映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ジュリアン(2017年)

2019-02-03 | 【し】



 11歳の少年ジュリアンは、両親が離婚するに当たり、「アイツ(父親アントワーヌ)とは二度と会いたくない」という手紙(陳述書)を裁判官宛に提出する。母親ミリアムも、離婚後は一切アントワーヌとは関わりたくないため、単独親権を主張する。しかし、アントワーヌは、そんな手紙をジュリアンが書いたのは、母親に何か吹き込まれたからであり、子どもにとって父親は必要だと強く主張し、共同親権と共に、隔週末の面会権を求める。

 ミリアムとジュリアン、そして長女ジョゼフィーヌは、アントワーヌと関わらずに済むよう、電話番号を頻繁に変えたり、転居したりしているのだが、驚いたことに、裁判所はアントワーヌの主張を認め、ジュリアンはこれから2週間に1度、アントワーヌと週末を過ごさなければならなくなる。

 そうして初めての週末がやって来る。アントワーヌがミリアムの実家にジュリアンを車で迎えに来る。行きたくないジュリアンはベッドの上で動こうとしないが、アントワーヌは実家の前で車のクラクションを執拗に鳴らし、携帯にも電話をかけてきてミリアムを恫喝する。その様子を見てジュリアンは、自分が我慢するしかないと、まるで生け贄になるかのようにアントワーヌの車に乗り込むのであった。

 最初こそ、アントワーヌの実家で祖父母も交えてどうにか過ごしていたが、次第にアントワーヌはその暴力性を剥き出しにして、ジュリアンを脅してミリアムに再接近しようと画策し始める。ジュリアンは母親を守りたい一心で嘘を突き通そうとするのだが、、、。


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 昨年から、公開されたらすぐ見に行こうと決めていたので、早速、見に行って参りました。


◆共同親権

 若いシングルマザーの育児放棄が時々ニュースになっているのを見て、そして決まって母親だけがまるで鬼母だとばかりにメディアや世間から集中砲火を浴びている状況を見て、“どうして父親の責任は問われないのか?”と憤りを覚えると同時に、日本も共同親権を認めて、離婚後も父親の義務をきちんと履行させるようにしたら良いのに、と思っていた。

 けれども、何年か前に、共同親権の問題点……つまり、DV家庭の場合の共同親権について新聞かネットで記事を読み、私の考えは非常に底が浅い短絡的なものだと思い知らされた。また、最近では、憲法学者・木村草太氏のTwitterを時々見る機会があり(精神科医の斎藤環氏のTwitterをよく見るのだけど、斎藤氏が時々木村氏のツイートをリツイートしているため)、そこで、単独親権派VS共同親権派の凄まじいやりとりを見て、この親権問題は、私の思うよりも遙かに複雑で難しいのだと衝撃を受けている。

 つまり、DV家庭の共同親権は論外ながら、母親が子どもを父親に会わせたくないがためにありもしない父親のDVを捏造・偽証して父親の面会権を奪っているケースが実際に起きており、こういう不条理を防ぐためには共同親権を早く法整備すべきだという人々もいるのである。そして、木村氏(共同親権反対派)のTwitter上では、それはそれは凄まじい両派のやりとりがなされていて、正直なところ、見ているだけで暗澹たる気持ちになってくる。

 私は、木村氏に何の思い入れもないし、木村氏の主張が全面的に正しいとは思わないが、共同親権主張派の書込みにも賛成できかねるものが多い。そして、今の私は、共同親権慎重派である。

 そこへ持ってきて、本作の鑑賞である。ほとんど、ダメ押しに近い。

 アントワーヌに親権と面会権を認めた裁定がとんでもない誤りであることは、その直後から明かされていて、終盤それが社会的に暴露される事件が起きてしまう。

 オープニングの、裁判所の調停シーンが結構長いのだが、本作のパンフによれば、調停は20分くらいしか開かれず、裁判官はその短い時間でのやりとりで裁定を下さなければならないらしい。つまり、夫婦の実態を調査する時間はないのだ。私が判事なら面会権は認めないだろうと感じたので、作中で認められたのは非常に驚きだった。ジュリアン自身の赤裸々な手紙が読まれたにもかかわらず、どうして裁判官は認めたのか、その理由が知りたかったが、作中で説明はなかった。

 パンフ内で、フランスでは「司法の考えでは、暴力が子どもではなく親に向けられている場合は、親子のつながりを断つ必要はないとされています」と、監督のグザヴィエ・ルグランはインタビューに答えている。この考え方はちょっと信じがたい。でも、多分、作中の裁判官も、こういう基本方針に基づいたのだと思われる。

