始まる感じがあり、ダンスも二幕冒頭とかお洒落なものもありつつ手術室ダンスとかちょっとおもしろすぎで、二幕は細切れの暗転も多くてもう一歩工夫が欲しいところではあると思うものの、五年後の場面の清々しさや、ラストシーンのほぼ卑怯なんだけれど美しい演出に、うっかり泣かされ満足させられてしまうものに仕上がっているな、と私は感じました。カッシーマジックというより、宝塚歌劇マジック、といったものなんでしょうね。女性がやっている男役がやっているフェルナンド先生だから、ギリギリ受け入れられる。彼女が他者を妊娠させその後半生を縛ってしまうことは決してない、という担保があるからです。女性でも女優でもない娘役というフェアリーがやるモニカだから、すべて受け入れて微笑んでくれるんだ、と思えるのです。欺瞞かもしれない、けれど宝塚歌劇でしか描けないこうしたある種の愛の形、というものもあるんだと思います。だが「※個人の感想です。」と常に付け加えるように、これは現実ではなく観客の真の理想のロマンスでもなく、「※宝塚歌劇においてのみ成立する世界観です。」という注意書きが必要だな、と感じました。
ところで本編のラストシーン、私が『1789』の本編ラストにやってもらいたかったのはこれなんですよね。かりんちゃんはどこかのインタビューか何かで、ここはすでに全員死んだあとの死後の世界の場面なのだ、と語っていたそうですが、フツーの解釈では白いお衣装でセリ上がってきたこっちゃんロナンだけが蘇った死者の魂で他は全員まだ生者、ただしこんなふうに一堂に会するわけはないからイマジナリー集合…という場面だと思うのです。だからそこで最後にロナンがひっとんオランプをバックハグしてしまうのは違う、と私は思う。ロナンからはオランプが見えていて、オランプもロナンの存在を感じているかもしれない、けれどふたりは存在する次元が違うんだから、ふたりの視線が合い手が触れ合うことはないはずなのです。湖畔のモニカとフリオ(清羽美伶。これがまた必ず男児なんですよ、せめてこれが女児なら…でもそういう発想が男性作家には本当にないのでしょう)はフェルナンドの存在を感じ、なんなら超自然的な力(笑)で転びかけた体勢を支えてもらったりします。でも、見えない、触れない。伸ばした手はすれ違う。でも、感じる、愛してる。涙、笑顔、幕…これが正しい。相手が死んでも愛は残る(こともある)、しかし肉体はもうないのだから物理で触れ合うことは二度とない…そういうものでしょう。政府が科学を軽視しても、創作は科学を軽視してはいけません。
というわけで、俺たちのソラカズキは素敵でした。確かに男役としてはやや小さいんだけれど、スタイルは良くて脚も長いのでスマートで美しい。そして声もいい、歌も芝居もダンスも上手い。メガネ姿も事後姿(笑)も注射打つ様も見せてくれる、素晴らしいですね。『夢千鳥』『心中~』とクズ男の役で作品はいい、という、なかなかの作品運を持ったスターなのかもしれません。フィナーレもホントかっけー!のひとことでした。ちゃんとリフトもあって、小さくても男役さんなんだなあ、と感動しましたよ…本公演でのますますのご活躍を期待しています。
かすみちゃんも初・別箱ヒロイン、かつ東上とめでたいがデカいところをしっかり務めていて、とても好感を持ちました。なんかもっと顔がデカい印象だったんだけど(すみません)、鬘が似合っているのか可愛くてそらともお似合いで、よかったです。初めてだろうデュエットダンスもとってもよかった! 青年館で私が観たとき、床に座り込む振りでそのまま片脚がつるりと滑って体勢を崩しかけたときがありましたが、ちょうどそらが手を伸ばす振りでさっと引き上げていて、お互い満面の笑顔で、もうきゅんきゅんしました。雪娘の二番手格争いもはばまいちゃん一辺倒じゃないところがいいし、厳しくもありますよねー…がんばれー!
