駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『ブラッド・ブラザーズ』

2022年03月30日 | 観劇記/タイトルは行
 東京国際フォーラム、2022年3月28日18時半。

 ナレーター(伊礼彼方)が語る、ある双子の数奇な物語。ミセス・ジョンストン(堀内敬子)は7人の子持ちで、新たな妊娠を機に夫に逃げられ、借金取りに追われ、その上お腹の赤ん坊は双子と知らされる。一方、彼女が仕えるミセス・ライオンズ(一路真輝)は仕事で多忙な夫(鈴木壮麻)との間に子供ができず悩んでいた。ミセス・ライオンズはミセス・ジョンストンに双子の片割れを欲しいと懇願し、裕福な家庭で育つ方が幸せになれる、仕事のたびに会えると説得されたミセス・ジョンストンは、ついに生まれた双子のひとりを渡すが…
 脚本・原作・作曲/ウィリー・ラッセル、演出/吉田鋼太郎、翻訳・訳詞/伊藤美代子、訳詞/岩谷時子。1983年リバプール初演、1991年日本初演。全2幕。

 タイトルは知っていて、日本初演のミッキー(柿澤勇人)は柴田恭兵だったんだよね、という知識だけでチケットを取りました。ちなみにエドワード(ウエンツ瑛士)は三田村邦彦だったらしい、わかるー! そして今回演出の吉田鋼太郎は初演から三演までミッキーの兄サミー(内田朝陽)役を務めたんだそうです。わかるー! 他に坂本昌行ミッキーに赤坂晃エドワード、武田真治と藤岡正明のミッキーに岡田浩暉と田代万里生エドワードのダブルキャストという公演もあったそうな。UKツアーはなお上演中という、不朽の名作といったところでしょうか。
 始まって1分でこれはたーっぷりやるタイプの芝居だな、と感じましたが、自分のコンディションが良かったのか休憩込み3時間の舞台をみっちり楽しみました。なんせみんなとにかく上手いので、冗長には感じなかったかな。主役ふたりが開始40分くらい出てこないし1幕は子供のまま終わっちゃうんですが、それでも巻いてスピーディーにしちゃうとかえって痩せてしまう作品だろうとも感じました。ミッキーは1947年生まれの作者の分身とも言える存在だそうで、だからこれはその年代くらいのその地域に根付いた物語なんだけろうけれど、でも貧困とか格差とかいったものはいつの時代でもどこの国でもある問題であり、それでも子供たちが仲良くなることや恋が生まれることは普遍的で、ある種抽象度の高い骨組の物語なので、くどいくらいにしっかりベタに人情味ある演技と感情を重ねて作り上げた方が響くのではないかな、と思ったのでした。
 お互い本当に兄弟であることを知らず、近所に住んでいるから、そして正反対の暮らしをしている正反対の性格だから、惹かれ合い仲良くなり親友になり、義兄弟の契りを交わす、男の子たちの物語。そして同じ日に生まれ同じ日に死んだ、しかも殺された男たちの物語でもあることも冒頭ですぐ明かされます。
 でも真の主役はミセス・ジョンストンですよね。まさしく圧巻の堀内敬子、納得で貫禄のどセンター役でした。彼女が歌い、劇中何度かリプライズされる「マリリン・モンロー」というナンバーは、この作品が役者5人の70分の芝居としてまず作られたときから唯一あった楽曲だそうです。マリリン・モンローというのはひとつの典型的な、象徴的な女性像ですが、私はむしろカテリーナ・スフォルツァを想起したくらいでした。子供に何人死なれても、女は産める限り産み続けるしかない。どうせ男は種を付ける他は殺し合うことしかしない。女が産まなければ人類は絶えてしまう…そんな物語のようにも思いました。
 あるいは『ロミジュリ』の兄弟版かな、とかね。ミッキーの遺体にリンダ(木南晴夏)が寄り添いエドワードの遺体の傍らにミセス・ライオンズがたたずむ構図は、ロミオとジュリエットが眠る霊廟に集った両家の両親の姿のようでした。でも彼らを殺したのは彼女たちではない。だから彼女たちは「罪人」は歌わない。貧困や格差が彼らを殺したということなら、そういう社会を作っているのはまぎれもなく男たちだからです。女たちはその社会に、政治に、ほぼ何も寄与させてもらっていないからです。これは男たちのせいで男たちが死ぬ、勝手に死ぬ物語なのでした。
 リンダが生きていてくれてよかったです。そして彼女の生んだ子供が娘であったことも。お話の途中でナレーターが、彼女がこの地に女として生まれただけで払わされるツケがある、みたいなことを語ったときに、私はまたお話の都合で殺されるヒロインを観ることになるのか…と気が気でなくなったのですが、彼女が病で死んだり出産で死んだり殴られて殺されたり犯されて殺されたり事故に遭って死んだりしなくて本当によかったです。もちろん彼女は夫に死なれて不幸ではあると思います、でも命あっての物種です。生きてさえいればこの先なんとかなることもある、ミッキーやエディには持てなかった可能性が残されているのです。救われました。エディがミスター・ライオンズそっくりの、けれどもちろんあつらえた新調であろう三つ揃えのスーツを着るようになった一方で、リンダは姑のカーディガンやエプロンをそのまま引き継いで身につけるようになりました。後ろ姿なんか本当にそっくりで、もちろんそう見せているんだけれど本当に残酷で怖くて悲しかったです。ミセス・ジョンストンもリンダも生まれた地を愛し、そこで出会った男を愛し結ばれて子供を産み育てるだけの暮らしをしましたが、リンダの娘サラは違うかもしれません。リンダもミッキーの前ではひとりで柵が越えられない振りをしてみせましたが、ひとりのときはハードルのように華麗に飛び越してミッキーを驚かせていたではありませんか! サラはここではないどこかへ行きたいと考える人間になるかもしれない。そして親や祖父母たちとは違う生き方をし始めるかもしれない。生きているって、命って、希望って、そういうことです。
