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「家忠日記 四」を読む 22

(散歩道の白藤)

「家忠日記 四」の解読を続ける。

 天正十二年(1584)申十一月
十六日戊子 御無事相済み候て、家康御馬入れられ候。
      我らも小幡より岡崎まで越し候。
十七日己丑 岡崎城へ出で候。跡部大炊助殿越され候。深溝帰り候。
十八日庚寅 
十九日辛卯 新二郎所にふる舞い候。
廿日 壬辰 日待ち候。

廿一日癸巳 家康、西尾より浜松へ。深溝御通り候。
廿二日甲午 永良へ越し候。
廿三日乙未 長池にて白縄引かせ候。
廿四日丙申 
廿五日丁酉 雨降り。同池にて、あみ引かせ候。
      深溝帰り候。網、白縄に鯉二十本。

廿六日戊戌 雨降り。小権之尉殿越され候。
廿七日己亥 形之原、左京殿越され候。
廿八日庚子 
廿九日辛丑 雨降り。
晦日 壬寅 


 天正十二年(1584)申十二月
 十二月大
一日 癸卯 会下へ参り候。
二日 甲辰 
三日 乙巳 
四日 丙午 雨降り。
五日 丁未 雨降り。

六日 戊申 雨降り。御ぎい様、上へ越され候。銭に。
      権之尉越し候。くり毛御馬進じ候。
※ 御ぎい様 - 結城秀康(幼名、於義伊、於義丸)。家康の次男。秀吉の講和の申入れの返礼として、家康は次男の於義丸を秀吉の養子にするために大坂に送った。秀吉との講和が成るのは、2年後である。
七日 己酉 
八日 庚戌 
九日 辛亥 雨降り。
十日 壬子 岡崎へ越し候。石伯耆殿へ越し候。深溝帰り候。

十一日癸丑 
十二日甲寅 雨降り。浜松御ぎい様、羽柴所へ養子に御越し候。
十三日乙卯 竹の谷、金左衛門殿越され候。
十四日丙辰 金左、ふる舞い候。雨降り。信雄様、浜松へお越し候。
十五日丁巳 会下へ参り候。

十六日戊午 中嶋へ鷹野へ越し候。
十七日己未 長池にて網引かせ候。鯉三十。鮒百とり候。深溝帰り候。
十八日庚申 
十九日辛酉 
廿日 壬戌 

廿一日癸亥 会下へ参り候。
廿二日甲子 
廿三日乙丑 
廿四日丙寅 
廿五日丁卯 越中の佐々蔵之助、浜松へ越し候。吉良。
※ 佐々蔵之助 - 佐々成政(さっさなりまさ)は、領国越中から家康の助力を求めて、厳冬の飛騨山脈を越え(さらさら越え)浜松に来た。しかし、家康を動かすことは出来なかった。

廿六日戊辰 信雄様、御鷹野に御座候。御礼申し候。迎いにて、ふる舞い候。
廿七日己巳 
廿八日庚午 保々へ、おいち祝言候。
廿九日辛未 
晦日 壬申 浜松へ越年に本坂を日駈けに越し候。小笠孫六所に居候。
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「家忠日記 四」を読む 21

(散歩道のオオツルボ)

オオツルボ(大蔓穂)の原産地は地中海沿岸。学名で、シラー・ペルビアナと呼ばれることも多い。

「古文書に親しむ(経験者)」講座に、教材となる古文書を提供して頂いたT氏から、講座開講の祝意の電話があった。開講のお礼もあって、一度お邪魔したいと話すと、なかなか忙しいようで、ゴールデンウィークの期間中ならという。近付いたら電話してみようと思う。