 確かに、アントワーヌは、最初から最後まで、作中でジュリアンに暴力を直接はふるわない。しかし、ジュリアンを怯えさせるようにモノに当たったり、大声で怒鳴ったり、車を乱暴に運転したりしているのである。これは、暴力をふるっているのと同じことでしょ? 現に、ジュリアンはビクビクしていて、アントワーヌから少しでも身を離そうという素振りを見せ、ある時は、急に走り出してアントワーヌから逃げ出しもするのである。ここまで怯えている息子との「つながりを断つ必要はない」という司法の思考回路は信じがたい。DVを舐めているとしか思えない。

 ……というよりも、司法でさえも、家庭内暴力の闇は分からないのだ。家庭内で起きているあんなことも、こんなことも、外からは見えない。夜、その家の窓に灯りがともっていれば、そこには暖かい一家団欒があるだろう、、、と想像することはあっても、そこで凄まじいDVが展開されているだろうとは想像しにくいものがある。だからこそ、これは対処が難しいし、なかなか悲劇が後を絶たない原因でもあるのだろう。

 パンフには、「単独親権か共同親権か?」と題した上野千鶴子氏の寄稿も載っていた。一部引用すると、、、

 「日本では、離婚後単独親権を9割以上妻側が取得している。だが、夫側親権と妻側親権が逆転したのは60年代半ば……(中略)……女にとって、婚家を去ることが子どもを置いて出ることと同義だった。(中略)……親権を獲得した夫が子育てをしたかというとそんなことはない。祖父母がいたから親権が持てたのだ。
 ーー中略ーー
 共同親権を別れた妻へのペナルティやいやがらせに使う夫は多い。日本でも面会権を盾に、養育費を払わない夫もいる。これが共同親権になれば、父親の権利はますます強くなるだろう。
 ーー中略ーー
 タテマエだけの形式平等を通せば、実態とのズレが生まれる。男が今のままで変わらないのなら……単独親権の日本の方がまだまし、と思えるのが、この映画の教訓かも知れない。」


 果たして、本作を鑑賞した方々はどう思われるだろうか?


◆イヤらしい男、ブチ切れる男。

 以下、結末に触れています。

 グザヴィエ・ルグラン監督は、本作を撮るに当たり、『狩人の夜』『シャイニング』を大いに参考にしたらしい。なるほど、確かにそう言われればそうかも。

 アントワーヌのイヤらしさ、不気味さ、怖ろしさは、確かに『狩人の夜』のロバート・ミッチャムを彷彿とさせる。終盤のブチ切れ、妻子宅への猟銃ぶっ放しで乗り込みに至っては、斧を振りかざして妻子を追い回した『シャイニング』のジャック・ニコルソンそのまんまである。

 とにかくアントワーヌは、本当にイヤな男に描かれている。見た目からして嫌悪感を抱いてしまう。むしろ、ミリアムはこの男の何が良くて結婚したのか、とさえ思うほど。しかも長女ジョゼフィーヌは18歳で、ジュリアンとの間に7年開きがある。ということは、アントワーヌの人格が、ジュリアンが生まれた後に変貌したということなのか? それとも、DVは以前からあって、夫婦生活もレイプまがいのものがあったのか。この夫婦の過去を想像するのが難しい。

 ジュリアンと自分の実家で両親と共に過ごしているところで、アントワーヌがキレるシーンがあるのだが、そこでキレそうになっているアントワーヌに父親が「やめろ、やめておけ」と何度も言っているし、ブチ切れた後、やはり父親に「お前はいつもそうだ、みんながうまくやっているのをぶち壊す。子どもたちがお前に会いたがらないのも当たり前だ!!」と言われている。つまり、アントワーヌの元々の気質なのではないか、暴力的なのが。

 そういう男の特徴なのか、時折、ミリアムに泣き落とし作戦に出る。「俺は生まれ変わったんだ(大泣き)」とか言って、拒絶反応を示しているミリアムを抱き寄せたり(キモい!!)、かと思うと、ミリアムが別の男とただ話しているだけで「あれが今の男か、え?」等と言って首を掴んで押さえ付けたりと、もう、最低最悪なことばかりしているのだ。どうしてそういうことをすればするほど相手に嫌われるってことが分からないのだろうか。

 これについて、やはりパンフで、夫婦問題のカウンセラーという高橋知子氏の寄稿があるので、一部引用したい。

 「DVの夫との離婚では、夫は離婚で全てを失った喪失感に常に苛まれるが、子供をもつ妻は不要なものをようやく捨てることが出来たという感覚でいることが多い。母親は、父親のような孤独感を持たない。/DVの夫は、別れた妻が自分を嫌うことさえ許せない。DVの加害者は、被害者を自分がストレスを発散するために必要な人と捉えている……(以下略)」