そしてまさかの、アタマ数日が代役上演となったランベルト先生ですが…あがちんももちろんよかったし素敵だったけれど、はいちゃんの上手さが際立っちゃったかなー、と個人的には感じました。てか本役だとはいちゃんはほぼモブの看護師じゃん(オペダンサー〈…ってナニ?〉Aはあるけど)、もったいないよ…初日のソロこそ震えていたように見えましたが、芝居はしっかりしていて役作りがくっきり見えたし、そらとの相性が、ちょっとタイプが似すぎているかな?とも思ったんですが、むしろ芝居が揃っていてすごくよかったのです。あと、フィナーレのセンターで踊るパートもめっちゃよかった! やっぱやらせればできるんですよ、ホント『CH』新公主演ははいちゃんがよかった、とは私は一生言っていきたいと思います。
あがちんも、クールとまでは言わないけれど真面目でお堅くちょっと朴念仁なランベルトをすごく上手くやっているなと思いましたが、やはりニンって出ちゃうものなので、ちょっとだけうるさいかな、と感じたんですよね…初演ともみんなんで正しいとも言えるランベルト像でしたけど。でもはいちゃんランベルトは五年後、クラリーチェかモニカと結婚していてもいいかも…と思ったけどあがちんランベルトだとナイな、と感じちゃいました(笑)。あとフィナーレ、楽しそうに踊りすぎ!(笑) まだまだ楽しいだけでやっていて、ファンや観客に見せる感覚がないのかな、と最近やっとそのあたりのスイッチが入ったように感じるかりんさんと比べて思いました。イヤ楽しそうでいいんだけどね、でもそれだと「素敵ッ!」とはならないでしょ…? もちろん本人比で上手くなっているとは思うんだけれど、そもそもさっさと真ん中に置いちゃった方が粗が目立たずハマるタイプのスターかな、とも思います。あーさトップのあがた二番手時代なんて、どうなることやら…(そらはどこかでやめちゃうんでしょ?と私は考えているので)
クラリーチェのひまりは、素晴らしかったー! 描かれている以上に役を魅力的に演じていて、でももちろん作品の邪魔はしていない、むしろ作品の質を深めていて素晴らしい、と感じました。ヒロインじゃない女性キャラクターってどうしてもこうした悪役令嬢チックな役回りにされがちなんだけれど(それはあくまで男性作家の引き出しのなさのせいなんだけれど)、クラリーチェは単なる意地悪お嬢様みたいな女性じゃないところがよかったと思うのです。そもそも母親が病院の家付き娘で、でも当人が女医になるという発想はまだない時代だったのだろうし、それで医者を婿養子を取っていて、旦那は院長で自分は社交に明け暮れていて、旦那の火遊び浮気も知っていて放置黙認しているような、さりとて冷め切っていていがみ合っている夫婦というわけでもなく、まあまあ仲の良い家族なんだと思うんですよねマルチーノ家って。そこに一粒種として育ったクラリーチェも、だからきちんと愛され育てられていて、決してただのワガママお嬢様なんかにはなっていないのです。母親同様に女医にはなっていないんだけれど、病院の仕事はしたいと考えて院長の秘書をやっているのは、おそらく単なるお嬢さん芸ではなく本当に有能なのでしょう。婦長(愛すみれ)始めスタッフからも煙たがられるどころか信頼されている感じがちゃんと出ている、素敵な役作りでした。父親とは腕を組んでハケるくだりもあったけれど、ないだけで母親ともちゃんと仲が良くて、やや派手めな私服とかもお揃い感がある、姉妹みたいな母娘なのでしょう。ロザンナはおっとりしていて、クラリーチェはもう少しシャープでスマートだけれど、とにかく素敵な女性です。
フェルナンドとの交際がどう始まったのかは語られていませんが、クラリーチェの方は単なる大人の関係にする気はなく、ちゃんと彼を能力も性格も愛し、もっと知りたい、支えたい、ともにいたい、信頼されたい愛されたい…と願っていたのでしょう。変にプライドが高すぎず、黙って察されるのを待ったりしないところもよかった。ぶつからないと得られないものってありますしね。その流れでモニカに嫌味を言っちゃうところもとても自然だったんですよね。いじらしくて、可愛くて、悲しかった…
