10連休は前半と後半に遠征に出かけましたが、この週末は遠征予定がなかったので、ちょっと中休みとしてまとめてみました。
ちなみに初日の感想はこちら。
大劇場新公は観られませんでした。連休明けで仕事がどーもならず…東京でなんとかして観たいものです(><)。
先日、WOWOWでまゆたんみっちゃんの副音声解説付きで花組版の放送がありましたね。お友達に録画してもらって見てみました。
スターの比重の関係でちょこちょこ違いはあるものの、今回とは大きな違いはない印象ですね。外部版の新曲「オーシャンズ10」が加わったくらい?
花組版ではイエンがみつるで、このときもう専科でしたっけ、まだ組子でしたっけ?ソロがあったけれど、今回はあきもなのでそれはカットされていたり、バシャーのみーちゃんもこのとき花組に移ったばっかりだったんでしたっけ?でフィーチャーされているのか、地下に降りていく銀橋ソロをもらっているんだけれど、今回はそこが2番手キキちゃんのラスティーになっていたり。ラスト客席登場のテスは前回は白菜ドレスで、だったんですね。その姿でガラスの箱に入ったんだから正しい気もするし、でも今回のまどかにゃんは彼女に一番似合うディナーのときの銀のワンピースで登場していてそれも良き、と思います。ちなみにまどかは今回の冒頭のドレスのことはキャベツと呼んでいるそうですけれどね…てかテスのお衣装はなんかどれもちょっとヘンに改変されている気もして残念でした。テリーのオフィスに行く場面での、あの黒ストッキングがホントにダサくて嫌なんですけどね…(><)
フィナーレの歌手がベネディクトだっただいもんなのでテスへの想いを改めて歌うのは正しい気がしたけれど、今回はここもキキでちょっとヘンなので、歌詞から「テス」を取っちゃえばよかったのに…と思ったり、今回のエトワールはおそらくオーディションだったのではないかなと思うのだけれど、さらちゃんとはホントいい人選だよな、専科のみっちゃんをどう降ろすか難しかったんだろうけどエトワールってどうよ…とか、思ったりしました。
「歌劇」の座談会によればイケコはやたらと「大人のおとぎ話」という単語を連発していて、まあ確かになんちゃってクリミナル・コメディとかピカレスク・ロマンみたいなものを想定して作ったんだろうとはわかるのだけれど、そしてその創作姿勢が後年『AfO』に昇華、結実していったのだなあとは思うのだけれど、やはり現代物だし、エコロジーとかNPOとかその脱税疑惑とか犯罪スレスレの地上げとか恐喝とか、やはりちょっと冗談ではすまないリアルさ、現実問題があるので、そのあたりとなんも考えないで楽しむような娯楽性とはやはり相性が悪いんじゃなかろうか…とは、私は感じてしまっています。
インスタとか美肌アプリとかを出して初演時・再演時よりもさらに現代感を出してきているのに、「地図をメールする」とか「ホテルのインターネットに侵入する」みたいなパードン?なセリフが改善されないままだったりするザルさも、個人的にはとても気になります。いったい本気でアップデート、ブラッシュアップする気があるのか!?