「家忠日記 四」の解読を続ける。

 天正十二年(1584)申十月
 十月小
一日 甲辰 伊勢へ働き候沙汰候。
二日 乙巳 
三日 丙午 雨降り。
四日 丁未 小牧普請候。
五日 戊申 

六日 己酉 
七日 庚戌 
八日 辛亥 雨降り。
九日 壬子 
十日 癸丑 

十一日甲寅 家康、小牧へ御見舞に越され候。小幡定番の儀‥‥
十二日乙卯 雨降り。
十三日丙辰 
十四日丁巳 
十五日戊午 

十六日己未 酒左は清須へ移られ候。小牧へは榊小平太。
      小幡菅沼織部殿と南へ移り候。
※ 小幡(おばた)- 小幡城。現、名古屋市守山区西城に昔あった。
※ 菅沼織部(すがぬまおりべ)- 菅沼定盈(すがぬまさだみつ)。戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。野田菅沼氏三代目当主。

十七日庚申 家康、御馬を入れられ候。
十八日辛酉 
十九日壬戌 雨降り。
廿日 癸亥 

廿一日甲子 
廿二日乙丑 柏井の小坂孫九郎、見舞に越し候。
廿三日丙寅 清須へ越し候。羽柴伊勢筋へ出で候由、信雄より御注進候。
廿四日丁卯 酒小五郎、見舞いに越され候。
廿五日戊辰 

廿六日己巳 小幡市場に火事出来候。
廿七日庚午 
廿八日辛未 小坂孫九へ越し候。
廿九日壬申 


 天正十二年(1584)申十一月
 霜月大
一日 癸酉 小牧へ見舞いに越し候。
二日 甲戌 
三日 乙亥 時雨。
四日 丙子 城普請候。
五日 丁丑 

六日 戊寅 
七日 己卯 
八日 庚辰 
九日 辛巳 家康清須まで御出馬候。
十日 壬午 ‥‥千代殿にふる舞いにて、清須へ越し候。

十一日癸未 御無事の沙汰候。‥‥千代殿ふる舞い候。
十二日甲申 森山へ越し候。御無事相済み候也。酒左より申し来り候。
※ 森山(もりやま)- 守山城。尾張国守山(名古屋市守山区市場)にあった平山城。

どうやら、小牧長久手の戦いも終焉を迎えたようだ。和議がなって、兵を引く。この戦いは家康側の勝ちとされる。

十三日乙酉 初雪ふる。
十四日丙戌 
十五日丁亥 
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「家忠日記 四」を読む 20

(散歩道のヤマブキの花)

「家忠日記 四」の解読を続ける。

 天正十二年(1584)申八月
十一日乙卯 
十二日丙辰 
十三日丁巳 雨降り。
十四日戊午 
十五日己未 

十六日庚申 雨降り。羽柴、濃州まで出馬候由候。
十七日辛酉 深溝、新造果てられ候。
十八日壬戌 
十九日癸亥 敵先勢、小口、羽黒へ移し候。
廿日 甲子 雨降り。

廿一日乙丑 雨降り。彼岸に入り。
廿二日丙寅 雨降り。
廿三日丁卯 雨降り。
廿四日戊辰 物見番当り候て、致し候。
廿五日己巳 

廿六日庚午 雨降り。
廿七日辛未 羽柴、楽田山へ物見に越し候。
廿八日壬申 羽柴、こおり筋へ押し出し候。所々放火候。
      家康も清須より岩倉まで御移り候。
廿九日癸酉 雨降り。敵、昨日陣場に陣取り候。


 天正十二年(1584)申九月
 九月大
一日 甲戌 楽田苅田働きに越し候。
※ 楽田(がくでん)- 尾張国丹羽郡楽田。楽田城があった。小牧城の北東五キロ。
※ 苅田(かりた)- 刈田。他人の田畑の作物を無断で刈取ること。

二日 乙亥 惣無事沙汰候。
※ 惣無事(そうぶじ)- 1585年、秀吉は戦国大名間の戦争を私戦と断じ、私戦禁止令を出し、受諾した大名については領土を認め地位を保障した。この武力征服によらない平和統一政策が「関東惣無事之儀」などと標榜されたことから「惣無事令」と呼ぶ。それ以前にも、信長が「惣無事」の言葉を使っており、秀吉のオリジナルではない。秀吉の「惣無事令」の一年前、この沙汰はどこから出たものであろう。
三日 丙子 
四日 丁丑 
五日 戊寅 楽田へ苅田働きに越し候。

