帝国劇場、2010年9月21日ソワレ、10月15日マチネ。
1898年9月10日、オーストリア皇后エリザベート(瀬奈じゅん)がルイジ・ルキーニ(高嶋政宏)という男に刺殺された。それから11年後、彼は独房内で自殺した。だが彼の魂は解放されなかった。「何故エリザベートを殺したのか?」という闇からの問いかけは続く。暗闇の中で、ルキーニはエリザベートの物語を語り始める…
脚本・歌詞/ミヒャエル・クンツェ、音楽/シルヴェスター・リーヴァイ、演出・訳詞/小池修一郎。1992年オーストリア初演、96年宝塚歌劇団にて日本初演、2000年版東宝版初演。エリザベートとトートを中心に、キャストの入れ替えがあった2010年版。
開幕前は石丸さんの前評判が高かったわけですが、蓋を開けてみると城田トートに絶賛の嵐…
とにかく長身なので、宝塚の男役トップスター出身のエリザベートが小さく見えていい、とか、声が甘くて妖しくてセクシーだ、とか、とにかく色っぽくて尊大そうで超越している感じがいい、とか…
ツイッターでも評判は聞いていて、話半分に聞きつつ期待していたのですが…
確かに、声はいい。歌は音程がしっかりしていてとても聞かせる。
甘く、妖しく、色っぽい。
背が高くて見栄えはするし、尊大で人間のことなんかなんとも思っていなさそうな「死」そのもの。
…でも、感心しなかったんだよなあ。
だってこのトート、エリザベートに恋していますかね?
私が、よりロマンティックで夢々しい宝塚版の方がやっぱり好きだから、こう思ってしまうだけなのでしょうか?
たとえば私はフランツがエリザベートの私室を訪ねてから、トートが出てきてエリザベートに
「出て行って!」
と言われるまでのくだりが大好きなのですが、ここの解釈がとにかくちがくて…
エリザベートに拒まれても、平然とデスクにふんぞり返って座るトートじゃ私は嫌なんだ…
ドクトル・ゼーブルガーになって現れるところもそう。エリザベートに拒まれても、なんら痛痒を感じず寝椅子にふんぞり返る…
そのエラそうな寝姿がいい、という声も聞くのですが…でも、でも。
フランツのヘタレな優男っぷりも現実の男優さんだとなー、というのもあるのですが、エリザベートに拒否されてもトートが全然平然としているのがとにかくイヤ。
トートの心が動いていないのなら、傷ついていないのなら、揺さぶられていないのなら、それは恋ではない。
単に気まぐれでエリザベートから命を奪うのを待ってやっているだけで、エリザベートを愛しているから、彼女に愛されたいと思っているから待ってあげているのではない。
演出として、それでいいの?
また、私がなんだかんだ言ってアサコが好きすぎるから、なのかもしれませんが…
アサコのエリザベートはとてもすこやかでまっすぐでひたむきで、花組からの特出でエリザベートを演じたときにもとても好感を持ちましたけれど、その性格は変わっていないのですね。
とても明るくて健康的で人間的。
これは、死に片足を突っ込んだような、浮世離れした、現実と向き合うことの少なかった美しく幽玄な美女エリザベート…という演出としてはまちがった役作りなのかもしれません。
けれどこのミュージカルが現代で上演されて意味を持つためには、ヒロイン像は現代の理想に即したものになるべきで、こういう健康的で健全なキャラクター像というのもありだと思うのですね。
だからこそ、それにあわせてトートは、紳士的で草食男子的な、月組でアサコが演じたときのようなトートになるものだと思うのですよ。
エリザベートを愛して、彼女に愛されたくて、だから常にそばに寄り添い、手を差し伸べ、彼女がふりむいてくれるのをずっとずっと待っている…
これって解釈として甘いのかな?
