映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

アフガン零年(2003年)

2021-09-20 | 【あ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv33786/

 
 以下、「NHK アジア・フィルム・フェスティバル」HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 タリバン政権の抑圧の下で生きる12歳の少女とその母。病院で働いていた母親は、タリバンが女性の一人歩きを禁止したことにより、就労への道が閉ざされる。タリバンは、女性が男性に伴われずに外へ出る事を堅く禁じ、反した者には刑罰を与えていた。

 生活の糧を失った家族は、少女に男の子のかっこうをさせて働きに出すことを思いつく。生きるため、母と祖母は、恐怖におののく少女の髪を切る。

 少年となった少女は戦争で殺害された父の友人の下で働き始めるが、その翌日、街のすべての少年たちとともにタリバンの学校へと召集されてしまう。その学校では宗教の勉強や軍事訓練が行われていた。大勢の少年達の中で、真実を隠し続ける少女だが、宗教儀式でのささいなミスから、タリバンに疑いを抱かれる。そしてとうとう少女であることが暴かれる…。

=====ここまで。

 制作にNHKが加わっており、「NHK アジア・フィルム・フェスティバル」で上映され、カンヌではカメラ・ドール賞を受賞しているとのこと。


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 アフガニスタンにタリバン政権が復活したというニュースを見聞きすると、何ともいえない無力感を覚えます。中東情勢など、疎いもいいとこなので偉そうなことは言えないけど、本当に苦難続きの国、それがアフガニスタン、という印象。

 もとはといえば、直截的には、911の実質的な報復としてアメリカが暴走したことが引き起こした事態。911の起きる2か月前、私もNYに旅行で1週間滞在していたのだけれど、本当は、9月に行く予定だったので、ヘタしたら足止めを喰らって帰れなくなっていた可能性もあったのでした。9月から7月へ前倒ししたのは、NYの前に、友人が留学していた南ドイツへ行くことになっていて、友人に「9月は忙しくなりそうだから7月がいい」と言われたから。ドイツに1週間、NYに1週間。NYの1週間のうち後半3日間は胃腸炎で寝込んだので、実質3日間くらいしか観光できなかったのが心残りではあったものの、無事に帰国し、2か月後にあの映像をリアルタイムでTVで見たときは、怖ろしかった、、、。私は高い所苦手なので、WTCに昇る気はさらさらなかったけど、帰れなくなるのはやっぱり困るもんなぁ。

 それはともかく、911後のアメリカ(だけじゃないが)は、どう見ても異様で暴走していたような。タリバンが崩壊したとはいえ、20年後、結局復権を許すことになったのは、アメリカの失策と言うほかないのでは。

 本作は、その最初のタリバン統治下のアフガニスタンでのお話。もう、最初から最後まで、とてもじゃないが心穏やかでいられない。ヒリヒリ、ズキズキ、ドキドキのしっぱなし。恐ろしくて早送りしたくさえなるのを、どうにか我慢して最後まで見ました。

 
◆少女の名は“オサマ”

 とにかく、徹底的に女性を抑圧するのが、タリバンの方針なんである。女は独りで出歩いたらいかんのである。主人公の少女は、母親と祖母と3人女所帯のため、収入がゼロになってしまう。だから、長い髪を切って少年として、ささやかな収入を得るために働きに出されるのだ。少女が「怖いからイヤだ」と言っても、祖母も母親も「大丈夫」と言って、強引に髪をジョキジョキ鋏で切ってしまう。ヒドいと言うことなかれ、、、。こうしなければ、祖母も母親も飢え死にするより道はないのだ。

 少女は男の子として近所のミルク屋にアルバイトに行く。そこにも強引に母親が頼み込んで働かせてもらうことにしたのだ。このミルク屋のオジサンが、わりかし良い人で、タリバンが来てヤバそうになるとうまくかわしてくれ、自分も厳しい生活なのにちゃんと報酬(食べ物)をくれる。

 けれども、それはたった1日で終わる、2日目、ミルク屋で働いている少女は強引に召集(?)されてタリバンの男子教育施設へ運ばれる。そこで、ターバンの白い布を渡され、皆頭に巻くんだよね。インドでターバンを巻いている人はシーク教徒だと聞いたが、タリバンの巻いているあのターバンは、どうやら伝統主義者ということみたいだ。シーク教徒のターバンの場合、髪は伸ばしていると聞いたが、タリバンは男性の長髪は許さないということなので、ターバンはターバンでも見た目も意味もゼンゼン違うということらしい。

 とにかく、少女もターバンを巻かねばならないのだが、自分では巻けないので、少女を女の子だと知りながら親しくしている“お香屋”の男の子に巻いてもらう。

 それにしても、この教育施設、描写はわずかだが、やっぱし異様である。男児たちに、かなり高齢の爺さんが、「性器の洗い方」の指導までしているのだ。爺さんは小さな湯船に浸かって「まず右、次に左、それから真ん中、、、」とか実演する。一応、腰に布を巻いてはいるものの、少女のことを思うとハラハラする。最初は物陰から見ていた少女だったが、当然、少女も「脱げ」と言われ、爺さんの湯船に一緒に入れられ、、、とか、もう見てられない。