座談会からしてもウッズ夫妻は確かに不正に手を染めているとされているようなので、となるとそれを知らずに信頼しきってともに環境運動する気満々のテスは、まあもちろん被害者なんだけどちょっと間抜けで残念な子に見えかねないし、確かにまだ年若いんだろうけれどあまりに世間知らずでうかつすぎて、そりゃ百戦錬磨のショーステージの女王に「カマトト」呼ばわりされちゃうのも当然だよね、ってなっちゃうと、テスのヒロインとしての魅力に響くわけですよ。イヤ男性作家は女はこれくらいの方が可愛いよ、男に守られていればいいんだよ、男は好きな女のためなら悪にも手を染めるんだよそれが男のロマンだよ…とか萌えてこういう物語を書いてるのかもしれませんが、観るのは女ですしはっきり言って女をバカにすんなっつーの、ですよ。
テスは「私は手段にこだわりたいの」(でしたっけ?)と明言しています。目的のためなら手段はなんでもいい、という考え方には与しない、正しいことを正しいやり方でしたい、というポリシーは、貫くことはつらく苦しいでしょうが立派なものだし、もちろん明らかに正しい。こういうキャラクターのこういう考え方が報われる物語であってほしいのだけれど、この作品はそうなっていません。ダニーもテリーもそういうふうには動いていないし、結局テスはそんなダニーを容認してしまうからです。好き合っていたふたりが元サヤに戻る、のはそりゃハッピーエンドでいいんですが、ダニーとテスの生き方の指針が実は意外と違う、という問題点についてはスルーでいいの?というあたりが、なんともモニョるワケです。
そもそもウッズ夫妻が不正を働いているならそれをネタにちょっと脅迫しているだけのテリーはそこまで悪いことをしているわけではない、とも言えてしまいます。だからテリーがテスにフラれて、ダニーにお金も奪われて、勧善懲悪めでたしめでたし、とも思いづらい。そこも実はモニョるんですよね。ダニーがちょい悪なダーティー・ヒーローなら対するテリーはもっと巨悪でないと、本当は物語として成立しないのです。
ま、私にはずんちゃんテリーはまどかテスには本気のラブは感じてなくて、あくまで利用価値があると思っていたから口説いていただけ、に見えたし、ラストの「ネバーギブアップ!」には一晩分の稼ぎくらいくれてやらぁオラ野郎ども次行くぞ次!みたいなポジティブさがあっていいなと感じているので、そこまでかわいそうではなくて、それはよかったかな…とは思うのですけれどね。
そんなわけで、個人的にはいろいろモニョるし、それでもスターに見せ場はあるし組子はみんな小芝居も楽しそうにしているし、セットもお衣装も豪華で綺麗で観ていて飽きないし、単純だけどやっぱり「ジャンプ」には胸アツになるよね、「ジャックポット」のイレブンの後ろ姿ピラミッドのカッコ良さとかホント卑怯だよね、娯楽としてホント一定以上の水準にはなってるんだよね…とはなるので、まあいいっちゃいいんですけれどね。
でも、東京公演はチケットがホントなさそうですし、なら、そんなにたくさん観なくてもいいか、な…という気持ちには、今、ちょっと、なっちゃっています。贅沢言って、偉そうなこと言って、ホントすみません。観たら観たで絶対楽しむんだけれど、あと私は絶対に寝ない派なんで観たらホントちゃんと観ちゃうんですけれど、それでも飽きるというか、もう考察することがなくて観ていて退屈するというか…なんですよ、ホントすんません。だって芝居が深化するようなタイプの作品じゃないからさ、何度も観ても同じじゃん…となってしまうのです。ホントにホントにすみません。
でも、見えていないことはもちろんたくさんあって、贔屓の周りとかそりゃ何度通おうと最後まできっと見えませんよね。のちに映像で見て驚くことになるんでしょうね…
フランク登場シーンのバックにカードの映像が出てるってホントですか? それが3(さ)、8(や)、10(と)で21のブラックジャックになってるらしいんですけど、素敵ですねありがたいですね! 顔しか見てないんで見えてませんけど!!(笑)
そういえばPARADISOのディーラーの制服のベストは、花組版と違って黒フチが襟もとと裾に付いていて、よりシャープでスマートな印象になっていましたよね。ありがたいことです。
カジノ客役の組子がとっかえひっかえディーラー台に来てゲームしながら談笑している様子なのも、眺めていてほっこりします。
フランクはダニーとは以前どんな関わりがあったんでしょうね。知りたいわ、でも掘るところがないんだよなあ…残念。
フィナーレはホントいい感じにチョーシ乗っててキレッキレのノリノリで、ごちそうさまです満足です。残念ながら楽屋入り出待ちでは舞台に出てる人と会えないんですけどね(笑)、別人のゆるふわな人が毎度現れますからね。ホント役を引きずらない人です…