五年後、親元を離れてバリバリ働く姿のまぶしいことよ…! 彼女の今の幸福を願わないではいられません。
そのクラリーチェとの車椅子の芝居も絶品だった愛すみれ、役姿でやられてちょっとエッ?となるエトワールをすぐさま納得させられる力量もさすがでした。変にオールドミスとか、院長の愛人とかの面ばかりで描かれていないのもよかったです。
にわさんのクレメンテ教授(奏乃はると)もマルチーノ夫妻と同様に初演からの続投だそうですね。慈愛あふれる父親代わり役のおじさま像、素敵でした。あすくんがアニータの兄でレントゲン技師のジョルダーノ(久城あす)を演じていて、これは新設された役だとか。技師がレントゲンを読めないはずはないとのことなので、ここはなんらかのフォローをしてあげてもよかったかと思いますが、要所を押さえるいいサポート役でさすがでした。アントーニオがあんなにいい子に育ったのは、この伯父の導きもあったことでしょう。そのさんちゃんも、『ボニクラ』ではちょっと足りてないなと感じてそれこそはいちゃんテッドで観たかったと思ったくらいだったんですが、今回はちょうどいい感じでした。ちゃんといい子に見える、というのも立派な強みです。
桜路くんはいつでもなんでも上手いけれど、その妻ボーナ(杏野このみ)もよかったなあぁ。単なる美人娘役さん、ってだけでなくて、上級生になるとホントいい仕事をし出しますよね…パレードにしか出てこないピザ屋のエプロンを夫とお揃いできて出てくるのも良きでした。
あとはモニカの同僚のサンドラ(千早真央)がキュートで、彼女も本公演だと歌起用ばかりですが、芝居もできるぞと見せていて吉。歌起用のアマーリア(白綺華)も、台詞もちゃんとしていてよかったです。りなくるもちょいちょい使われていたし、男役さんはマフィアたちも飲酒少年たちも(ジェッツのスタジャン…!)みんな台詞や演技が明瞭で、しっかりしていました。おそらく最下級生にまで台詞があったんじゃないかな? 全ツ『愛短』もそうでしたが、別箱公演はそうあるべきですよね。よかったです。
三連休明けまでの公演ですが、どうぞご安全に。カッシー、新作期待しています。ダーイシは別の再演があるならそれも是非お任せで…(嫌いになりきれない作品はたくさんあるので)あがちんも次はまた別のタイプの主演作が来ますように。
見守っていきますね…!
日本青年館ホール、9月13日15時。
イタリアのナポリにある個人病院、マルチーノ・メディカル・ホスピタルに勤務するフェルナンド・デ・ロッシ(和希そら)は、外科医として優れた腕を持ち、かつては大学病院で将来を嘱望されていた。その彼が約束されたエリート・コースを捨て、何故民間の病院で生きる道を選んだのか、その経緯は謎に包まれていた。今も第一線で活躍し、患者からの信頼も篤いフェルナンドだが、夜勤中の飲酒行為や女性との火遊びを繰り返す姿が問題視されていた。特に、医師としての理想に燃えるランベルト・ヴァレンティーノ(縣千。序盤の代役は眞ノ宮るい)は彼に反発し、何かにつけて衝突していた。一方、院長の愛娘で秘書を務めるクラリーチェ・マルチーノ(野々花ひまり)は、フェルナンドの良き理解者として批判的な同僚たちから彼を守っていた。新人看護婦のモニカ・アッカルド(華純沙那)もまた、数少ないフェルナンドの理解者のひとりだったが…
原作/渡辺淳一、監修・脚本/石田昌也、潤色・演出/樫畑亜依子、作曲・編曲/手島恭子、中尾太郎。渡辺淳一の医療小説『無影燈』をイタリアに舞台を移してミュージカル化し、2012年に雪組で早霧せいな主演で上演された作品の再演。全二幕。
初演の感想はこちら。
当時も全然、まったく、評価しない作品でした。むしろ怒り狂った記憶があります。なので再演の報にも「は? なんで? たとえばどうしてもそらでチギちゃん作品の再演を、ということなら『ニジンスキー』とかの方が良くない? すわっちとかディアギレフができそうじゃない?」とかまで考えたのですが…なのでそらファンの親友と、初日に観てわあわあ腐そう、と意気込んで出かけたのでした(嫌な客…)。
…ら、なんか…よかったんですよね…ちゃんとしてたんですよ…どういうことなの、カッシーマジックなの…?
