映画 ご(誤)鑑賞日記

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ゲッベルスと私(2016年)

2018-08-09 | 【け】



 以下、上記リンクよりストーリー(?)のコピペです。

=====ここから。

 1911年、ベルリンに生まれたブルンヒルデ・ポムゼルは、第二次世界大戦中、1942年から終戦までの3年間、ナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書として働き、近代史において最も冷酷な戦争犯罪者のそばにいた人物である。

 いくつもの高精度カメラは、ポムゼルの深く刻まれた顔の皺や表情だけでなく、瞳の奥に宿す記憶をも鮮明に捉える。

 幼少の頃の父親の思い出、初めて出来た恋人の話、ユダヤ人の友人の面影、そして“紳士”ゲッベルスについて……。103歳とは思えぬ記憶力で、ポムゼルはカメラに語りかける。

 また、ナチスを滑稽に描くアメリカ軍製作のプロパガンダ映画や、ヒトラーを揶揄する人々を捉えたポーランドの映像、ゲッベルスがムッソリーニとヴァカンスを楽しむプライベート映像、そして戦後、ナチスのモニュメントを破壊する人々やホロコーストの実態を記録した映像等、世界各国で製作された様々なアーカイヴ映像が挿入される。

 「いわれたことをタイプしていただけ」と語りながらも、ポムゼルは時折、表情を強張らせて慎重に言葉を選んでいく。それは、ハンナ・アーレントにおける“悪の凡庸さ”をふたたび想起させるのだった。

=====ここまで。

 ドキュメンタリーなので、ストーリーというよりは内容紹介ですね。


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 『マルクス・エンゲルス』を見に行ったときに予告編で見て、何となく見てみようかな、と思った作品。103歳の元ナチ党員が、一体何を語るのかしらん、、、という単なる好奇心。……見終わって、正直なところ、心重くなって劇場を後にしました、、、。


◆まさに『白いリボン』の世界、、、。

 ポムゼルさんの語る幼少時の話を聞いていると、もうまさに、ハネケの『白いリボン』のまんまで驚いた。以下、ちょっと抜粋。

 “第一次世界大戦が終わり父が自宅に帰ってきたわ。お行儀が悪いとすぐに殴られたのよ”
 “じゅうたん叩きでお尻を叩かれたことや、夜お化けが出そうな廊下を歩いてトイレに行かないといけなかった”
 “ドイツの当時の子どものしつけ方はとても厳しく、少しでもごまかしたり、嘘をついたり、罪を他人になすりつけることを、子どものうちから覚えてしまう”


 ……ハネケは、こういうことを描いていたんだね、やっぱり。喋るポムゼルさんのシワシワの顔を見ながら、あの映画のシーンが頭に浮かんだよ、、、。やはり怖い映画だったんだ、アレは。

 こういう育てられ方をするとああなる、、、とハネケが言いたかったのかどうかは微妙なんだが、やはり、学校に限らず、あらゆる場面における「教育」って、ものすごく、個人の人格形成だけじゃなく、社会の骨格形成にも影響を及ぼすということは、間違いない。だから、アベベも教育にやたらと介入したがり、実際に介入してくるわけだ。

 そして、そんなことは、ドイツだけじゃなく、日本だけじゃなく、全世界の国々共通に言えることである。どんな教育を子ども達に施すか、これはその国の命運を左右することなのだ。

 ……だから、もう本作の序盤で、私は暗澹たる気持ちになって、どよよ~んとなってしまった。

 『白いリボン』再見する勇気がなかったんだけど、本作を見て、ますます再見する気がなくなった、、、なんてことはなく、実は、もう一度ちゃんと見てみたいと逆に思った次第。あの作品は、やはり、大人がちゃんと見て咀嚼しないといけない映画なんだ、と改めて感じたのよね、、、。見るのが怖い、ってのはあるけれど、近々、再見しようと思う。


◆死期を悟る年齢になっても、、、。

 しかし、このポムゼルさん、約70年も前のことを実によく語るんだな。103歳で、死を間近に感じている身で嘘はつかんだろう、、、と、普通の人情ならば思うが、どうだろうか。

 私は、ポムゼルさん、この期に及んでなお、真実から目を逸らし、言い逃れをしているように感じた節が多々あり、少々うんざりした。人間の性(さが)って、これほどまでなんだろうか。死に際に、洗いざらい吐き出すわ、、、という風にはならないものなんだろうか。

 うんざりした部分を以下に抜粋してみる。

 “当時は、私たち自身が巨大な強制収容所にいたのよ”
 “あんな激動の時代に運命を操作できる人はいない。私たちは渦中にいたのよ”
 “私たちは何も知らなかった。とうとう最後まで”
 “たった一人の人間に魔術をかけられてしまったの”


 他にもいっぱいあるけど、まあ、この辺が象徴的かな、、、。たった一人の人間、ってのは、もちろんヒトラーであり、ゲッベルスではない。ちなみに、ラストではこう語る。

 “私に罪があったとは思わない。ただし、ドイツ国民全員に罪があるとするなら話は別よ。結果的にドイツ国民はあの政府が権力を握ることに加担してしまった。そうしたのは国民全員よ。もちろん私もその一人だわ”

 このラストの言葉は、私は、まあそうだな、と思った。私に罪はない、と言い切っちゃっているけど、後半では自分にも罪があると間接的には言っている。これくらいが、このポムゼルさんの精一杯の言葉だったのだろう、と思う。多分、自分に非があると言ってしまえば、自分の過去を否定することになるような気がするんだろうな、と。

 そういう思考回路の人はいる。過去の自分の言動を否定すること=自分を全否定すること、という方程式を頑なに持っている人。もの凄く不思議な方程式だけれど、これ、私の母親がまさにそうだから、こういう考え方の人がいることは、実によく分かる。

 自分が間違っていたと思えば、過去の自分の言動を否定し、改め、今後の人生に活かせば良いではないか。……というのは、口で言うほど簡単じゃない。私だって、人に指摘されれば、その場ですぐに率直に受け容れられるか怪しいもんだ。しかし、間違いを犯さない人間はいない。間違いを間違いと認めることの方が勇気がいるし、厳しいことなのだ。

 今の時代に生きている、ということは、未来に対して責任を負っている、ということ、、、、などと書くと壮大な感じがするが、まあ、そういうことだと思う。昨今の日本は、色んな側面から見て決して良い状態にあるとは思えないが、そういう状態にしている責任の一端は、一人一人にあるということだ。政治が悪いだの、政治家がアホだの言うのは簡単だが、その国の政治や政治家は、国民の実態を映す鏡でもある。

 死に際に、あの時は、みんなああするしかなかったのよ、、、等と言って、未来の若者達を呆れさせる老婆にならぬよう、、、、と思う半面、自分の無力さにゲンナリもさせられた作品だった。







ポムゼルさんは2017年に106歳で亡くなっている。




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