大劇場ラストお茶会は珍しくレポ禁でしたが、泣きわめいて暴走するとかいった事故はなく(笑)、レポ禁の必要もないくらいの、いたって通常運転の和やかさでした。
前夜のりく茶が、これもレポ禁でしたが、これは暴走とか暴露とかいうよりもむしろごく率直で素直な泣き笑いにあふれたもので、それはそれでレポ禁に意味があったかな、と思ったのですが、今回の澄輝茶にはそういう面はなかったと思ったんですよね。
でも、そういうところ、つまり最後だろうと普段どおりであろうとするところにこそ、人となりが表れているんだろうな、とも思いました。つまり、泣いたりわめいたりしたくないんだと思うんですよ、騒ぎたくないの、騒がれたくないの。卒業は自分でじっくり考えて決めたことで、それ以上でもそれ以下でもなくて、ことさらに扱ってほしくなくて、辞めるって決めたんだから辞めるの止めてとか言われたくないし、寂しいと泣かれたくもなく、いつもどおり楽しく、笑顔で、真摯に、真面目に公演し、それをいつもどおりに観て、楽しんでもらいたいのでしょう。そういう意思を、主張を、美学を私は感じました。意地っ張りだなとも思うし、でもそういうちょっと頑固なところがあるよね、優しい人だけれど決して弱くはない、むしろ強い人だよね、それでこそだよね、これが私の好きな人ですよ…!と、思ったのです。
東京お茶会ではもう少し何か発言があるかもしれませんが、卒業については本当にさらっと、既定事実として語るだけでした。何故とか、いつとか、何がどうとか、語りたくないんだと思います。今はまだ語りたくない、のかもしれないし、ここでは語りたくない、ということなのかもしれませんが、とにかくそういう美学の持ち主なんだと思うのです。そういうスターさんなんだと思うのです。だから、受け入れて、見守りたいです。
あとは、お歌が楽しみですね。ずんちゃんとシンメで銀橋でフィナーレの歌手、とかもあったけれど、あれはやはりスターとしての起用であって、もっと純粋に歌手として使われていいと本当にずっとずっと思ってきたんですよ。それは叶わなかったのだけれど、やはりそう思ったのは間違いではなかった、と改めて感じさせてくれた今回のお歌でした。名曲だし、けっこういろんなスターさんが歌ってきた歌だけれど、とてもとてもよかったです。そして、この人の歌にちゃんとなっていた。それがすごい、と思ったのでした。
締めの挨拶で、珍しく芸名に言及するような部分があって、はっとさせられました。宝塚歌劇のスターって本当に不思議で、ファンとの距離も近いし、本名由来の愛称で呼んだりして本当に親しみやすくて、でも友達ではない。舞台でお芝居の役として生きる姿、ショーで芸名の存在として歌い踊る姿がまずあって、それと別にまた舞台の外での入り出なりお茶会なりスカステなりでの姿があって、そういうもの全部全部ひっくるめてその芸名のスター、生徒、ってものになるんだろうし、その存在は実は生徒本人とファンとで共有されていて、共に作り上げているところがあるんじゃないのかな、とか思ったのです。芸名という名のスターという幻想、幻影…というとまた儚くてまがい物みたいで、ちょっとアレなんですけれど。
かつて大空さんは、芸名としての自分の存在が自然になったから、その粋まで達したから満足して卒業する、みたいなことを語ったことがありましたが、これってそういうことなんじゃないのかしらん、とか思ったのです。完成したら、ゴールで、ご卒業、というか。そういうときが来た、ということなのかな、と。
もちろん退団後、宝塚歌劇の生徒でなくなっても、同じ芸名で芸能活動を続ける人はたくさんいて、芸名のアイデンティティとしての大きさを感じますが、やはりスターとファンの関係性はちょっと変質しますし、スター自身も現役生徒のときとは在り方が異なってきますよね。そして芸能活動を始めない人、本名に戻ってまったくの一般人になってしまう人もたくさんいて、そうしたらもうその芸名の存在は本当に永遠になくなってしまうのです。ファンはそれこそ友達じゃないから、もう二度と関われない。消息すら知ることができなくなる。
それでも、記録にも記憶にも残るし、何より愛が確かにあった事実はなくならない、のだと思うのです。愛は、消えない。失われない。
私はずっと、当人に贈るものや縁のものとして自分が持つものにAではなくSのイニシャルを選んできました。それは私のイニシャルもSなので(名字だけど)使いやすい、ということもありましたが、やはり知らず知らずのうちに、愛称ではなく、もちろんご本名ではなく、芸名を尊重し、そこに愛を捧げていた意識があったのかな、とか考えたりもしました。毎度ホント理屈っぽくてすみません…