六日 己卯 無事沙汰候。
※ 無事(ぶじ)- 何もしないこと。ここでは、休戦することをいう。
七日 庚辰 無事退きれて、茂(しげ)しく惣人数、御移し候。
八日 辛巳 
九日 壬午 
十日 癸未 

十一日甲申 
十二日乙酉 
十三日丙戌 
十四日丁亥 
十五日戊子 

十六日己丑 
十七日庚寅 敵陣へくつろげ、引き退き候。
※ くつろげる(寛げる)- かたくしまっているものなどをゆるやかにする。ゆるめる。
十八日辛卯 
十九日壬辰 雨降り。
廿日 癸巳 

廿一日甲午 
廿二日乙未 
廿三日丙申 雨降り。
廿四日丁酉 
廿五日戊戌 

廿六日己亥 
廿七日庚子 家康、清須まで御馬入れられ候。
廿八日辛丑 雨降り。
廿九日壬寅 
晦日 癸卯 
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「古文書に親しむ(経験者)」講座、第一回課題

(庭のナルコユリ)

朝から、雨の降りしきる中、掛川の娘嫁ぎ先のMさん方へ、曽祖母様の一周忌で出掛けた。自宅での法要の後、恒例の墓参りは雨のため、お寺参りは御年忌が重なったため中止になり、迎えのマイクロバスで倉真の真砂館へ精進落しに行った。

昨日、第一回「古文書に親しむ(経験者)」講座で読んだ、二通の一紙文書の読み下しである。講座時に疑問になった点を最終的に訂正を加えてある。(なお、疑問最終訂正箇所には  を引いたので、受講者は参考にしてもらいたい。

       差出し申す一札の事
一 この度、飛州増田(ました)郡阿多野郷青屋村、文治郎、
 今般、千頭山御用材、伐り下りに付、その御村前へ
 乗して下へ候処、怪我にて流死仕り、その段御届け申し候。
 右取勤めなど御頼み申し候処、早速御聞き済ましにて、御世話
 成し下され、取り始末など仕り、有難き仕合せに存じ奉り候。然る上は
 向後、御村方少しにても、御苦労相掛け申すまじく、
 その為、私ども引請け、一札差出し申す処、よって件の如し。
  嘉永五年子八月十六日       引請人   吉作
                         親類    又左衛門
                         日雇い代人 文蔵
      飯渕(はぶち)村 御役人中様

飛州(ひしゅう) 飛騨の国。
増田郡 益田(ました)郡。
嘉永五年 一八五二年。ペリーの黒船来航は翌年。安政大地震は翌々年。
飯渕村(はぶちむら)大井川河口の村。榛原郡飯渕村(大井川の東側)。



       拝借金証文の事
  一 金弐百両也         但し、通用金凡(すべて)
     この引当          字東中通
       高七石壱斗        散田三拾俵納
         反別壱町歩
右は当申春、大井川御普請、諸色代に差支え、よんどころなく御
願い申入れ、書面の金子拝借申し候処、実正に御座候。御利足返納
の儀は、金壱両に付、米    積りを以って、来る十二月
廿日限り、急度御上納申すべく候。万一、限月返上納相滞り候節
は、右引当別紙質物田地、売払候地代金を以って御引取り御手作成らるべく候。
たとえ何様の非常年柄に相当り候とも、返納仕り、聊か御損耗
相掛け申すまじく候。これに依り、後日のため、村役人、借主、証書差入れ
置き申し候処、よって件の如し。
                  北河原新田
  明治五壬申年           金子借主
                       組頭
                         飯塚純次郎 ㊞
                       証人
                        百姓代
                         田原嘉吉 ㊞
                       証人
                        同断
   御開墾方                杉本惣吉 ㊞
     中条潜蔵
       御用人中様
  拝借金壱両に付、壱ヶ月銀壱匁弐分五厘の勘定を以って、元利とも
                       規日相違なく、御上納仕るべく候、以上
前書の通り、相違御座なく候。これにより、奥印仕り候、以上。
                       名主田代三右衛門 ㊞