「イシダは『死んだ』と思って自由にアレンジして下さいとお願いしました」と言うダーイシが潔かったのかもしれないし、当時の悪評ないし再演発表時の「は? アレを?? なんで???」の大合唱がさすがに届いてのことなのかもしれませんが、イヤしかしこの態度は立派です。某植Gにも是非『ベルばら』に関してこの姿勢を見せていただきたいものですが…ホント頼むよ……
それはともかく、それを受けてカッシーが本当に絶妙な微調整、ブラッシュアップをしてきたんだと思います。探せばスカステの録画ディスクがうちのどこかから出てくるとは思うのですが、わざわざ初演を見直したりはしないので、どこにどう相違が、というのは検証できていないのですが、一幕はほぼママだったと聞きますね。二幕はチャリティー場面始め、かなり改変されているそうです。
私が覚えているのは、モニカとクラリーチェのキャットファイトめいた場面が不快だったことと(何故男は女にこういう喧嘩をさせたがるのか…)、そのクラリーチェの病気が判明し移植できる骨髄を探そうってところにアントーニオ(咲城けい)の存在が発覚して、院長(夏美よう)がちょうどよかった、みたいな反応を見せて話が進んだところだったんですよね。父親として医者として人として、ホントどうなんだ、こういうキャラクターを描いて平気な作家って人としてホントどうなんだ、と絶望的な思いがしたことを覚えています。このあたりは、微妙に順番を変えたり会話の言い回しを変えたりして、いたってナチュラルかつちゃんとしたものに改変されている気がしました。イメージだけで語っていてすみません。でもクラリーチェがモニカに喧嘩売っちゃうのも共感できる流れでしたし、それに対してモニカが毅然と対応していたこと、あとでフェルナンドとその話になったときもきちんと対応していたことにすごく好感が持てました。そしてマルチーノ家の家庭争議に関しては、これもロザンナ(五峰亜季。『カルト・ワイン』のときはだいぶ痛々しかった脚が全快していて、安心しましたよ…)の好演もあって、すごくまっとうな対応、展開になっていたと思いました。
もちろん、アニータ(希良々うみ)、ちゃんと養育費はもらいなさい、当然の権利だよ、お金は大事だよ、とかのつっこみはある。というかカッシーマジックをもってしても話のおおもとは変えられないのであって、たとえばモニカみたいなヒロイン像の在り方とかフェルナンドの生き様、というか死に様はどうなんだ、というつっこみはもうつっこんでも不毛で、変更するならそもそももうお話ごと全取っ替えした方がいいようなものなのでした。なのでどんなにそらが素敵でも、かすみちゃんが大健闘していても、作品自体がモヤるしクソだし嫌いだ、という意見が多いのもうなずけます。まあ渡辺淳一の昭和ロマンだからさ、それをイタリアに移しても作ったのはダーイシだしさ、そりゃそこからの挽回は無理ですよ…
でも、私は、宝塚歌劇でやっている分、ギリギリ成立しているかなー、と思いました。リアル男優のフェルナンド、リアル女優のモニカは受け付けなかったろうけれど、この作品はつっこみはつっこみとして、それとは別にうっかり感動したしじんわり泣いちゃったりなんたりしちゃったな…というのが本音なのでした。
とはいえ本当に男のドリーム満載の作品ではあり、ホント「ケッ」の連続ではあります。フェルナンド、自身の病気を知ってそりゃショックだろうし、けれど研究に使って未来の医療に生かそうという志は高潔で素晴らしいですよ。でもそう決めても心が乱れるときもある…というのも、わからないでもない。だから酒や煙草には逃げてもいい。だが他人を利用するな、玄人だろうが何をしてもいいわけではない。カタリーナ(莉奈くるみ)もそこまで本気ではなかったかもしれない、でも気にかけ心配してはいたでしょう。人の心をいたずらにかき乱す権利はたとえ末期癌患者だろうとない。そこは作家はわかっているべきです。