というかホント名は体を表す、じゃないけどいい芸名だしぴったりですよね! まあ当人はそんなさわやかなばっかりじゃなくて(オイ)、意外と意固地なところもある人だと思っていますが、本当に穏やかで、優しくて、しなやかに強くて、澄んでいて、輝いています。それを曇らせることのないよう、ご卒業のその日まで、心を込めてしっかりと、応援し続けたいと思っています。
というわけで引き続き、私はまだあまり泣いていません。少なくとも泣きわめいたりはしていません。
我慢しているつもりもないんだけれど、なるべく普通に、ちゃんと、見送りたい、とがんばってしまっている部分はあるのかもしれません。大空さんのときにも、最後の最後にだけ自分でもびっくりするくらい泣いたし、今後もそれは自分でもわかりません。上手く素直になれたらいいなと思うけれど、ダメかもな。素直じゃないからな。
でも、とてもとてもありがたいことに、私にはかけがえのない友がいるのです。この澄んだ沼に同じように浸るお友達たちがたくさんいて、ことに私含めて5人で常に似たテンションで盛り上がり笑い泣き怒り愚痴りお揃いでやらかし、でも別にベッタリしすぎてもいなくて東西も仕事もファン歴も家庭の事情も年齢もバラバラなんだけど仲良し、というお友達ができて、本当にありがたく思っています。支え合って笑い合って、ともに健康に気をつけ合って、楽しく走り抜きたいです。それが私たちの愛なんです!(なんかそんな台詞あったよね…)
今回はおしまい。オチがなくて澄みません、じゃなかったすみません。
ちなみに初日の感想はこちら。
大劇場新公は観られませんでした。連休明けで仕事がどーもならず…東京でなんとかして観たいものです(><)。
先日、WOWOWでまゆたんみっちゃんの副音声解説付きで花組版の放送がありましたね。お友達に録画してもらって見てみました。
スターの比重の関係でちょこちょこ違いはあるものの、今回とは大きな違いはない印象ですね。外部版の新曲「オーシャンズ10」が加わったくらい?
花組版ではイエンがみつるで、このときもう専科でしたっけ、まだ組子でしたっけ?ソロがあったけれど、今回はあきもなのでそれはカットされていたり、バシャーのみーちゃんもこのとき花組に移ったばっかりだったんでしたっけ?でフィーチャーされているのか、地下に降りていく銀橋ソロをもらっているんだけれど、今回はそこが2番手キキちゃんのラスティーになっていたり。ラスト客席登場のテスは前回は白菜ドレスで、だったんですね。その姿でガラスの箱に入ったんだから正しい気もするし、でも今回のまどかにゃんは彼女に一番似合うディナーのときの銀のワンピースで登場していてそれも良き、と思います。ちなみにまどかは今回の冒頭のドレスのことはキャベツと呼んでいるそうですけれどね…てかテスのお衣装はなんかどれもちょっとヘンに改変されている気もして残念でした。テリーのオフィスに行く場面での、あの黒ストッキングがホントにダサくて嫌なんですけどね…(><)
フィナーレの歌手がベネディクトだっただいもんなのでテスへの想いを改めて歌うのは正しい気がしたけれど、今回はここもキキでちょっとヘンなので、歌詞から「テス」を取っちゃえばよかったのに…と思ったり、今回のエトワールはおそらくオーディションだったのではないかなと思うのだけれど、さらちゃんとはホントいい人選だよな、専科のみっちゃんをどう降ろすか難しかったんだろうけどエトワールってどうよ…とか、思ったりしました。
「歌劇」の座談会によればイケコはやたらと「大人のおとぎ話」という単語を連発していて、まあ確かになんちゃってクリミナル・コメディとかピカレスク・ロマンみたいなものを想定して作ったんだろうとはわかるのだけれど、そしてその創作姿勢が後年『AfO』に昇華、結実していったのだなあとは思うのだけれど、やはり現代物だし、エコロジーとかNPOとかその脱税疑惑とか犯罪スレスレの地上げとか恐喝とか、やはりちょっと冗談ではすまないリアルさ、現実問題があるので、そのあたりとなんも考えないで楽しむような娯楽性とはやはり相性が悪いんじゃなかろうか…とは、私は感じてしまっています。
インスタとか美肌アプリとかを出して初演時・再演時よりもさらに現代感を出してきているのに、「地図をメールする」とか「ホテルのインターネットに侵入する」みたいなパードン?なセリフが改善されないままだったりするザルさも、個人的にはとても気になります。いったい本気でアップデート、ブラッシュアップする気があるのか!?