 すべて。
散田(さんでん)近世、農民の死亡・逃散、または没収などによって、耕作者がいなくなった田地。
北河原新田(きたかわらしんでん)島田市中河町。
中条潜蔵(ちゅうじょうせんぞう)旧旗本、中条金之助が改名する。諱景昭。
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「家忠日記 四」を読む 19

(庭の花盛りの花壇)

熊本の大地震は、未明にマグニチュード7.3の大地震が発生し、6強、6弱、5強、5弱と地震が頻発し、大変なことになっている。結局、この未明の地震が最大規模で本震とされ、今まで本震と呼ばれていた最初の地震は前震と呼ばれるのだという。そして本震の後の地震が余震と呼ばれる。これは呼び方の違いだけで、地震の本質が変わるわけではない。

午後、金谷宿大学「古文書に親しむ(経験者)」講座で、教授として、記念すべき第一回の講座があった。今日は自己紹介やら、資料の説明、この講座の進め方、講座への思いなどを話したりしたので、残り一時間を切り、結局テキスト2枚しか進まなかった。解読の中で4ヶ所ほど間違いがあり、読みの違いも2か所あった。皆んなが気楽に意見を言い、間違いを指摘してくれるような雰囲気にしたいと思っていたが、ある程度出来たと思う。

学生代表はNさんが手を挙げてくれ、終ってからH氏の提案で全体写真を撮った。これを使って、写真入りの名簿を作ってくれるようである。第一回目は何とか終わった。心配していた初心者のS氏も何とか付いて行けそうだと聞いた。次回からは、講座の開始時間を1時10分からとし、出来たら2時間実施したいと思う。

「家忠日記 四」の解読を続ける。

 天正十二年(1584)申七月
六日 庚辰 雨降り。
七日 辛巳 雨降り。
八日 壬午 
九日 癸未 
十日 甲申 

十一日乙酉 
十二日丙戌 
十三日丁亥 家康、伊勢より清須まで、御馬納められ候。
十四日戊子 
十五日己丑 田楽八幡岩くら、会下へ参り候。
      敵、物見出で候て、小牧人数衆も働き候。
※ 田楽八幡(たらがはちまん)- 伊多波刀神社(いたはとじんじゃ)のこと。愛知県春日井市上田楽(かみたらが)町に鎮座する神社。

十六日庚寅 
十七日辛卯 清須へ出仕候人数、半分返し候。
十八日壬辰 
十九日癸巳 
廿日 甲午 

廿一日乙未 
廿二日丙申 
廿三日丁酉 
廿四日戊戌 
廿五日己亥 

廿六日庚子 
廿七日辛丑 雨降り。
廿八日壬寅 雨降り。
廿九日癸卯 雨降り。
晦日 甲辰 雨降り。


 天正十二年(1584)申八月
 八月小
一日 乙巳 雨降り。
二日 丙午 
三日 丁未 雨降り。深溝、新造煩いにて、深溝越し候。
四日 戊申 勘左所にふる舞い候。
五日 己酉 会下へ参り候。作十郎所にふる舞い候。

六日 庚戌 
七日 辛亥 
八日 壬子 小牧へ越し候。
九日 癸丑 雨降り。
十日 甲寅 雨降り。
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「家忠日記 四」を読む 18

(散歩道のスパラクシス・トリカラー)

いよいよ明日は記念すべき「教授」第一日目である。金谷宿大学「古文書に親しむ(経験者)」講座で、これから月一回の講座がエンドレスで始まる。何とか五年は続けたいと思う。それまでに、後を受けてくれそうな人を探そうと思う。

きばりすぎて、明日渡す資料が運び切れないほどたくさんになった。テキストになる古文書はすでにみなさんに渡してある。明日渡す資料は、「講義日程及び名簿」「解読資料集」「郡名・村名一覧」「翻字資料」「読み下し資料」「講座領収証」「大井川木材搬出資料」などである。