 ミッキーが最期に言う、「なんで俺をあの家にやってくれなかったんだ、あっちの方がよかった」という言葉の、なんとひどいことか。こんな言い様を他になかなか聞けませんよ。この台詞を吐き出すのとほとんど同時にミッキーは衝動的にエディを撃ち、彼らを包囲していた警官たちはミッキーを射殺します(客席降り、客席登場が効果的に使われていて、コロナ以前のように見えた久々の作品でした)。そのあっけなさがまた絶望的なまでに上手いしいいんだけれど、だからこそこの台詞のひどさも際立つのでした。
 実際には双子のうちのエドワードになる方の赤ん坊を選んだのはミセス・ジョンストンではなくミセス・ライオンズでしたし、氏より育ちというのはもちろんあるだろうけれど生来の性格というものだってあるんじゃないのかとか考えればミッキーがライオンズ家に行っていたとしてもエドワードのようになったとは限らない。そしてもしミッキーがエドワードにようになっていたのならそれはエドワードがミッキーのようになっていたということであって、そのときは要するにそちらが彼を殺すことになっただけかもしれないのです。あっちがよかった、なんて意味ないし言っちゃいけないことなんです。でも今、親ガチャなんて言葉がある時代に、この台詞が響く…それを聞かされてミセス・ジョンストンは、女は、女たちはどうしたらいいというのか。兄弟の死なんかよりもそっちの方がよほど絶望的で、その意味でもものすごい演出であり作品だと思いました。
 ミッキー視点で観られがちでしょうが、エディは大学で新たな友を得て新たな人生に踏み出していたのであり、ミッキーはそれを無残に奪ったのでした。そのことも忘れてはならないと思います。
 兄弟が知り合い、仲良くなってすぐに、ミッキーがエドワードに卑猥な隠語を教え、エドワードは家で初めて母親に逆らってその言葉をミセス・ライオンズに投げつける、というくだりがあります。私は、そのエピソードの意図や意味はわかるし、確かに子供にありがちなことだし効果的だとも感じましたが、でも似た類の別な言葉でもなんでもよかったじゃん、とその言葉のセレクトにはやや退きました。要するに女性器を指す隠語です。今なお力を持っていて、ネットスラングでは女性差別に多いに使用されている言葉です。私は別の言葉にしてもらいたいと強く思いました。こんな悪いことしてるオレ、とかって意気がっていないか演出家? つまり7歳男児とまったく精神年齢が同じってことだけどなオイ? と思ったのです。
 でも、最後まで見て、正しい言葉のセレクトだったのかもしれない、とも思いました。女はすべて男をほんのり嫌いなものですが(あえて主語をデカくして断言しますが)、男もまた実はほんのり男を嫌っているのです。それはつまり自分を嫌い呪っているということです。そしてその呪いを、自分を産んだ女にぶつけている。自分をこの世に放り出した女性器に罪を負わせようとするのです。だから女を女性器の名で呼ぶ。そこに男根が挿入され射精されなければ、そしてそこでできた子供が旋回しながら産道を通りその一部に裂傷を作ってまで出てこなければ、人は決してこの世に生まれないというのに。それそのものはただの器官にすぎないのに。男たちは生まれてきた憎悪をすべてそこにぶつけます。自分たちにはない器官なのに、それなしでは生きていけないようなこだわりをしつこく見せ続ける。なんたる不毛、なんたる皮肉であることか…
 それでも女たちは子供を産み続けるのでしょう、しばらくは、まだ。これはそんな時代の物語です。この先は、女たちは本当に産まなくなりますし、産みたくても、欲しくても子供は宿らなくなります。そうして人類が死に絶える未来がやがて必ず来る。だからこれは、まだ人類を愛し信じる時代の物語なのでした。絶望的な死で終わる悲劇なのに後味が悪くないのは、人間を愛おしみ慈しむ視線がある、人間賛歌の物語だからだと思いました。

 「マリリン・モンロー」の歌詞の中にあるダンスとは、私はときめきとか人生のちょっとした余裕、華やぎ、お楽しみみたいなことなのかなと感じました。それこそ観劇のような。コンスタンツェのようにあまりにも毎晩踊りに行く、ダンスはやめられない、となるとまたアレだけれど、毎日ではなくても誰にでもちょっとは必ず必要なもので、でなければ人生は生きて行くにはあまりにつらく厳しすぎるものだと思います。それを単なる色欲とか前戯みたいなものとしてしか見ず、若い女にだけ与え認め利用しようとする男たちには本当に反吐が出ます。男とは自分に本当はどんな「ダンス」が必要なのかが全然わかっていない、愚かな生き物なのだろう、とも考えさせられました。将来サラが踊るダンスに希望をつなぎます。好きなときに好きなようにひとりで踊ることだってできるようになっているはずだから…

 何役もこなすアンサンブルが素晴らしかったですね。スウィングもふたりいたようで、いいことです。メインキャストももちろんみんな素晴らしかったです。このあと何都市か回るようですが、どうぞご安全に!



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