東京芸術劇場シアターイースト、2013年10月27日マチネ。
原作/イングマール・ベルイマン、翻訳・台本/木内宏昌、演出/熊林弘高。1978年に公開された同名映画を舞台化したもの。全一幕。シャルロッテ/佐藤オリエねエヴァ/満島ひかりのふたり芝居。
原作映画を未見です。というか実はベルイマン作品を観たことがありません。なのでほとんど知識がないまま、それでも満島ひかりはいい女優だと思っているので、出かけました。
女同士のドラマだと姉妹とかライバルものの方が好みで、実は母娘ものにはあまり興味がありません。自分の母親が屈託のないごく普通の女性で、私もすべてを正直に明かすよくできた娘などではないにせよ、まあまあ仲のいい、話の通じる、ごく問題のない親子関係を築いてきていると思うので、愛がないとか過多であるとかのドラマが正直ピンとこないのです。
これはまさにそんな物語で、母親のシャルロッテはピアニストで演奏旅行に明け暮れ、娘のエヴァは父親とともに家に残されて寂しい思いをしたようです。しかしもちろんエヴァはすでに成人し結婚しシャルロッテとは離れて暮らしていたというのに、七年ぶりに再会することになるのでした。どうやらシャルロッテの愛人だった男が病死したらしく、エヴァは落ち込む母親を慰めようと自宅に招いたのでした。
表面上はなごやかにスタートした母と娘の再会でしたが、一夜のうちにいろいろな事実やら事件やら心情やらが暴かれ…というお話。
それを、簡素なセットや客席までも上手く使って、効果的な証明と音響で、ふたりの女優の緻密な演技とともに緊密に組み上げていったのでした。
しかし私は途中から、プログラムにあった、この上演台本を書いた作者が途中で何度かあきらめそうになったこと、そのつどそもそもこの原作を作ったのが男性であることを考えたことなどを綴った文章を思い出していました。
確かに人はすべて母親から生まれるのだけれど、男性は母にも娘にもなれません。しかし男性であるベルイマンは何故この母と娘の物語を書いたのだろう、何を言おうというのだろう、オチはどこにあるのだろう…そんなことを考えながら、観劇していました。
私は女性であり、母親ではありませんが娘であり、けれどこの物語のような親子関係を経験したことがなく、共感もしづらく、ただこういうこともありはするだろうなあ、という感じで眺めていたので、それで話がどうなればいいのかとかどうなるべきだとかがまったく考えられなかったのです。
そして驚いたことに、ラストでこの母と娘は、どうにもならないまま終わったのでした。
あんなに過去を蒸し返し憎悪を叩きつけ合いそれでも理解も和解もできず別れたのに、それでもエヴァはシャルロッテにまた手紙を書いている。シャルロッテは読まないかもしれない、読むかもしれない、読んで娘を訪ねるかもしれない、しかしきっとまた同じことが繰り返されるだけでしょう。
不毛です。でもきっとエヴァにはやめられないのです。そしてシャルロッテもまた向き合えないのです。
エヴァの溺れて死んだ息子エリックが生きていたら、違っていたかもしれません。エヴァはこのループから抜け出せたかもしれない。エリックは息子だったからです。男の子だったからです。それは娘では確かに駄目だったのです。
シャルロッテの母もまた、どうやら愛することの下手な母親だったようなことがシャルロッテの口から語られます。だからシャルロッテは音楽の才能に逃げたのでしょう。
妻となり、母親となったからといって、夫や子供を愛せるとは限りません。世の中には、絵を描くのが下手だとか速く走るのが苦手だとかいうのと同じように、愛するのが下手な人というものがいるものなのかもしれません。そしてそれは家族で、ことに親子で伝染しやすい。ことに女と女の間で。人はすべて母親から生まれ、そして母とは女だからです。
ヨセフでは駄目だった、レオナルドでは駄目だった、エリックならできたかもしれない、でも幼くして死んでしまった。そしてヴィクトルでも駄目なのでしょう。
だからエヴァはシャルロッテを求め続ける。しかしシャルロッテは逃げ続けるでしょう。彼女たちはおそらく一生上手く愛することを学べない、しかしお互いから逃れられない。なぜなら母と娘だからです。
怖い話だと思いました。ゴールのない、救いのない、メビウスの輪のような不毛な永遠。
人はみな、「母であるか、娘であるか、またはその女性を見つめるだけの無力な男」であるようです。女ではない者だからこそ書けた、母と娘の話なのかもしれないな、と思いました。女はこんなあたりまえのことを書かないし、書くなら救いなりオチなりの展開をつけてしまったと思うのです。
そんな、すごい作品なのかもしれないな、と思いました。