末期癌患者にも恋をする権利はあります。でも恋とはそもそも権利とかなんとかよりただ落ちてしまうものなのであり、本人にも、誰にも止められるものではありません。だからフェルナンドがモニカに惹かれたと思うなら、それは真実の恋なのでしょう。
でも、黙っていることはできる。想いを告白したり、抱きしめたりせず、つきあいを進めないこともできるはずです。大人なんだし、自分が遠からず死ぬとわかっているならなおさら、相手のことを考えてそこで踏み留まることもできたはずなんです。ましてセックスしないことは選べたはずです、本能だなんて言わせません。チェーザレ(桜路薫)が死ぬのが怖くて看護婦にしがみついちゃうのはとわけが違います。避妊もできたはずだし、けれど百%の避妊手段はないんだから(セックスするためにパイプカットをする、とまで言うのならむしろ推奨しますが)セックスしないに限るんです。もちろんモニカの同意はあったのかもしれない。彼女は彼との未来を夢見ていて、結婚も子供を持つことも望んでいて、順番なんか多少どうでもいいや、と避妊なしのセックスを受け入れたのかもしれない。その上での、納得の、希望した妊娠なのかもしれない。でも、フェルナンドが早晩死ぬことは知らされていなかったわけで、未婚の母になり父なし子をひとりで育てる覚悟まではできていなかったはずなのです。フェルナンドが死んでもモニカの人生は続き、普通に考えてそのあとの方がずっと長い。それを、自分の子供を育てさせることで縛る権利はフェルナンドにはない、それだけは断言できます。
この大人げなさ、男のエゴを、男の可愛さなどといって許すようなことはできません。もうできない。これまでさんざん許し譲歩してきちゃったからこそ、今、世界はこんななんです。特に本邦。男の悪いところが全部出て、滅びかけているわけじゃないですか。その道連れにされるのはごめんです。ダメなことはダメと言っていかなければなりません。フェルナンドの弱さもわかるよ、愛しいよ、でもダメです。
あと、自殺もどうかと思うけれど、自殺するにしてもせめて遺体は残して献体しろよ、とも思いました。てか真の死に際まで記録させてこその研究だろう。さんざん研究云々言っておいて、最後だけナニ綺麗にバッくれちゃってんの?と思います。こういう男のロマンチシズムも、令和の世には撲滅していきたいですね。そらの、湖の水底でらしきダンスが素晴らしい、というのとはこれは別問題です。そらの色気と上手さにホントやられそうになり、見ている間はつい許しちゃうわけですが、しかしダメなものはダメなのです。ホント、リアル男優にやられたら途中で席を立つレベルでしょう。
モニカも、このキャラクターをカマトトにも白痴にも見せずに可憐に演じきってみせたかすみちゃんの娘役としての技量は素晴らしかったですが、そもそもこのキャラクターがどうなんだ、という問題がありまくりなワケです。飛行機にも乗ったことがない、おそらく田舎育ちの、若く純粋な、明るく優しい、ひまわりのような少女…幻想です。というかいないことはないんだろうけれど、そうした存在は男に都合良くつきあってなどくれません。男たちとは関係ない領域にひっそり生息している存在なのです。みだりに触るな。
こういう女性に母親や聖母や神を見てすがる…気持ちはわからなくはありません、だがやるな。仕方ないもの、むしろ美しいものとして描くな。そこをこそ戦え。そこに人間の尊厳はある。死に際なら何をやってもいい、ということなどないのです。かすみちゃんは可愛い、我々だって抱きつきたい、しかしそれとこれとは別問題なのです。もともと歌抜擢だった印象の新進娘役さんですが、新公ヒロイン経験も経て、芝居も立派に務めていました。コスプレ感ある、設定いつなんだ?とアタマかきむしりたくなるナース服も可愛かったからいいですが…これまたリアル女優にやられたら「すぐやめろー!」と席から立ち上がって叫ぶレベルだと思いました(観劇マナーとは)。
