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「駿河安蘇備 上」を読む 96

掛川城そば、逆川沿いの掛川桜
数日前の撮影だから、もう散ってしまっただろう

今朝、御近所のAさんが亡くなった。Aさんの旦那さんは、自分が一番信頼していた御近所の一人だったが、自分の二度目のお遍路の時、途中で一時帰って来ていた時に亡くなられ、葬式にも出させて頂いた。Aさんの最晩年には、女房と行ったり来たり、散歩したりと親しくしていただいて、今朝ゴミ出しに出たとき、様子を見に寄って、水道検針の人が呼んだ救急車に立ち会って、急な死亡の第一発見者となってしまった。女房はショックで、警察の事情聴取に十分に答えられなかった。不審はないが、一応調書を出さなければならないのだろう。その後、女房は気に病んでいるかと心配したが、明るく振舞っているので、安心した。

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「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

相股 昼居渡より上の方にて、黒股川の東岸なり。高
弐百余石。支村、コフ松、三ッ野は山を越して、志太郡朝比奈の谷の
方に対してあり。この辺り、炭を焼き出すこと多し。この三ッ野
より出すも、もっともよろし。
黒股 黒股川の源なり。村内広くして、小地名九つあり。
蛇塚、鉢伏、中塚、峯山、尾澤戸、板野、久野尾、和田、谷合いにて
大村なり。東西二里、南北三里という。この村、楮紙(こうぞがみ)を製す。もっとも、和田より出るもの、和田紙という上品なり。
杉尾 黒股の北、坂上の西にあり。当村の西半里ばかりを隔
てゝ、洗沢という所あり。志太郡、安倍郡の界なり。志太郡山中の
もの、産物を府内へ出すに、皆なこの地より往来す。所謂(いわゆる)川根
往還なり。この道、ここより始めより、蛇塚、鉢伏とをへて、昼居渡にて
山より下り、それより藁科川を経て、府内に至る。沢、五つあり。大沢、
小の本沢、竹の沢、江沢、南沢なり。また、今川氏真、建穂寺より
川根の山道を伝いて、遠州掛川に至ると見ゆ。また土岐の山家(やまが)
に、つぼみしとある。この村より、志太郡の方へ行くなり。
八草 崩野川の西岸、山の半腹にあり。山上は志太郡智者山なり。
崩野川は下の方、諸子沢に到り、藁科川に入る。
一 崩野 崩野川源にて、八草に隣りて、北なり。
(つづく)
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「駿河安蘇備 上」を読む 95

庭のレンギョウ

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

大間 藁科川の源にして、藁科谷の極りなり。楢尾より
二里ばかりの山中にて、府内より十二、三里なり。井川に至る山路、
凡そ五里、西河内、横沢に越えるの山路、凡そ四里ばかり。まことの
山中にて、良材はあれども運送し難きゆえ、百姓、檜木を伐りて、
片板として、方盆また柄杓(ひしゃく)を作るなり。
※ 方盆(かたぼん)➜ 四角いお盆。
大間瀧 村の西の方、山中に入ると十町ばかりに阿り。飛流下る
こと凡そ五十間、巌石に支えられて、また下ること二十間ばかり流れ
て、西南の方へ出たり。甚だ壮観なり。古(いにし)えの良馬スルスミ、今に存
して、日々遊びに行くという。雪中に大なる馬の蹄(ひづめ)を見ることあり
とぞ。土人この辺を、タル沢の西より出る澗流(谷川)を十ヘクリ沢と
いう。三流れ落合て藁科川となる。
昼居渡(ひるいと) 藁科川の西俣川の東岸にあり。これより西北の方、
相㑨村を経て黒股村の奥に到る。これを藁科の小河内と
云う。さて当村より山上に登れば、黒俣の内、鉢伏蛇塚なり。
これ経て、杉尾の内、洗沢に到る。これを里人、川根往還と云う。
川根とは、大井河の源をいうなり。洗沢より志太郡大井川の奥、
笹間、藤川など村々へ越ゆればなり。また、洗沢より八草へ到り、
智者山より北へ越ゆれば、志太郡梅地へ出るなり。
(つづく)