今回、初めての受講になるS氏には、念のため電話で連絡した。

「家忠日記 四」の解読を続ける。

 天正十二年(1584)申六月
廿日 乙丑 十九日より今日まで、討ち捕り候頭、百廿余、小牧へ越し候。
      敵城楽田に向かい、責め墜としにかけ候。
※ 楽田(がくでん)- 尾張国丹羽郡楽田。楽田城があった。小牧城の北東五キロ。
廿一日丙寅 筑前は馬を近江まで入れ候由候。
廿二日丁卯 小笠原権之尉榊小平太へ越され候。
※ 小笠原権之尉 - 小笠原権之丞(おがさわらごんのじょう)。徳川家康の隠し子の一人とされる。小笠原越中守正吉の子として成長、幡豆小笠原氏を継ぐ。
※ 榊小平太 - 榊原康政(さかきばらやすまさ)。戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。徳川四天王の一人。

廿三日戊辰 前田城渡し。
廿四日己巳 
廿五日庚午 

廿六日辛未 雨降り。
廿七日壬申 
廿八日癸酉 楽田筋へ、小牧衆物見に出候えば、小口衆出候て、
味方十人ばかり討たれ候。敵も四五人討ち捕る。
※ 小口衆(れい)- 小口城に詰めていた武将たち。小口城は愛知県丹羽郡大口町にあった。小牧長久手の戦いでは、秀吉の軍勢が入り、城跡を整備し、小牧山城に布陣する信雄と家康の軍勢と対峙した。小牧山城北方五キロほどに位置する。
廿九日甲戌 敵馬十五、六捕り候。


 天正十二年(1584)申七月
 七月大
一日 乙亥
二日 丙子 
三日 丁丑 蟹江、別心人、前田与十郎に腹を切らせ候て、蟹江城渡し、
      瀧川舟にて退き候。御味方これ有るべき起請文書き候。
※ 別心(べっしん)- そむこうとする気持ち。ふたごころ。「別心人」で「裏切者」。
※ 前田与十郎 - 前田長定(まえだながさだ)。戦国時代の武将。前田城主。前田利家の本家筋にあたる。滝川一益の誘いにより、秀吉陣営に寝返り、蟹江城から佐久間信辰を追放、滝川の兵と共に蟹江城に籠城した。

四日 戊寅 
五日 己卯 家康、伊勢筋へ御働き候。
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「家忠日記 四」を読む 17

(散歩道のセイヨウジュウニヒトエ)

夜、熊本で大きな地震があった。阪神、新潟より規模は小さいが、震度は最大で7という。夜間で情報は少ないが、夜が明けると被害が大きくなるのではないかと心配する。現在、パソコンに向かいながら、らじる★らじるで聞いているが、余震が5分、10分置きに起きている。

「家忠日記 四」の解読を続ける。

 天正十二年(1584)申五月
十一日丁亥 
十二日戊子 
十三日己丑 雨降り。
十四日庚寅 
十五日辛卯 

十六日壬辰 
十七日癸巳 
十八日甲午 雨降り。
十九日乙未 
廿日 丙申 

廿一日丁酉 
廿二日戊戌 
廿三日己亥 岩倉へ見物に越し候。
※ 岩倉(いわくら)- 岩倉城。小牧城の西3キロ。現、岩倉市下本町にあった城。永禄2年(1559)に、信長に攻撃され落城。
廿四日庚子 
廿五日辛丑 小牧城へ出で候。

廿六日壬寅 
廿七日癸卯 雨降り。戸左衛門所にふる舞い候。
廿八日甲辰 雨降り。
廿九日乙巳 酒小五郎殿にふる舞い候。


 天正十二年(1584)申六月
 六月小
一日 丙午 城へ出仕候。
二日 丁未 雨降り。
三日 戊申 雨降り。
四日 己酉 
五日 庚戌 

六日 辛亥 
七日 壬子 
八日 癸丑 雨降り。
九日 甲寅 
十日 乙卯 竹ヶ鼻の城、渡し候。卯刻に地震候。

十一日丙辰 
十二日丁巳 家康、清須まで御馬入られ候。小牧城へは酒左越され候
十三日戊午 小牧城、祢小家へ陣替え候。
※ 祢小家(ねごや)- 父親のみたまや。
十四日己未 夕立ち雨降り。
十五日庚申 