…というように、根本的に解決困難な問題がある作品ではあるものの、役者がみんな大健闘していて、セットがお洒落で(装置/稲生英介)、歌はやや昭和チックなメロディが突然始まる感じがあり、ダンスも二幕冒頭とかお洒落なものもありつつ手術室ダンスとかちょっとおもしろすぎで、二幕は細切れの暗転も多くてもう一歩工夫が欲しいところではあると思うものの、五年後の場面の清々しさや、ラストシーンのほぼ卑怯なんだけれど美しい演出に、うっかり泣かされ満足させられてしまうものに仕上がっているな、と私は感じました。カッシーマジックというより、宝塚歌劇マジック、といったものなんでしょうね。女性がやっている男役がやっているフェルナンド先生だから、ギリギリ受け入れられる。彼女が他者を妊娠させその後半生を縛ってしまうことは決してない、という担保があるからです。女性でも女優でもない娘役というフェアリーがやるモニカだから、すべて受け入れて微笑んでくれるんだ、と思えるのです。欺瞞かもしれない、けれど宝塚歌劇でしか描けないこうしたある種の愛の形、というものもあるんだと思います。だが「※個人の感想です。」と常に付け加えるように、これは現実ではなく観客の真の理想のロマンスでもなく、「※宝塚歌劇においてのみ成立する世界観です。」という注意書きが必要だな、と感じました。
ところで本編のラストシーン、私が『1789』の本編ラストにやってもらいたかったのはこれなんですよね。かりんちゃんはどこかのインタビューか何かで、ここはすでに全員死んだあとの死後の世界の場面なのだ、と語っていたそうですが、フツーの解釈では白いお衣装でセリ上がってきたこっちゃんロナンだけが蘇った死者の魂で他は全員まだ生者、ただしこんなふうに一堂に会するわけはないからイマジナリー集合…という場面だと思うのです。だからそこで最後にロナンがひっとんオランプをバックハグしてしまうのは違う、と私は思う。ロナンからはオランプが見えていて、オランプもロナンの存在を感じているかもしれない、けれどふたりは存在する次元が違うんだから、ふたりの視線が合い手が触れ合うことはないはずなのです。湖畔のモニカとフリオ(清羽美伶。これがまた必ず男児なんですよ、せめてこれが女児なら…でもそういう発想が男性作家には本当にないのでしょう)はフェルナンドの存在を感じ、なんなら超自然的な力(笑)で転びかけた体勢を支えてもらったりします。でも、見えない、触れない。伸ばした手はすれ違う。でも、感じる、愛してる。涙、笑顔、幕…これが正しい。相手が死んでも愛は残る(こともある)、しかし肉体はもうないのだから物理で触れ合うことは二度とない…そういうものでしょう。政府が科学を軽視しても、創作は科学を軽視してはいけません。
というわけで、俺たちのソラカズキは素敵でした。確かに男役としてはやや小さいんだけれど、スタイルは良くて脚も長いのでスマートで美しい。そして声もいい、歌も芝居もダンスも上手い。メガネ姿も事後姿(笑)も注射打つ様も見せてくれる、素晴らしいですね。『夢千鳥』『心中~』とクズ男の役で作品はいい、という、なかなかの作品運を持ったスターなのかもしれません。フィナーレもホントかっけー!のひとことでした。ちゃんとリフトもあって、小さくても男役さんなんだなあ、と感動しましたよ…本公演でのますますのご活躍を期待しています。
かすみちゃんも初・別箱ヒロイン、かつ東上とめでたいがデカいところをしっかり務めていて、とても好感を持ちました。なんかもっと顔がデカい印象だったんだけど(すみません)、鬘が似合っているのか可愛くてそらともお似合いで、よかったです。初めてだろうデュエットダンスもとってもよかった! 青年館で私が観たとき、床に座り込む振りでそのまま片脚がつるりと滑って体勢を崩しかけたときがありましたが、ちょうどそらが手を伸ばす振りでさっと引き上げていて、お互い満面の笑顔で、もうきゅんきゅんしました。雪娘の二番手格争いもはばまいちゃん一辺倒じゃないところがいいし、厳しくもありますよねー…がんばれー!