読書:「子宝船 きたきた捕物帖 2」 宮部みゆき 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 94

庭のコブシの花

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。 

日向村 これより諸子沢のほとり、安倍西河内へ越える山路あり。凡そ
三、四里ばかりにて、村里なく、人家絶えたる所なり。この山道、雪の積り
し時越ゆれば、必ず、馬の蹄(ひずめ)の跡あり。この山中、野馬ありと見え
たり。また、わたり一尺余もあらんと思う、円き、後の方に半月の
形したる足跡あり。その間六尺ばかり隔たってあれは、何れ四足の
ものにはあらず。二足にて歩みしようなりと云う。何ものという事を
知るものなし。
また、この村に篭沢という所あり。この地の奥は、藤代山という大山
なり。三十年ばかり前、安倍西河内、寺尾村の猟師、大なる人の
形して、毛を蒙(かぶ)りたるものを、鉄炮にて打ち留めたり。あまり
怖ろしきゆえ、そのまゝ家に帰りて、病で死にたり。遺言して、我
かく/\のもの、打ち留めたり。一年も過ぎなば、行きて見るべしという。その詞(ことば)
ごとく、一年も過ぎて行きて見るに、脛(すね)骨など様のもの、また傍らに、
四、五尺もあらんと思う白毛、夥しくありしとなり。
古城跡 同村にあり。里人城山と云う。川岸に矢平(やたいら)と云う所なり。
これは、土岐山城守の城ならんという。
同所、刎橋あり。藁科川に架す。二十間余りあり。
諸子澤又湯嶋 藁科川の西岸なり。昔、山間より温泉
涌き出し、故に名付くという。十二間の刎橋あり。
(つづく)
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「駿河安蘇備 上」を読む 93

庭のアセビの花

本日、今年度最後の、金谷宿大学「古文書に親しむ」2講座を実施。昨日、一昨日とその準備に追われ、ブログを休む。

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。 

一 栃沢(とちさわ) 澗流を栃沢と云う。村名、これより名付くとなり。古くは
※ 澗流(かんりゅう)➜ 谷川の流れ。
米沢と云いしが、昔、聖一国師、この村の米沢氏の家に生れて、
幼なかりしとき、久能寺に堯辨僧都の弟子となりて、かの寺に
ありしが、旧戯放逸なりしかば、終にトチ小僧と呼びしが、村名も
※ 放逸(ほういつ)➜ 勝手気ままに振る舞うこと。生活態度に節度がないこと。
※ トチ ➜ 名詞や動詞に付いて、それが愚かである、ふざけたさまであるなどの意を表す。「―狂う」
トチ沢となりしと云う。米沢五郎左衛門というは、聖一国師の出し
家にて、今に栄えたり。名馬スルスミも、またこの家より出しなり。
(うまや)の跡とて、庭上に四方七、八尺ばかりの、石の築き立きてたるに、注連縄(しめなわ)引き
廻し、中央に三尺ばかりの平らかなる石を据えたり。また聖一国師の碑面、
馬蹄石二つ、家に蔵す。国師五百年忌の時、東福寺より五郎左衛門を
請じて、焚香せしめし時の書簡あり。
※ 焚香(ふんこう)➜ 香をたくこと。焼香。
俚伝 この隣村に、むかし原坂忠左衛門と云うものあり。娘一人もてり。
甚だ美なり。父母寵愛浅からず。秘かに通うものあり。母怪しみ、一人
※ 寵愛(ちょうあい)➜ 特別に大切にして愛すること。非常にかわいがること。
これを見るに、美少年なり。娘に問えども知らず。母教えて(お)
※ 苧(お)➜ からむしの繊維から作られた糸。
針に差し、かの少年の、夜に来る衣に貫きて、返り行くを見るに、その
(お)、杉の木の上にあり。大木の精、少年に化して来りけると知りて、
かの木を切りて舟に作り、娘を乗せて藁科川に流しやりしに、
その舟、川下なる山にとゞまりぬ。その後、かの木の精を木霊大明神と
祭り、その地を切株と名付けしとなり。その舟とゞまりし所、舟山これなり
という。今も原坂氏の家あり。麻をうむことをせずとなり。文明
※ うむ(績む)➜ 麻・苧 (からむし) などの繊維を細く長くより合わせる。紡ぐ。
二年の社棟札を蔵す。
(つづく)