座談会からしてもウッズ夫妻は確かに不正に手を染めているとされているようなので、となるとそれを知らずに信頼しきってともに環境運動する気満々のテスは、まあもちろん被害者なんだけどちょっと間抜けで残念な子に見えかねないし、確かにまだ年若いんだろうけれどあまりに世間知らずでうかつすぎて、そりゃ百戦錬磨のショーステージの女王に「カマトト」呼ばわりされちゃうのも当然だよね、ってなっちゃうと、テスのヒロインとしての魅力に響くわけですよ。イヤ男性作家は女はこれくらいの方が可愛いよ、男に守られていればいいんだよ、男は好きな女のためなら悪にも手を染めるんだよそれが男のロマンだよ…とか萌えてこういう物語を書いてるのかもしれませんが、観るのは女ですしはっきり言って女をバカにすんなっつーの、ですよ。
テスは「私は手段にこだわりたいの」(でしたっけ?)と明言しています。目的のためなら手段はなんでもいい、という考え方には与しない、正しいことを正しいやり方でしたい、というポリシーは、貫くことはつらく苦しいでしょうが立派なものだし、もちろん明らかに正しい。こういうキャラクターのこういう考え方が報われる物語であってほしいのだけれど、この作品はそうなっていません。ダニーもテリーもそういうふうには動いていないし、結局テスはそんなダニーを容認してしまうからです。好き合っていたふたりが元サヤに戻る、のはそりゃハッピーエンドでいいんですが、ダニーとテスの生き方の指針が実は意外と違う、という問題点についてはスルーでいいの?というあたりが、なんともモニョるワケです。
そもそもウッズ夫妻が不正を働いているならそれをネタにちょっと脅迫しているだけのテリーはそこまで悪いことをしているわけではない、とも言えてしまいます。だからテリーがテスにフラれて、ダニーにお金も奪われて、勧善懲悪めでたしめでたし、とも思いづらい。そこも実はモニョるんですよね。ダニーがちょい悪なダーティー・ヒーローなら対するテリーはもっと巨悪でないと、本当は物語として成立しないのです。
ま、私にはずんちゃんテリーはまどかテスには本気のラブは感じてなくて、あくまで利用価値があると思っていたから口説いていただけ、に見えたし、ラストの「ネバーギブアップ!」には一晩分の稼ぎくらいくれてやらぁオラ野郎ども次行くぞ次!みたいなポジティブさがあっていいなと感じているので、そこまでかわいそうではなくて、それはよかったかな…とは思うのですけれどね。
そんなわけで、個人的にはいろいろモニョるし、それでもスターに見せ場はあるし組子はみんな小芝居も楽しそうにしているし、セットもお衣装も豪華で綺麗で観ていて飽きないし、単純だけどやっぱり「ジャンプ」には胸アツになるよね、「ジャックポット」のイレブンの後ろ姿ピラミッドのカッコ良さとかホント卑怯だよね、娯楽としてホント一定以上の水準にはなってるんだよね…とはなるので、まあいいっちゃいいんですけれどね。
でも、東京公演はチケットがホントなさそうですし、なら、そんなにたくさん観なくてもいいか、な…という気持ちには、今、ちょっと、なっちゃっています。贅沢言って、偉そうなこと言って、ホントすみません。観たら観たで絶対楽しむんだけれど、あと私は絶対に寝ない派なんで観たらホントちゃんと観ちゃうんですけれど、それでも飽きるというか、もう考察することがなくて観ていて退屈するというか…なんですよ、ホントすんません。だって芝居が深化するようなタイプの作品じゃないからさ、何度も観ても同じじゃん…となってしまうのです。ホントにホントにすみません。
でも、見えていないことはもちろんたくさんあって、贔屓の周りとかそりゃ何度通おうと最後まできっと見えませんよね。のちに映像で見て驚くことになるんでしょうね…