十六日辛酉 蟹江、下嶋、前田城、瀧川調儀にて取り候。
      則ち、家康駈け付けられ小口をとられ候。
※ 蟹江、下嶋、前田城 - 蟹江城、下嶋(下市場)城、前田城。小牧長久手の戦いの一連で、「蟹江合戦」と呼ばれる城争奪戦。
※ 調儀(ちょうぎ)- 工夫。才覚。策略。かけひき。
※ 小口(こぐち)- 事の始まり。端緒。いとぐち。

十七日壬戌 
十八日癸亥 
十九日甲子 昨日、戌刻に下嶋(下市場)城、責め崩され、敵、討ち捕り候。
      九鬼は舟にて落ち候を‥‥御本所様大舟にて乗り掛け、
      敵舟より‥‥とり人数、討ち捕り候。瀧川馬印も取り候。
      主は蟹江の城候。
※ 九鬼(くき)-九鬼嘉隆。この戦いで滝川一益に加勢。
※ 御本所様(ごほんじょさま)- 織田信雄のこと。御本所様と呼ばれていた。
※ 馬印(うまじるし)- 戦国時代、軍陣で武将の所在を明示するために、馬前または馬側に立てた旗、幟、纏。
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「家忠日記 四」を読む 16

(散歩道のツリガネズイセン)

「家忠日記 四」の解読を続ける。

 天正十二年(1584)申四月
 四月大
一日 丁未 敵引きまわし候て、陣取り候。
※ 引きまわす - 周りを取り囲む。
二日 戊申 
三日 己酉 外山へ番に移り候。昨年形原下。
※ 外山(そとやま)- 愛知県小牧市に存在した平城。廃城となっていた所を、小牧長久手の戦い時に家康が修復して北外山砦として利用。
四日 庚戌 野田納郷に替り候。
五日 辛亥 また外山へ番に越し候。

六日 壬子 
七日 癸丑 働き候。
八日 甲寅 家康へ出仕候。
九日 乙卯 岩崎筋へ働き候て、敵先勢池田勝入父子、森武蔵守、
      その外、壱万五千余、討捕候。酒左は小牧の押さえにて候。
※ 岩崎(いわさき)- 現、小牧市岩崎。外山の北方5キロ。
※ 先勢(さきぜい)- 軍勢の先頭部隊。
※ 池田勝入父子 - 池田恒興(いけだつねおき)と、池田元助(いけだもとすけ)父子。
※ 討捕(とうほ)- 敵や悪者をさがし回ってとらえる。

十日 丙辰 

十一日丁巳 
十二日戊午 
十三日己未 
十四日庚申 
十五日辛酉 

十六日壬戌 鵜八郎三(郎)所にふる舞い候。
十七日癸亥 酒小五、ふる舞い候。外山へ番に越し候。
十八日甲子 
十九日乙丑 
廿日 丙寅 

廿一日丁卯 
廿二日戊辰 
廿三日己巳 雨降り。
廿四日庚午 
廿五日辛未 

廿六日壬申 敵陣へ尾州衆夜討を入り候。敵討ち捕り候。
廿七日癸酉 
廿八日甲戌 雨降り。
廿九日乙亥 雨降り。外山へ番に越し候。
晦日 丙子 


 天正十二年(1584)申五月
 五月小
一日 丁丑 羽柴退散候。
二日 戊寅 
三日 己卯 雨降り。小牧城へ出仕候。信雄、河内へ御帰城候。
四日 庚辰 加賀の郷の城、羽柴取り登り候。
※ 加賀の郷の城 - 加賀野井城。岐阜県羽島市の木曽川西岸にあった加賀井氏の城。加賀井氏は信雄から加賀野井郷の知行を宛がわれていた。
五日 辛巳 小牧城出で候。