でも城田トートはあまりにもマッチョで肉食的で、その気になったらいつでもエリザベートを殺せてしまうし、そうしたとしてもなんの心の痛みも感じなさそうな存在に見えました。
しかも、無慈悲な死の象徴になりきっているかといえばそうでもなくて、色気と生気はあるわけだから、要するに古い時代の男、女が何を望んでいるのかなんて考えたこともない身勝手で尊大な男、のように見えてしまうのです、私には。
しかも力はある。最悪です。
そして東宝版は宝塚版よりトートの出番が少なくエリザベートの出番が多く、エリザベートはトートとの恋よりも現実との戦いに多くの時間を割いているように見えて、ここでも愛と死のロンドと言われるほどの恋心は見えてこない。
最後にエリザベートがルキーニに刺されたのもたまたまであって、トートを迎え入れたわけではない。
もちろんふたりして白いお衣装になって抱き合って昇天していくような宝塚版のようなフィナーレがないから、ということもあるけれど、いったいこれは何を描いたドラマなのか、とてもわからない、見えない、と私は思いました。
いやしかし城田くんはいいですよ。
宝塚版ではハンガリー戴冠のシーンではトートは王冠を授ける神官に化けていますが、東宝版ではバレードの馬車の御者になっており、黒天使ならぬトートダンサーにビシバシ鞭を振るっているのですが、まあなんと似合うこと。
しかしマッチョだ。少年ルドルフに対しても恐ろしい誘拐犯にしか見えなかったり、青年ルドルフに対しても誘惑なんかしてなくて、力任せにただ暴走させて命奪う非道っぷり。
うーむ、怖い…
というのが、初見の感想。
最初はかなり前方ながらかなり下手寄りで観て、そのショックも大きかったのかもしれません。
二度目の観劇は後方ながらもほぼセンターで、舞台全体がすっきりとよく見えて、おちついて観られました。
それに、城田くんが少し調子を落としていたのか、かなり抑え目に歌っているようで、それもおちついていて好感が持てました。
つまり、私が苦手に思った肉食感、ガツガツ感が少なかった(^^;)。
それでまた、印象が変わりました。
あいかわらずトートはエリザベートを愛しているようには見えないし、それで言うとエリザベートもトートを愛しているようには見えない。
ルキーニに刺されて命を落とし、トートに迎え入れられてからも、エリザベートは
「私が命ゆだねる、それは私だけに」
と歌うのです。トートへの愛を歌うわけではない。
つまりこれはエリザベートとトートの愛の物語ではなく、とあるひとりの人間の女性ととあるひとりの死神の戦いの物語で、そこには愛というよりはむしろ戦いという名の平行線があったのだ…という物語なのかもしれません。
そう考えると、トートとエリザベートの関係を男女の愛と同じ文脈でくくろうとする宝塚版の方が曲解しすぎなのかもしれません。
そもそも死とはこういうものなのかもしれません。
この方が、ウィーンオリジナル版に近いのかもしれません。
確かに本場ヨーロッパには、ナンパなロマンティシズムなんか割り込む隙がない気がする…
それで言うとやっぱり私は実は『エリザベート』という作品自体がどうもよくわからないというか、納得できたためしがないというか、自然に感動できたことがないというか…なんですよね。
好きな演目か、と問われると頷きづらいですし。
ううーむ、正解はどこにあるのだろう…
1898年9月10日、オーストリア皇后エリザベート(瀬奈じゅん)がルイジ・ルキーニ(高嶋政宏)という男に刺殺された。それから11年後、彼は独房内で自殺した。だが彼の魂は解放されなかった。「何故エリザベートを殺したのか?」という闇からの問いかけは続く。暗闇の中で、ルキーニはエリザベートの物語を語り始める…
脚本・歌詞/ミヒャエル・クンツェ、音楽/シルヴェスター・リーヴァイ、演出・訳詞/小池修一郎。1992年オーストリア初演、96年宝塚歌劇団にて日本初演、2000年版東宝版初演。エリザベートとトートを中心に、キャストの入れ替えがあった2010年版。
開幕前は石丸さんの前評判が高かったわけですが、蓋を開けてみると城田トートに絶賛の嵐…
とにかく長身なので、宝塚の男役トップスター出身のエリザベートが小さく見えていい、とか、声が甘くて妖しくてセクシーだ、とか、とにかく色っぽくて尊大そうで超越している感じがいい、とか…
ツイッターでも評判は聞いていて、話半分に聞きつつ期待していたのですが…
確かに、声はいい。歌は音程がしっかりしていてとても聞かせる。
甘く、妖しく、色っぽい。
背が高くて見栄えはするし、尊大で人間のことなんかなんとも思っていなさそうな「死」そのもの。
…でも、感心しなかったんだよなあ。
だってこのトート、エリザベートに恋していますかね?
私が、よりロマンティックで夢々しい宝塚版の方がやっぱり好きだから、こう思ってしまうだけなのでしょうか?
たとえば私はフランツがエリザベートの私室を訪ねてから、トートが出てきてエリザベートに
「出て行って!」
と言われるまでのくだりが大好きなのですが、ここの解釈がとにかくちがくて…
エリザベートに拒まれても、平然とデスクにふんぞり返って座るトートじゃ私は嫌なんだ…
ドクトル・ゼーブルガーになって現れるところもそう。エリザベートに拒まれても、なんら痛痒を感じず寝椅子にふんぞり返る…
そのエラそうな寝姿がいい、という声も聞くのですが…でも、でも。
フランツのヘタレな優男っぷりも現実の男優さんだとなー、というのもあるのですが、エリザベートに拒否されてもトートが全然平然としているのがとにかくイヤ。
トートの心が動いていないのなら、傷ついていないのなら、揺さぶられていないのなら、それは恋ではない。
単に気まぐれでエリザベートから命を奪うのを待ってやっているだけで、エリザベートを愛しているから、彼女に愛されたいと思っているから待ってあげているのではない。
演出として、それでいいの?