読書:「武士の流儀 8」 稲葉稔 著
読書:「幻の天女 ご隠居は福の神 2」 井川香四郎 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 92

金谷宿大学発表会のミニ講座の内容展示

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

水見色(みずみいろ) 水見色川流れたり。漸々土地開けて山水玲瓏(れいろう)
※ 玲瓏(れいろう)➜ 玉などが透き通るように美しいさま。また、玉のように輝くさま。
して、桃源の趣きあり。山高くして、僅かに足久保に越える路あれ
※ 桃源(とうげん)➜ 俗世間からかけ離れた別天地。理想郷。
ども、嶮岨なり。西の谷に亀右衛門というもの、三十年ばかり前に、
(かめ)二つを掘り出だせり。その甕、一つはなお存ぜり。大なるものという。
殿奥という地なり。むかし何れの殿の住み給いしや、知らず。ある人、
昔、朝比奈縫殿右衛門と云える士(さむらい)なりという。ある時、足久保内牧
へ超える山の頂に一つの池ある。ほとりにて、縫殿右衛門、狩りを
なして、この池の主に馬を取られたるを怒りて、その主を
亡ぼしたりという。
古城跡 小瀬戸にあり。居するもの祥(つまびら)かならず。
富厚里 藁科川、この村を流る。西北の山より、府城御石
垣の石を切り出せしという。
富沢(とんさわ) 蛇骨沢という澗流あり。この山腹に物あり。土人(どにん)大蛇
※ 澗流(かんりゅう)➜ 谷川の流れ。
の骨なりという。竪横とも八尺ばかりもあらん。骨髄のごとし。
坂上 藁科川に刎橋を架す。村中のもの往来す。山奥一里
ばかり行けば、殿屋敷という所あり。藁科安芸守の居所なるや。
(つづく)

読書:「望郷の海 侠客銀蔵江戸噺」 稲葉稔 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 91

金谷宿大学展示の一部
「五和村々で起きた菰被り騒動(百姓一揆)」

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

  我が玉の 光りは妻に 結びてよ
    千本の桜 ちゞに咲きなば     藤原有家
類聚国史に、聖武天皇天平七年、右大臣武智麻呂、私田五丁を
もて、この寺にある馬鳴大明神に、御帳田とせしこと。また馬鳴社に
神位を授け給うこと見えたり。
  【貼紙の記事】
  一 同寺にて、天保七申年十一月、
   境内麦畑より、古金小判
   二十五枚、同壱分判弐百二十粒、
   掘り出したり。
   公に訴え、通金百三十六両給わる。
一 朝比奈越え この寺の山もと、富厚村より山越えの道あり。安部
入り山の者など、岡部、丸子へ出るにいと近しと云うなり。
一 子安観音堂 吉津産女新田にあり。禅曹洞宗 正信院
永禄年中、今川家没落の時、その臣、信濃国住人、牧野喜藤兵衛
清乗流離して、この所に住し、興復(こうふく)の志を抱くなり。かくて
※ 興復(こうふく)➜ 衰えたものを回復して、再び盛んにすること。再興。復興。
が妻、難産にて没しぬ。ここの谷奥に葬りたり。その霊、
夢の告げあり。土人驚きて、墓辺に一宇を創建し、牧野が守り、
本尊子安観音を安置し、その霊を山神に斎(まつ)れり。清
後に信濃国に帰れりとぞ。今、近郷の婦女、妊娠の時、この
観音を祈れば、難産なしとて、歩みを運ぶもの多し。
(つづく)

読書:「陽炎の剣」 鈴木英治 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 90

夢づくり会館ホール
こんなところで「古文書に親しむ」のミニ講座を行った
参加者20数名、一時間の講義であった

一昨日、昨日と、金谷宿大学の発表会で、ミニ講座と、講義内容の模造紙に書き出しての発表であった。くたびれて、二日ブログを休む。

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「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