 ……まあ、離婚でなくても、ただの失恋でも、中島みゆきじゃないが、立ち去る者だけが美しく、去られた方は“追いかけて焦がれて泣き狂う”わけだから、ましてや、子どもにまで嫌われ去られては、自分の存在を全否定されたも同然のような気分になるのだろうか。でも、自業自得じゃんね、DV夫の場合は。


◆その他もろもろ

 ハネケやシャブロルを敬愛しているという監督だけあって、終始緊張感が支配する映画だった。特に、音が効果的。電話の音、クラクションの音、車が急発進する音、エレベーターが昇降する音、、、etc。音楽はなくても、それらの音がジュリアンやミリアムの心理を代弁していて素晴らしかった。

 イヤらしさ全開のアントワーヌを演じたドゥニ・メノーシェは、フランス人だけど、ヘンリー8世とか演じたらハマリそう、、、と思ってしまった。顔といい、体型といい、肖像画そっくりなんだもん。サイコーに嫌悪感を催す演技を見ると、きっと、良い役者さんに違いない。

 ミリアムを演じたレア・ドリュッケールは、誰かに似ているなぁ、、、と終始感じていたのだけど、いまだに誰か分からない、、、。ちょっと薄幸そうで、“お母さん”という感じは希薄な印象。

 そしてなんといってもジュリアンを演じたトーマス・ジオリア君が素晴らしかった。この脚本の状況を理解して、それをきちんと想像していないと、演技など出来ないと思うのだが、あの歳でスゴいと感心してしまった。……というか、子どもは大人が思っている以上に状況を理解し判断する能力があるっていうことだね、きっと。

 ラスト15分くらいは、手に汗握る。私が感動したのは、緊迫した状況で、緊急通報を受けた警察官が、司令室で冷静にミリアムに対し「このまま電話を切らないで。マダム、落ち着いて。警察が今向かっています。……施錠できる部屋はありますか? そこに入って入り口を何か大きなモノで塞いでください。……バスルームにバスタブはありますか? そこに入って。電話は切らないで、大丈夫、もう少しの辛抱ですよマダム、警察がもうすぐ着きます……」とずっと言葉で指示&支援し続けたこと。『シャイニング』では、シェリー・デュヴァルは孤独に闘っていたもんね、、、。この差は、恐怖のまっただ中にある人にとって凄く大きいだろうと思った。日本の警察もああいう風にしてくれているのかしらん? 110番通報したことないから分からないけれど、きっとしてくれていると信じたい。

 
 




フランスでは2日半に1人の割合でDVの犠牲となった女性が亡くなっている、とのこと。




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2 コメント

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子どもを傷つける奴はみんな死刑! (松たけ子)
2019-02-07 00:21:45
すねこすりさん、こんばんは!
日本でも今、悲しい虐待事件がニュースを騒がせていますね。あのキ〇ガイ鬼畜親父も、救えなかった無力母も、いい加減な児相も、みんな罪深すぎて腹が立つより暗澹となります。いたいけな子どもを傷つける虐待に、許される理由なんかない!
この映画も、悪い意味でタイムリーですよね。イヤ~な内容だけど、観ておくべき作品ですね。私には無縁な他人事!と無関心でいるのもまた罪…
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Unknown (すねこすり)
2019-02-07 19:45:26
たけ子さん、こんばんは!
千葉の事件、知れば知るほど暗澹としてきますね。
ただ、あの母親については、同情は出来ませんが、可哀想だとは思います。私も実の母親に完全にコントロールされていた経験があるので、思考停止してしまう感覚は分かるんですよね。怖くて逃げるどころか、逃げる方が怖ろしいというか。
でも、そこから抜け出すのは物理的に離れるしかなく、そうするためには周囲の手助けが絶対的に必要です。あの母親はそのチャンスがなかったのだなぁと。
母親よりも、愚か過ぎる児相や教育委員会の人たちを教唆犯で逮捕すべきかと思います。それくらい罪深い。
まぁ、今の行政のシステム自体を大きく変えないと、役人を罰してもこういう悲劇は無くならないと思いますが。
DVと虐待は、基本セットですから、今回の児相の対応は信じられませんし、この映画に描かれていたフランスの司法の考え方もあり得ないと思いました。
DV加害者は、罰するより治療が必要なので、そういうところも見直さないとダメでしょうね。刑を喰らっても、彼らは何が悪いのか分からないし、当然反省なんかするどころか、被害者を逆恨みするのがオチです。
この映画でも、アントワーヌは逮捕されましたが、現実には、問題はこの後でしょうね。考えると、映画の話とはいえ、気が重くなります。
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