駒子の備忘録

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『All My Sons』

2020年10月07日 | 観劇記/タイトルあ行
 シアタートラム、2020年10月6日19時。

 第二次大戦後のアメリカを舞台に、欠陥部品を納品したことで21人の若者を死に至らしめた飛行機部品工場の経営者一家の物語。それにより引き起こされる家族の問題と、あぶり出される資本主義の陰影…
 作/アーサー・ミラー、翻訳・演出/詩森ろば。1947年初演、全2幕。

 アーサー・ミラーの初期の傑作で、『みんな我が子』と題されることが多い戯曲だそうです。私は『サラリーマンの死』も映画『新聞記者』も未見なので、初アーサー・ミラー、初詩森ろばでした。神野三鈴目当てというのと、トラムや新国立でやるような翻訳劇が大好物なので、いそいそと出かけました。
 長男クリス役の田島亮は9年前に新国立で同じ戯曲、同じ役を演じているそうです。そういうのもおもしろいですよね。そのときのケイト(神野三鈴)はターコさんだったそうです。似合いそう。でももしかしたらちょっと知的すぎたかも? もっと泥臭い女優さんがやってもいい役なのかもしれません。神野三鈴ももちろん素晴らしかったけれど、上品な気もしたので。
 プログラムの演出家の言葉によれば、元の戯曲で「ケラー/母/クリス」となっていたところを「ジョー(大谷亮介)/ケイト/クリス」としたそうです。あたりまえですよね、ケイトにはちゃんと名前があるのです。しかもこの物語の中での彼女の役割は、単にクリスとラリー兄弟の母というだけでなく、ジョーの妻の部分もとても大きかったと思います。そしてアン(瀬戸さおり)の未来の義母の部分も。この時代のこのくらいの年代の女性の常として、家族と離れた素の自分、素の女性だけの部分というのはほとんどない人物かもしれませんが、それでもただ「mother」とだけされていいわけがない。そこに例えば聖母のような、何かものすごく大きな意味を込めていたのだとしても、です。むしろこれは彼女の物語、彼女が主役の話でしょう。なのにタイトルにすら現れない。「みんな私の息子たち」というけれど、子供を息子たちと呼ぶ主体は産んだ母親ではなく父親のように思えます。ジョーとクリスはケイトそっちのけで父と息子のドラマを繰り広げている。戯曲も初演も、ジョーを主役としていたのかもしれませんが、今回はケイトの物語に見えるようになっていたと思うので、それは女性演出家の手腕によるものだったのかもしれないし、神野三鈴がファースト・クレジットになっているからかもしれないし(カテコの引っ込みで大谷さんが紳士らしく菅野さんのためにセットの家の扉を開けて先に入れてあげるので、最後の引っ込むのが彼になりますが、それでも彼が主役だと思えませんでした)、現代に生きる女性の私が今観た舞台だったからかもしれません。そんなに感じられなかったけれど本来はもっと彼らがユダヤ系であること、その家父長制の強固さが窺えるものだそうで、それはやはり現代で上演されるなら批評に晒されるし、その上でもちろんそれだけではない奥深さや複雑さこそが鑑賞されるべきだよなと思いました。要するにめっちゃ刺激的でスリリングでおもしろかったです。一夜の顛末のお話だけれど、どう転ぶか予想がつかなかったせいもあります。あと、隣人たちとかが本当によく効いていたと思いました。
 若きミラーはクリスの正義を良きもの、正しきものとしていた、みたいなことが役者の対談で語られたりしていますが、私は彼のそれは『SAPA』のイエレナが言うところの「ピカピカした正義」(脚本がないので表記は想像です。「ぴかぴか」かも)にすぎないと感じました。親の金で育ててもらって、食べさせてもらって、学校も出させてもらって、なのにその金が汚いと罵る、坊ちゃんの発言に思えました。だいたい彼が戦争で殺した人命と、ジョーが欠陥部品を納品しそのことを黙っていて検品にも引っかからず出荷され飛行機になりそれが墜落して失われた人命と、多寡とか軽重とか相違とかはあるのでししょうか。戦争だから仕方なく、とか部下を守るため、祖国のために敵兵を撃っただけだと言うのなら、家族や社員を食べさせるために口をつぐんでいたジョーだってただそれ「だけ」でしょう。