フランク登場シーンのバックにカードの映像が出てるってホントですか? それが3(さ)、8(や)、10(と)で21のブラックジャックになってるらしいんですけど、素敵ですねありがたいですね! 顔しか見てないんで見えてませんけど!!(笑)
そういえばPARADISOのディーラーの制服のベストは、花組版と違って黒フチが襟もとと裾に付いていて、よりシャープでスマートな印象になっていましたよね。ありがたいことです。
カジノ客役の組子がとっかえひっかえディーラー台に来てゲームしながら談笑している様子なのも、眺めていてほっこりします。
フランクはダニーとは以前どんな関わりがあったんでしょうね。知りたいわ、でも掘るところがないんだよなあ…残念。
フィナーレはホントいい感じにチョーシ乗っててキレッキレのノリノリで、ごちそうさまです満足です。残念ながら楽屋入り出待ちでは舞台に出てる人と会えないんですけどね(笑)、別人のゆるふわな人が毎度現れますからね。ホント役を引きずらない人です…
大劇場ラストお茶会は珍しくレポ禁でしたが、泣きわめいて暴走するとかいった事故はなく(笑)、レポ禁の必要もないくらいの、いたって通常運転の和やかさでした。
前夜のりく茶が、これもレポ禁でしたが、これは暴走とか暴露とかいうよりもむしろごく率直で素直な泣き笑いにあふれたもので、それはそれでレポ禁に意味があったかな、と思ったのですが、今回の澄輝茶にはそういう面はなかったと思ったんですよね。
でも、そういうところ、つまり最後だろうと普段どおりであろうとするところにこそ、人となりが表れているんだろうな、とも思いました。つまり、泣いたりわめいたりしたくないんだと思うんですよ、騒ぎたくないの、騒がれたくないの。卒業は自分でじっくり考えて決めたことで、それ以上でもそれ以下でもなくて、ことさらに扱ってほしくなくて、辞めるって決めたんだから辞めるの止めてとか言われたくないし、寂しいと泣かれたくもなく、いつもどおり楽しく、笑顔で、真摯に、真面目に公演し、それをいつもどおりに観て、楽しんでもらいたいのでしょう。そういう意思を、主張を、美学を私は感じました。意地っ張りだなとも思うし、でもそういうちょっと頑固なところがあるよね、優しい人だけれど決して弱くはない、むしろ強い人だよね、それでこそだよね、これが私の好きな人ですよ…!と、思ったのです。
東京お茶会ではもう少し何か発言があるかもしれませんが、卒業については本当にさらっと、既定事実として語るだけでした。何故とか、いつとか、何がどうとか、語りたくないんだと思います。今はまだ語りたくない、のかもしれないし、ここでは語りたくない、ということなのかもしれませんが、とにかくそういう美学の持ち主なんだと思うのです。そういうスターさんなんだと思うのです。だから、受け入れて、見守りたいです。
あとは、お歌が楽しみですね。ずんちゃんとシンメで銀橋でフィナーレの歌手、とかもあったけれど、あれはやはりスターとしての起用であって、もっと純粋に歌手として使われていいと本当にずっとずっと思ってきたんですよ。それは叶わなかったのだけれど、やはりそう思ったのは間違いではなかった、と改めて感じさせてくれた今回のお歌でした。名曲だし、けっこういろんなスターさんが歌ってきた歌だけれど、とてもとてもよかったです。そして、この人の歌にちゃんとなっていた。それがすごい、と思ったのでした。