また、私がなんだかんだ言ってアサコが好きすぎるから、なのかもしれませんが…
アサコのエリザベートはとてもすこやかでまっすぐでひたむきで、花組からの特出でエリザベートを演じたときにもとても好感を持ちましたけれど、その性格は変わっていないのですね。
とても明るくて健康的で人間的。
これは、死に片足を突っ込んだような、浮世離れした、現実と向き合うことの少なかった美しく幽玄な美女エリザベート…という演出としてはまちがった役作りなのかもしれません。
けれどこのミュージカルが現代で上演されて意味を持つためには、ヒロイン像は現代の理想に即したものになるべきで、こういう健康的で健全なキャラクター像というのもありだと思うのですね。
だからこそ、それにあわせてトートは、紳士的で草食男子的な、月組でアサコが演じたときのようなトートになるものだと思うのですよ。
エリザベートを愛して、彼女に愛されたくて、だから常にそばに寄り添い、手を差し伸べ、彼女がふりむいてくれるのをずっとずっと待っている…
これって解釈として甘いのかな?
でも城田トートはあまりにもマッチョで肉食的で、その気になったらいつでもエリザベートを殺せてしまうし、そうしたとしてもなんの心の痛みも感じなさそうな存在に見えました。
しかも、無慈悲な死の象徴になりきっているかといえばそうでもなくて、色気と生気はあるわけだから、要するに古い時代の男、女が何を望んでいるのかなんて考えたこともない身勝手で尊大な男、のように見えてしまうのです、私には。
しかも力はある。最悪です。
そして東宝版は宝塚版よりトートの出番が少なくエリザベートの出番が多く、エリザベートはトートとの恋よりも現実との戦いに多くの時間を割いているように見えて、ここでも愛と死のロンドと言われるほどの恋心は見えてこない。
最後にエリザベートがルキーニに刺されたのもたまたまであって、トートを迎え入れたわけではない。
もちろんふたりして白いお衣装になって抱き合って昇天していくような宝塚版のようなフィナーレがないから、ということもあるけれど、いったいこれは何を描いたドラマなのか、とてもわからない、見えない、と私は思いました。
いやしかし城田くんはいいですよ。
宝塚版ではハンガリー戴冠のシーンではトートは王冠を授ける神官に化けていますが、東宝版ではバレードの馬車の御者になっており、黒天使ならぬトートダンサーにビシバシ鞭を振るっているのですが、まあなんと似合うこと。
しかしマッチョだ。少年ルドルフに対しても恐ろしい誘拐犯にしか見えなかったり、青年ルドルフに対しても誘惑なんかしてなくて、力任せにただ暴走させて命奪う非道っぷり。
うーむ、怖い…
というのが、初見の感想。
最初はかなり前方ながらかなり下手寄りで観て、そのショックも大きかったのかもしれません。
二度目の観劇は後方ながらもほぼセンターで、舞台全体がすっきりとよく見えて、おちついて観られました。
それに、城田くんが少し調子を落としていたのか、かなり抑え目に歌っているようで、それもおちついていて好感が持てました。
つまり、私が苦手に思った肉食感、ガツガツ感が少なかった(^^;)。
それでまた、印象が変わりました。
あいかわらずトートはエリザベートを愛しているようには見えないし、それで言うとエリザベートもトートを愛しているようには見えない。
ルキーニに刺されて命を落とし、トートに迎え入れられてからも、エリザベートは
「私が命ゆだねる、それは私だけに」
と歌うのです。トートへの愛を歌うわけではない。
つまりこれはエリザベートとトートの愛の物語ではなく、とあるひとりの人間の女性ととあるひとりの死神の戦いの物語で、そこには愛というよりはむしろ戦いという名の平行線があったのだ…という物語なのかもしれません。
そう考えると、トートとエリザベートの関係を男女の愛と同じ文脈でくくろうとする宝塚版の方が曲解しすぎなのかもしれません。
そもそも死とはこういうものなのかもしれません。
この方が、ウィーンオリジナル版に近いのかもしれません。
確かに本場ヨーロッパには、ナンパなロマンティシズムなんか割り込む隙がない気がする…
それで言うとやっぱり私は実は『エリザベート』という作品自体がどうもよくわからないというか、納得できたためしがないというか、自然に感動できたことがないというか…なんですよね。
好きな演目か、と問われると頷きづらいですし。
ううーむ、正解はどこにあるのだろう…
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