建穂神社 同社内にあり。馬鳴明神と云う。式内の一社なり。
風土記 建穂神社、天照大神を祭る所なり。日本武尊のこれを挙スル所なり、
云々。この神社に付きては、種々の説あれども、同寺の鎮守
などの神社なるべし。
東鑑 承元四庚午、十一月廿四日、駿河国建穂寺鎮守、馬鳴大
明神、去る廿一日卯刻、二小児を(だま)し、酉年合戦あるべきよしにて、別当神主
ら注進す。今日、その状到来、相州披露せらる。依って御召しある
べきよし。広元朝臣申し行けりといえども、将軍実朝公、かの二十一日
暁、夢二戦争事を夢に見、その吉を得、虚夢にあらず。この上は怠るべからずとて
御劔をかの社に進ぜらるゝ、云々。
この社は天照大神と保養(うけもち)の神を祭るよし。古伝にありと云う。
金玉集 摂政良経公の家にまかりし大弐といえる女、久しく
相知れる人なりけり。駿河の国、手越という所に誘う人ありて、
まかり勤めての年、千本の桜を分けて帰り、朝夕の詠(なが)
にもせよかしとて、根ながら送りけるに、かの里近きに建穂寺
と云うに、その花を植えて、仏に手向けるよし。消息のついでに言い
おこせける。
※ おこす(遣す)➜ よこす。
(つづく)

読書:「山怪 朱 山人が語る不思議な話」 田中康弘 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 89

駿府城跡発掘現場(3月5日)

昨日は、掛川古文書講座に出席した。
明日の金谷宿大学発表会の準備に一日費やした。

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

瑞祥山建穂寺( たきょうじ)菩提院 建穂村にあり。寺領四百八十石余。真言宗。
年々二月二十日、当寺の児を大衆供して、府中浅間社に到り、
舞台において、児の舞法楽あり。
※ 舞法楽(まいほうらく)➜ 舞をまって神仏を楽しませること。
駿府政事録 慶長十七年二月二十日、浅間両宮二十日会、
宰相殿、中将殿、桟舗(さじき)に御下り御覧あり。同十八年二月二十日、
今日浅間両社の神事延引き。昨日、洪水、建穂寺往還不通
故なり。建穂寺僧、乗馬、浅間祭役勤む故なり。二十一日、今日、浅間
両社神事執行、云々。
當山坊中、二十院寺内に、梅さくら多く、やよい(三月)の頃は、府内また
近郷の遊客来りて、いと賑わしゝ。
(つづく)

読書:「ご隠居は福の神 1」 井川香四郎 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 88

最高気温20℃を越え、庭のシモクレンが満開になった

午後、はりはら塾の最終回に出席する。4月からは、まきのはら塾となり、始まる。新年度も同規模で講座を開催出来そうである。

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

久住山洞慶院 同所。禅曹洞宗。輪番住職なり。
開山、石叟圓住和尚。当村名主藤兵衛は、石上氏と称ず。
福島伊賀守子孫にて、今に洞慶院大檀那なり。家に
古文書を蔵す。また木枯しの森の碑に、石上長隣とあるは、
今の藤兵衛祖父にして、藤兵衛新田を開きしものなり。
古城跡 洞慶院の山より、慈悲尾(しいのお)村の堺にあり。
何人(なにびと)の住めるにや、祥(つまびら)かならず。
(つづく)

読書:「十三夜の焔」 月村了衛 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 87

静岡市歴史博物館内、戦国末期、道と石垣遺構(昨日)

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

【貼紙の記事】
この碑文に記しより、六帖の歌は、
六帖  人知れず 思い駿河の 国にこそ
      身を木枯しの 森はありけれ     読み人知らず
後撰  木枯しの 森の下草 風早し
      人の歎きは 旅添いにけり      枇杷左大臣
新古今 消え侘(わび)ぬ 移ろう人の 秋の色
      身を木枯しの 杜の下露       定家卿
こは通りて、御案内に入らせらるべく候えども、ついでに候えば、一寸、こゝに記し候。

浅間社 羽鳥村にあり。金山神、馬鳴社の旧跡ならんと云う
ものあれども、詳(つまびら)かならず。もっとも、古木なお存ず。田畝の小地名、山腰
という所に、鳥居臺、大鳥居、また笛吹などあり。
(つづく)
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