そしてまさかの、アタマ数日が代役上演となったランベルト先生ですが…あがちんももちろんよかったし素敵だったけれど、はいちゃんの上手さが際立っちゃったかなー、と個人的には感じました。てか本役だとはいちゃんはほぼモブの看護師じゃん(オペダンサー〈…ってナニ?〉Aはあるけど)、もったいないよ…初日のソロこそ震えていたように見えましたが、芝居はしっかりしていて役作りがくっきり見えたし、そらとの相性が、ちょっとタイプが似すぎているかな?とも思ったんですが、むしろ芝居が揃っていてすごくよかったのです。あと、フィナーレのセンターで踊るパートもめっちゃよかった! やっぱやらせればできるんですよ、ホント『CH』新公主演ははいちゃんがよかった、とは私は一生言っていきたいと思います。
あがちんも、クールとまでは言わないけれど真面目でお堅くちょっと朴念仁なランベルトをすごく上手くやっているなと思いましたが、やはりニンって出ちゃうものなので、ちょっとだけうるさいかな、と感じたんですよね…初演ともみんなんで正しいとも言えるランベルト像でしたけど。でもはいちゃんランベルトは五年後、クラリーチェかモニカと結婚していてもいいかも…と思ったけどあがちんランベルトだとナイな、と感じちゃいました(笑)。あとフィナーレ、楽しそうに踊りすぎ!(笑) まだまだ楽しいだけでやっていて、ファンや観客に見せる感覚がないのかな、と最近やっとそのあたりのスイッチが入ったように感じるかりんさんと比べて思いました。イヤ楽しそうでいいんだけどね、でもそれだと「素敵ッ!」とはならないでしょ…? もちろん本人比で上手くなっているとは思うんだけれど、そもそもさっさと真ん中に置いちゃった方が粗が目立たずハマるタイプのスターかな、とも思います。あーさトップのあがた二番手時代なんて、どうなることやら…(そらはどこかでやめちゃうんでしょ?と私は考えているので)
クラリーチェのひまりは、素晴らしかったー! 描かれている以上に役を魅力的に演じていて、でももちろん作品の邪魔はしていない、むしろ作品の質を深めていて素晴らしい、と感じました。ヒロインじゃない女性キャラクターってどうしてもこうした悪役令嬢チックな役回りにされがちなんだけれど(それはあくまで男性作家の引き出しのなさのせいなんだけれど)、クラリーチェは単なる意地悪お嬢様みたいな女性じゃないところがよかったと思うのです。そもそも母親が病院の家付き娘で、でも当人が女医になるという発想はまだない時代だったのだろうし、それで医者を婿養子を取っていて、旦那は院長で自分は社交に明け暮れていて、旦那の火遊び浮気も知っていて放置黙認しているような、さりとて冷め切っていていがみ合っている夫婦というわけでもなく、まあまあ仲の良い家族なんだと思うんですよねマルチーノ家って。そこに一粒種として育ったクラリーチェも、だからきちんと愛され育てられていて、決してただのワガママお嬢様なんかにはなっていないのです。母親同様に女医にはなっていないんだけれど、病院の仕事はしたいと考えて院長の秘書をやっているのは、おそらく単なるお嬢さん芸ではなく本当に有能なのでしょう。婦長(愛すみれ)始めスタッフからも煙たがられるどころか信頼されている感じがちゃんと出ている、素敵な役作りでした。父親とは腕を組んでハケるくだりもあったけれど、ないだけで母親ともちゃんと仲が良くて、やや派手めな私服とかもお揃い感がある、姉妹みたいな母娘なのでしょう。ロザンナはおっとりしていて、クラリーチェはもう少しシャープでスマートだけれど、とにかく素敵な女性です。
フェルナンドとの交際がどう始まったのかは語られていませんが、クラリーチェの方は単なる大人の関係にする気はなく、ちゃんと彼を能力も性格も愛し、もっと知りたい、支えたい、ともにいたい、信頼されたい愛されたい…と願っていたのでしょう。変にプライドが高すぎず、黙って察されるのを待ったりしないところもよかった。ぶつからないと得られないものってありますしね。その流れでモニカに嫌味を言っちゃうところもとても自然だったんですよね。いじらしくて、可愛くて、悲しかった…
