映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ビリディアナ(1961年)

2018-01-11 | 【ひ】



 修道女のビリディアナ(シルヴィア・ピナル)は、宣誓式を目前にしたある日、学費を出してくれた伯父ハイメ(フェルナンド・レイ)が宣誓式には出られないが、その前に会いたがっているとシスターに聞かされ、気乗りしないまま、シスターに強く促されて修道院を後にする。

 ハイメは、亡き妻そっくりに成長したビリディアナに劣情を催し、修道院に帰らないでくれと頼むが、ビリディアナは聞き入れない。そこで、ハイメはビリディアナをクスリで眠らせ、犯そうとするものの、何とか思いとどまる。しかし、ビリディアナ本人には「犯してしまった」と嘘を言って悪あがきするものの、ビリディアナはショックを受けて修道院へ帰ってしまう。

 しかし、ビリディアナはその帰途で、ハイメが自死したことを知らされる。自責の念に駆られたビリディアナは、償いのつもりか、修道院へは戻らず、ハイメの敷地に恵まれない者たちを集めて施しをし始めるのであった。

 そんな生活をしているある日、ビリディアナの暮らす屋敷に、ハイメの息子ホルヘ(フランシスコ・ラバル)が恋人を連れてやって来る。ホルヘはビリディアナに興味を持ち、彼女を何とか振り向かせようとするのだが、、、。

 ……メキシコ時代のブニュエルがスペインにこっそり帰って撮ったという本作。スペインでは上映禁止になるが、カンヌでパルムドールを受賞し、メキシコ映画として各地で上映されることになったものの、ヴァチカンの怒りを買うなど、相変わらずの問題児ぶりを発揮した作品。
   
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 昨年末からイメージフォーラムで開催されているブニュエル特集。こんなの、そうそう滅多にやらないだろうから頑張って見に行きました。


◆カトリックへの挑戦?

 allcinemaでのあらすじには、「女性の抑圧された性をテーマにした心理ドラマ」なんて書かれているけど、どーなんですかねぇ、これ。私は、どっちかというと、カトリックへの挑戦というイメージを受けたんだけれども、、、。

 もうね、ビリディアナが修道女にあるまじき“肉感的女性”なわけですよ。これは、ハイメおじさんが、アッと言う間に陥落するのも仕方がないよなぁ、、、とかなり同情してしまう。女の私が見ても、「これは、、、」と思うのだから、男性が見ればそりゃそーでしょ、と。

 さすがブニュエル、敢えてこういう女優を探してきたんだろう、と思いきや、「(恋人の)シルヴィア・ピナルを主役に使うなら金出すよ」と本作の製作者に言われてのことだったらしい。もの凄い美人、というわけじゃなく、ほどほどの美人だけど、そこがまたミソだろうなぁ、きっと。

 ……と、下品なことばかり書いてすみません。でも、本作において、ここは非常に重要だと思われるので。

 でも、このハイメおじさん、ちょっとやり過ぎる。ビリディアナが明日修道院へ帰る、という日に、「私と結婚してくれ」と迫るのだが、当然断られる。そうすると「じゃあ、せめて願いを聞いてくれ」と言って、何をお願いしたかと思えば、なんと、ビリディアナに亡き妻がその昔に着るはずだったウエディングドレスを着せるという、、、。

 そして、クスリを入れたお茶を飲ませて彼女を眠らせると、ベッドに運んで横たえ、花嫁姿で眠るビリディアナを撫で回し(キモい、、、)、遂に我慢できなくなって彼女のドレスの襟元を開け、ブチュ~っとキス(ウゲゲ、、、)をしたかと思うと、ハッと我に返って、襟元を元に戻し、慌てて部屋から出て行くのでありました、、、。

 気持ちは分かるが、これはキモい。パンフの解説にも、“屍姦”とあるが、まさにそれを想像させるシーンで、序盤からこれじゃぁ、一体この先どーなるのさ、、、、と思って見ていたら、期待に違わぬ展開に……。

 ハイメおじさんは、ビリディアナに“あんなこと”をしてしまったことを悔いてか、はたまた、“そんなこと”までして引き留めたビリディアナが振り切って出て行ってしまったからか、はたまた、“あんなこと”や“そんなこと”をした自分を嫌悪したからなのか、首を吊ってしまう、、、。なんという極端なおじさんだ。


◆極端から極端へ動く登場人物たち。

 でも、その後のビリディアナも、負けず劣らず極端な行動に出る。自責の念にかられたせいか、修道院には戻らず、ハイメおじさんの敷地に、近所の“乞食”たちを集めて施しをするという、、、。罪滅ぼしなら、神の僕となって「罪深い私をお許しください」とか何とか、ひたすら祈り三昧の人生の方が合っている気がするんだけど、それって信仰心のない人間だからそう思っちゃうのかしらん。

 この乞食たちは、最初こそ、おずおずとしていたけれども、アッと言う間に図々しい人々に変貌。これこそ、コツジキ、という感じ。この乞食のキャスティングに、ブニュエルはかなり腐心したとのこと。その甲斐あってか、見ていて反吐が出そうなシーンも多い。長年ハイメおじさんに仕えた使用人たちも辞めていくが、当然だろう。

 こうして、ビリディアナのやることは、どうも裏目裏目に出る感じの描写が続く。

 また、途中から現れるハイメおじさんの息子ホルヘも、ビリディアナに色目を使って、ビリディアナも一見、修道女の延長みたいな感じで振る舞っているけど、まんざらでもない感じに見える。ビリディアナという人間の芯の部分が外部的要因からも、彼女自身の内面からも、大きく揺らいでいる、、、ってこと?