原作/イングマール・ベルイマン、翻訳・台本/木内宏昌、演出/熊林弘高。1978年に公開された同名映画を舞台化したもの。全一幕。シャルロッテ/佐藤オリエねエヴァ/満島ひかりのふたり芝居。
原作映画を未見です。というか実はベルイマン作品を観たことがありません。なのでほとんど知識がないまま、それでも満島ひかりはいい女優だと思っているので、出かけました。
女同士のドラマだと姉妹とかライバルものの方が好みで、実は母娘ものにはあまり興味がありません。自分の母親が屈託のないごく普通の女性で、私もすべてを正直に明かすよくできた娘などではないにせよ、まあまあ仲のいい、話の通じる、ごく問題のない親子関係を築いてきていると思うので、愛がないとか過多であるとかのドラマが正直ピンとこないのです。
これはまさにそんな物語で、母親のシャルロッテはピアニストで演奏旅行に明け暮れ、娘のエヴァは父親とともに家に残されて寂しい思いをしたようです。しかしもちろんエヴァはすでに成人し結婚しシャルロッテとは離れて暮らしていたというのに、七年ぶりに再会することになるのでした。どうやらシャルロッテの愛人だった男が病死したらしく、エヴァは落ち込む母親を慰めようと自宅に招いたのでした。
表面上はなごやかにスタートした母と娘の再会でしたが、一夜のうちにいろいろな事実やら事件やら心情やらが暴かれ…というお話。
それを、簡素なセットや客席までも上手く使って、効果的な証明と音響で、ふたりの女優の緻密な演技とともに緊密に組み上げていったのでした。
しかし私は途中から、プログラムにあった、この上演台本を書いた作者が途中で何度かあきらめそうになったこと、そのつどそもそもこの原作を作ったのが男性であることを考えたことなどを綴った文章を思い出していました。
確かに人はすべて母親から生まれるのだけれど、男性は母にも娘にもなれません。しかし男性であるベルイマンは何故この母と娘の物語を書いたのだろう、何を言おうというのだろう、オチはどこにあるのだろう…そんなことを考えながら、観劇していました。
私は女性であり、母親ではありませんが娘であり、けれどこの物語のような親子関係を経験したことがなく、共感もしづらく、ただこういうこともありはするだろうなあ、という感じで眺めていたので、それで話がどうなればいいのかとかどうなるべきだとかがまったく考えられなかったのです。
そして驚いたことに、ラストでこの母と娘は、どうにもならないまま終わったのでした。
あんなに過去を蒸し返し憎悪を叩きつけ合いそれでも理解も和解もできず別れたのに、それでもエヴァはシャルロッテにまた手紙を書いている。シャルロッテは読まないかもしれない、読むかもしれない、読んで娘を訪ねるかもしれない、しかしきっとまた同じことが繰り返されるだけでしょう。
不毛です。でもきっとエヴァにはやめられないのです。そしてシャルロッテもまた向き合えないのです。
エヴァの溺れて死んだ息子エリックが生きていたら、違っていたかもしれません。エヴァはこのループから抜け出せたかもしれない。エリックは息子だったからです。男の子だったからです。それは娘では確かに駄目だったのです。
シャルロッテの母もまた、どうやら愛することの下手な母親だったようなことがシャルロッテの口から語られます。だからシャルロッテは音楽の才能に逃げたのでしょう。
妻となり、母親となったからといって、夫や子供を愛せるとは限りません。世の中には、絵を描くのが下手だとか速く走るのが苦手だとかいうのと同じように、愛するのが下手な人というものがいるものなのかもしれません。そしてそれは家族で、ことに親子で伝染しやすい。ことに女と女の間で。人はすべて母親から生まれ、そして母とは女だからです。
ヨセフでは駄目だった、レオナルドでは駄目だった、エリックならできたかもしれない、でも幼くして死んでしまった。そしてヴィクトルでも駄目なのでしょう。
だからエヴァはシャルロッテを求め続ける。しかしシャルロッテは逃げ続けるでしょう。彼女たちはおそらく一生上手く愛することを学べない、しかしお互いから逃れられない。なぜなら母と娘だからです。
怖い話だと思いました。ゴールのない、救いのない、メビウスの輪のような不毛な永遠。
人はみな、「母であるか、娘であるか、またはその女性を見つめるだけの無力な男」であるようです。女ではない者だからこそ書けた、母と娘の話なのかもしれないな、と思いました。女はこんなあたりまえのことを書かないし、書くなら救いなりオチなりの展開をつけてしまったと思うのです。
そんな、すごい作品なのかもしれないな、と思いました。
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