 だから責めてはいけない、ということではもちろんありません。正しく裁かれるべきだ、出頭しよう、というクリスは正しい。でもそれで何が失われるかを彼は全然考えていませんでした。そして事実ジョーは、出頭する支度をすると言って家に引っ込み、拳銃自殺したのです。彼に自分自身をそんなふうに裁く経理はないのだけれど、彼はそうできたからしたのだし、そうしたかったからしたのです。ジョーをそう追い込んでクリスは、自分の父親を失いましたが、母ケイトからは夫を奪ったのです。そんな権利が彼にあるでしょうか? それでも彼の糾弾は正しかったのだと言えるでしょうか?
 クリスをかき抱くケイトの、そしてその直前の幻のジョーとまぐわんばかりに抱擁し合うケイトの狂気が恐ろしくてたまりませんでした。そう、クリスを抱くケイトは聖母のようでもなんでもない、あれは狂気です。つまりこれは、男と番い男を産むと女は狂う、という話なのだと私は思いました。ナウシカ歌舞伎であれだけ熱く響いたラストの「生きる」が、この舞台では恐ろしく禍々しく響きました。こんな狂気は私は嫌です。
 だからアン、逃げて、と心底思いました。行動原理が解決されていない役、とかなんとか言われているそうですが、別に人は理屈だけで動いているんじゃないし、アンは別に単純に、かつてはラリーを愛していて今はクリスを愛している、結婚して新たな家族を持ちたいと考えているだけの女性なんだと思います。ケラー家にも自分の家にも屈託はあるけれど、それはすべて結婚してどこかの土地に新たな家庭を築けばリセットされると棚上げしている。それってごく普通の心理だと思います。ラリーやスティーブやジョーの欺瞞みたいなことは世にあふれていて、見たくなければ目をつぶるしかない。恋をしているのでクリスだけは清廉だと思っているかもしれないし、もうクリスの駄目なところも見えちゃっているのかもしれないけれど恋しているからそこも目をつぶる気満々で、ただ幸せな未来しか見ていない。幸せな未来を築く能力が自分にはあると確信している、強い、けれど普通の女性なのでしょう。難しい役ではない。けれどとてもいい役で、いい女優さんで、惹かれました。髪をまとめているのは珍しいですよね。こういう役を例えばゆきちゃんとかゆうみちゃんとかで見たいよ。ウメもいい、みほこもいい。こういうお芝居、できるよねOGでも。そういう仕事の選び方をすればいいのに…オファーがあるのか、オーディションに行くチャンスがあるのかはわからないけれど。つまりお姫さまみたいなことばっかやってなくてもいいって話です、脱線ですが。
 というわけでアンにはここから逃げてもらいたい。クリスと結婚なんかしちゃ駄目。父も兄も捨ててどこか遠くで生きよう、ひとりで生きよう、それでも幸せになれる力を彼女はちゃんと持っているんだから。そして男と番わず、息子を産んで男を再生産することに荷担するのもやめよう。そうして世界を滅ぼすしかない。それでしか女は幸せにはなれない。足立区を滅ぼすものがあるとしたらそれはLGBTではなく差別意識に気づきもしない愚劣な男どもであるのと同様に、世界を滅ぼすことができるのは女を狂気に落とす男から逃れられた女たちなのでしょう。次の世代ができなければ人類が滅ぶのは自明ですが、今世界はこぞってそう仕向けているとしか思えないのですから。
 それでもいいよ、世界が滅ぶまで逃げた女たちはきっと人類至上最も幸せな存在となれるでしょうからね。その輝きのために世界を滅ぼしてもいい。「女性が輝く未来」ってそういうことです。
 …と思い至るくらい、重い、ひどい、素晴らしい舞台でした。今はまだ良き滅びの全然道半ばなので、まだまだ上演される意義がある作品なのだと痛感しました。

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