締めの挨拶で、珍しく芸名に言及するような部分があって、はっとさせられました。宝塚歌劇のスターって本当に不思議で、ファンとの距離も近いし、本名由来の愛称で呼んだりして本当に親しみやすくて、でも友達ではない。舞台でお芝居の役として生きる姿、ショーで芸名の存在として歌い踊る姿がまずあって、それと別にまた舞台の外での入り出なりお茶会なりスカステなりでの姿があって、そういうもの全部全部ひっくるめてその芸名のスター、生徒、ってものになるんだろうし、その存在は実は生徒本人とファンとで共有されていて、共に作り上げているところがあるんじゃないのかな、とか思ったのです。芸名という名のスターという幻想、幻影…というとまた儚くてまがい物みたいで、ちょっとアレなんですけれど。
かつて大空さんは、芸名としての自分の存在が自然になったから、その粋まで達したから満足して卒業する、みたいなことを語ったことがありましたが、これってそういうことなんじゃないのかしらん、とか思ったのです。完成したら、ゴールで、ご卒業、というか。そういうときが来た、ということなのかな、と。
もちろん退団後、宝塚歌劇の生徒でなくなっても、同じ芸名で芸能活動を続ける人はたくさんいて、芸名のアイデンティティとしての大きさを感じますが、やはりスターとファンの関係性はちょっと変質しますし、スター自身も現役生徒のときとは在り方が異なってきますよね。そして芸能活動を始めない人、本名に戻ってまったくの一般人になってしまう人もたくさんいて、そうしたらもうその芸名の存在は本当に永遠になくなってしまうのです。ファンはそれこそ友達じゃないから、もう二度と関われない。消息すら知ることができなくなる。
それでも、記録にも記憶にも残るし、何より愛が確かにあった事実はなくならない、のだと思うのです。愛は、消えない。失われない。
私はずっと、当人に贈るものや縁のものとして自分が持つものにAではなくSのイニシャルを選んできました。それは私のイニシャルもSなので(名字だけど)使いやすい、ということもありましたが、やはり知らず知らずのうちに、愛称ではなく、もちろんご本名ではなく、芸名を尊重し、そこに愛を捧げていた意識があったのかな、とか考えたりもしました。毎度ホント理屈っぽくてすみません…
というかホント名は体を表す、じゃないけどいい芸名だしぴったりですよね! まあ当人はそんなさわやかなばっかりじゃなくて(オイ)、意外と意固地なところもある人だと思っていますが、本当に穏やかで、優しくて、しなやかに強くて、澄んでいて、輝いています。それを曇らせることのないよう、ご卒業のその日まで、心を込めてしっかりと、応援し続けたいと思っています。
というわけで引き続き、私はまだあまり泣いていません。少なくとも泣きわめいたりはしていません。
我慢しているつもりもないんだけれど、なるべく普通に、ちゃんと、見送りたい、とがんばってしまっている部分はあるのかもしれません。大空さんのときにも、最後の最後にだけ自分でもびっくりするくらい泣いたし、今後もそれは自分でもわかりません。上手く素直になれたらいいなと思うけれど、ダメかもな。素直じゃないからな。
でも、とてもとてもありがたいことに、私にはかけがえのない友がいるのです。この澄んだ沼に同じように浸るお友達たちがたくさんいて、ことに私含めて5人で常に似たテンションで盛り上がり笑い泣き怒り愚痴りお揃いでやらかし、でも別にベッタリしすぎてもいなくて東西も仕事もファン歴も家庭の事情も年齢もバラバラなんだけど仲良し、というお友達ができて、本当にありがたく思っています。支え合って笑い合って、ともに健康に気をつけ合って、楽しく走り抜きたいです。それが私たちの愛なんです!(なんかそんな台詞あったよね…)
今回はおしまい。オチがなくて澄みません、じゃなかったすみません。
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