 当然、他の男児たちは、少女が“女”だと勘付いて、突き回し始める。「お前、なんて名前だ?」と少女に少年たちが聞くが、少女は答えられない。で、お香屋の男の子が機転を利かせて「オサマだよ!」と言って必死で少女をかばうが、多勢に無勢。しかも、女性ならではの生理現象により、呆気なく“女”とバレる。

 その後は、さらなる悲惨の坂道を転げ落ちる。オサマ=少女は、施設の庭の井戸に吊るされる。泣き叫ぶ少女。お香屋の男の子も泣いている。少女は、ブルカを被せられて投獄された後、裁判みたいなものにかけられる。死刑、石打ちの刑などに他の罪人は処せられていくが、少女には「結婚相手」が現れたことから、罰を免れることに。その相手は、60をとうに超えていそうな爺さんだ。ちなみに、この爺さんには、既に複数妻がいる。

 牢屋の中で、少女が縄跳びをするシーンが何度か挟まれるんだが、これがよりヒリヒリした悲哀を増す。自由への渇望と、現実の、残酷なまでの対照。見終わって、これほど気が重くなる映画も少ない。


◆女が悪い、、、のか?

 イスラム法ってのは解釈の幅が広く、服装について、別に女性の髪や肌を出すなとは明記していないそうで、(男女問わず)性的な部分は隠せ、ということらしい。だから、国や宗派によって隠す部分が異なっているわけだ。本作でも、やたら、女性たちに「隠せ、隠せ」というタリバンたちが描かれている。

 でもまあ、一連の描写を見ていてすごく疑問に思ったのは、男は「女に原因があるから」女に性欲を抱くのだ、という思考回路っぽいところ。“女の身体”が男を唆していると。そうは言ってない、と言われるだろうけど、いろんな決まりごとを突き詰めて考えるとそうとしか思えない。男本位の理屈に呆れる。だったら、性欲をいかにコントロールするかを教育しろって話。自分の下半身の暴走を女のせいにするな。

 おまけに、女の性欲は無視だしね。女に性欲がないとでも思ってんのか? 女が隠してなければ、性欲もコントロールできないケダモノなんですか?男って。

 タリバンの統治では、女性の人権蹂躙が槍玉に挙がっているが、それについて、あるブロガーさんが「日本や欧米のフェミたちは、自分たちの人権侵害には敏感だが、アフガンの女性のそれには無関心で、誰も声を上げない。彼女らは所詮、安全地帯でギャーギャー言っているだけで、自分たちさえよければそれでいい輩である」みたいなことを書いていた。

 まあ、この方は、以前にも『82年生まれ、キム・ジヨン』(2019)で取り上げたのと同じ方で、イスラム関係にも興味をお持ちでお詳しい様子。確かに、ツイッター等でもフェミ筋の方々のタリバン関連の書き込みはあまり見ない。けれど、だからといって、このブログ主が言っているようなこととはちょっと違うと思う次第。

 つまり、欧米はともかく、日本のフェミは、イスラムについて無知過ぎるんだと思う。何となくは知っている、、、けれど、具体的に知識としては分からない。よく知りもしない、しかも宗教というデリケートな背景がある問題を、それこそ日本人相手にモノを言うように言うのは、あまりにも短絡的過ぎることくらい、少し考える人ならば容易に分かること。それを、不勉強、無関心、と非難するのはちょっと浅はかではないか。イスラムについて知らないのは、フェミに限らず、大方の日本人の共通項であって、なぜならゼンゼンそういう教育をしていないから。欧米に目が行きがちで、自国の属しているアジアでさえ覚束ない、ましてや中東なんぞ別世界、、、というのが標準的な日本人ではない? 

 あとは、やっぱり自分たちの状況がまだまだ酷過ぎて、アフガンの女性云々まで具体的な行動を起こす余裕などないのが現状だと思う。そら、アフガンに比べれば日本は大分マシではあるが、性を理由にしたヘイトクライムは日常茶飯事、入試でさえされる性差別、性犯罪・痴漢被害に遭う女性の多さ、セクハラ被害の圧倒的な女性の多さ、、、等々、十分、日本の女性たちは人権侵害に日々晒されているのだ。

 だから、アフガンの女性たちに無関心で良いというわけではないが、少なくとも、日本で声を上げるだけでももの凄い風当たりなのであるから安全地帯なんぞでは全くないし、同じ女性でミソジニー全開にしてフェミを揶揄している人びとよりは何ぼかマシだと思うんだが。そういうミソジニー女性たちだって、かつてのフェミたちが勝ち取ってくれた権利に安住しているのですけれど? お忘れ??

 テロと聞くと、どうしてもイスラムとかムスリムとかにつなげて考えてしまうが、とにかく私はイスラムについて知らな過ぎるので、今さらながらもう少しいろいろ勉強したい。いずれにせよ、イスラムだけでなく、宗教というのは、本当に人間の心を救うものなのか? むしろ狭くするものなのではないか? 特に一神教の排他性は、詰まる所、排除ではないのか。排除からは何も生まれないと思うのだが、、、。

 

 

 

 

 

 

 

監督もアフガン出身の方です。
  

 

 

 

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