 さらに、乞食たちの図々しさは度を極め、ビリディアナたちが不在の間に屋敷に入り込み飲めや歌えの乱痴気騒ぎ、部屋も荒らしまくり。記念写真を撮ろう!とかって、乞食たちのとったポーズは、あのダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を思い起こさせるという、、、。
 
 そんなとんでもない状況になっているところへ、ビリディアナやホルヘたちが戻ってくる。乞食の一人がビリディアナに襲い掛かってレイプしようとすると、ビリディアナは失神(?)し、ホルヘが別の乞食を使って、ビリディアナを襲っている乞食を殺させる、、、、とか、もう滅茶苦茶。

 ビリディアナは2度も犯されそうになり、未遂に終わる。

 そんなことがあって、結局ビリディアナは、自ら禁を犯す覚悟をしたのか(つーか、間違いなくそうだろう)、ある夜、思い詰めた表情でホルヘの部屋を訪ねる。が、しかし、そこには家政婦ラモナがいた! そう、ホルヘは、ビリディアナに色目を使いながら、ラモナともとっくに関係を持っていたわけ。で、ホルヘ、ビリディアナを自室に招き入れ、ラモナにも「君はそこに居てくれて良い」なんつって余裕をかまし、3人でテーブルを囲んでカードゲームをし始める、、、。で、エンドマーク。

 へ? ……これってつまり、、、3Pの暗示、、、ってこと? いや、まさかそんな、、、と、とりあえず頭の中で打ち消して劇場を後にしたけど、帰宅後パンフを読んだら、「三角関係あるいは三人婚を暗示」と書いてあるではないか!! え゛~~っ! まあ、でも、そうかもね。

 修道女の宣誓式に始まり、3Pで終わる。すげーハナシだ。そら、上映禁止にもなるわさ。


◆ルイス・ブニュエル

 ハイメおじさんが、ビリディアナにドレスを着せる前、なんと! おじさん自らが、ハイヒールを履き、ドレスのコルセットを身に着ける、というシーンがありまして、これにはのけぞりました。

 しかも、ハイヒールを履く脚をアップで撮っている。ブニュエルって、脚フェチだよね、多分。確か、『小間使の日記』でも、ジャンヌ・モローが網タイツの脚にハイヒールを履くシーンがあって、アップだった気がする、脚。何というか、撮り方が一緒なのよ。

 あと、終盤、ビリディアナが乞食に犯されそうになったとき、ホルヘに使われた乞食は、ホルヘに「お前を金持ちにしてやる」と言われて金を握らされるんだけど、(こう言ってはナンだが)あのような乞食になっても、まだ金持ちになりたいとかいう気持ちがあるものなんだろうか、、、? とちょっとばかり意外な感じがした。乞食は3日やったらやめられない、っていうの、割と説得力ある気がしていたのよね。

 乞食たちの大饗宴のシーンも、もう、これでもかっていうくらいに嫌悪感を煽る描写が続くんだけど、これは、ビリディアナの罪滅ぼしの好意をとことん貶めるっていうことなのかしらん。どうしてここまで悪意さえ感じる描写にしたのか、と考えると、やっぱし、カトリックへの挑戦ではないかと感じてしまうんだよなぁ。

 パンフによると、ブニュエル自身は「本作が不敬な描写に満ちてしまった点は、意図せざることであった」と述べたそうな。以下、ブニュエルの言。

 「『ビリディアナ』は間違いなく辛辣なブラックユーモア映画ですが、実を言うと計画性もなく自然にできあがってしまったのです。この映画のなかでは、子どもの頃にとらわれていた性的・宗教的な強迫観念を表現しています。わたしは非常に信心深いカトリックの一家の出で、8歳から15歳までイエズス会の学校に通っていました。宗教教育とシュルレアリスムは、わが人生に影響を残しています」

 一方で、本作の創作上の意図を、次のようにも語っている。

 「われわれは考えうる最良の世界のなかを生きているわけではありません。私は映画を作り続けたいと願っておりますが、それは観客を楽しませるのとは別に、いま述べた考えが絶対的に正当であるとの事実を、彼らに伝えるためなのです」

 まあ、ブニュエル作品はどれも一筋縄ではいかないので、1回見ただけでは分からないことだらけなのも仕方がないでしょう。また見る機会があれば見てみたい。きっと別の発見があるだろうし。こういう、何度でも見てみたいと思わせてくれるのが、映画の醍醐味だと思うわ。 

 





ヴァチカンが怒るのも仕方がない。




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