五年後、親元を離れてバリバリ働く姿のまぶしいことよ…! 彼女の今の幸福を願わないではいられません。
そのクラリーチェとの車椅子の芝居も絶品だった愛すみれ、役姿でやられてちょっとエッ?となるエトワールをすぐさま納得させられる力量もさすがでした。変にオールドミスとか、院長の愛人とかの面ばかりで描かれていないのもよかったです。
にわさんのクレメンテ教授(奏乃はると)もマルチーノ夫妻と同様に初演からの続投だそうですね。慈愛あふれる父親代わり役のおじさま像、素敵でした。あすくんがアニータの兄でレントゲン技師のジョルダーノ(久城あす)を演じていて、これは新設された役だとか。技師がレントゲンを読めないはずはないとのことなので、ここはなんらかのフォローをしてあげてもよかったかと思いますが、要所を押さえるいいサポート役でさすがでした。アントーニオがあんなにいい子に育ったのは、この伯父の導きもあったことでしょう。そのさんちゃんも、『ボニクラ』ではちょっと足りてないなと感じてそれこそはいちゃんテッドで観たかったと思ったくらいだったんですが、今回はちょうどいい感じでした。ちゃんといい子に見える、というのも立派な強みです。
桜路くんはいつでもなんでも上手いけれど、その妻ボーナ(杏野このみ)もよかったなあぁ。単なる美人娘役さん、ってだけでなくて、上級生になるとホントいい仕事をし出しますよね…パレードにしか出てこないピザ屋のエプロンを夫とお揃いできて出てくるのも良きでした。
あとはモニカの同僚のサンドラ(千早真央)がキュートで、彼女も本公演だと歌起用ばかりですが、芝居もできるぞと見せていて吉。歌起用のアマーリア(白綺華)も、台詞もちゃんとしていてよかったです。りなくるもちょいちょい使われていたし、男役さんはマフィアたちも飲酒少年たちも(ジェッツのスタジャン…!)みんな台詞や演技が明瞭で、しっかりしていました。おそらく最下級生にまで台詞があったんじゃないかな? 全ツ『愛短』もそうでしたが、別箱公演はそうあるべきですよね。よかったです。
三連休明けまでの公演ですが、どうぞご安全に。カッシー、新作期待しています。ダーイシは別の再演があるならそれも是非お任せで…(嫌いになりきれない作品はたくさんあるので)あがちんも次はまた別のタイプの主演作が来ますように。
見守っていきますね…!
>これがまた必ず男児なんですよ、せめてこれが女児なら…でもそういう発想が男性作家には本当にないのでしょう
モニカとフェルナンドの子が男児なのか女児なのかで、どういう違いが生まれるのか教えていただけますか?
ちなみに原作は直江(フェルナンド)の死が知らされた翌日で終わるので子どもの性別は分かりません。
田宮二郎版(脚本/倉本聰、プロデューサー/大山勝美)では流産します(ナレーションで語られるのみ)。
中居正広版(脚本/龍居由佳里、プロデューサー/三城真一・伊與田英徳)では男児を産みます。
「男の欠落は男で埋める」みたいな感じが、なんとなく男性作家がいかにも考えそうなことだなー、と
思ってしまったんですよね…なんでも性別、性差のせいにするなと言われそうですが。
娘が生まれるなら、ヒロインは同性として子供を
また違った育て方をするかもしれないじゃないですか。
そしてその女の子は母親とは違った生き方をしていくかもしれない…
まあ男の子に固着しがちな母親の方にも問題がある案件かもしれませんが…
私も子供を持ったことがないのでわかりませんが…
原作では性別がわからない子供をあえて息子としたことには何かの意味があるのでしょうから、
私はそう感じた、ということです。
●駒子●
男性作家の思考の話、子どもの性別の意味の話とは変わってきますが
>男の欠落は男で埋める
>男の子に固着しがちな母親
再演の劇中で実際に描かれたモニカは上記のようではないことが
ラストの、フェルナンドの手を感じとり自分の胸に抱く振付と
子どもをトップ(スポットライト)から外していることから
分かると思うのですが、どうでしょう?