六日 壬午 加賀の郷の城衆、切り出し候。‥‥ 討たれ候。
      大将二人うち取候。敵、竹ヶ鼻、取り登り候。
※ 竹ヶ鼻(たけがはな)- 竹ヶ鼻城。現、岐阜県羽島市竹鼻町にあった平城。元尾張国にあったが、天正14年の木曽川大氾濫により、流路が変わり、美濃国になった。
七日 癸未 雨降り。
八日 甲申 雨にあられ混じり候て降り候。
九日 乙酉 
十日 丙戌 雨降り。
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「家忠日記 四」を読む 15

(庭のドウダン)

あっちもこっちも花盛り。にぎやかな季節である。

「家忠日記 四」の解読を続ける。

 天正十二年(1584)申三月

これから始まる、秀吉軍と信雄・家康軍の戦いは、後に「小牧・長久手の戦い」と呼ばれる戦であるが、この日記では情報が断片的で、全体像は掴めない。

十一日戊子 雨降り。
十二日己丑 山崎まで着陣候。伊賀大和御味方に参り候由候。
十三日庚寅 津嶋まで着陣候。
十四日辛卯 桑名へ出陣候処、犬山城、池田紀伊守取りて、
      愛知川より帰り候。酒左は返され候。
      津の小田上野守殿、敵に成られ候て、北伊勢亀山、
      堀久太郎長谷川藤五郎、瀧川ひの掃部働き候て、
      尾州衆追い払い、嶺の城まで退き候由候。三百余討ち捕られ候。
※ 池田紀伊守 - 池田恒興(いけだつねおき)。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田氏の家臣。尾張犬山城主、摂津兵庫城主、美濃大垣城主。この時は秀吉に与する。池田輝政は息子。
※ 愛知川(えちがわ)- 現、滋賀県愛知郡愛荘町。中山道65番目の宿場、愛知川宿。
※ 小田上野守(れい)- 織田信包(おだのぶかね)。織田信秀の四男で、織田信長の弟。通称は三十郎。当時、秀吉の家臣で、伊勢津城15万石を領す。
※ 堀久太郎 -堀秀政(ほりひでまさ)。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。秀吉の家臣。
※ 長谷川藤五郎 - 長谷川秀一(はせがわひでかず)。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。信長、のち、秀吉の家臣。
※ 嶺の城 - 峯城(みねじょう)。三重県亀山市川崎町にあった平山城。

十五日壬辰 酒左、桑名より津嶋へ帰られ候。

十六日癸巳 清須近所、落合の郷まで着陣候。
※ 落合の郷 - 現、愛知県清須市春日落合。清須城の北、2キロ。
十七日甲午 犬山表へ働き候。森武蔵守持ち候屋敷押し破り、
      敵級千三百余討ち捕り、家中へも十五人討ち候。
※ 敵級(てききゅう)- 敵の首級。
十八日乙未 幡(旗)本、清須へ出仕候。
十九日丙申 雨降り。羽柴‥‥
廿日 丁酉 雨降り。

廿一日戊戌 
廿二日己亥 雨降り。
廿三日庚子 跡部大炊助殿、陣廻りに越され候。
廿四日辛丑 比良の城、普請に越し候。
※ 比良の城 - 比良城(ひらじょう)。尾張国春日井郡比良にあった平城。
廿五日壬寅 

廿六日癸卯 羽柴、濃州へ差し出で候由候。
※ 濃州(のうしゅう)- 美濃(みの)の異称。
廿七日甲辰 雨降り。明日、小牧へ陣替え候え候由、申し来り候。
      小笠原権之尉、酒左家中出で候て、我ら当座抱え候。
※ 小笠原権之尉 - 小笠原権之丞(おがさわらごんのじょう)。安土桃山時代から江戸時代初期の武将。徳川家康の隠し子の一人とされる。
廿八日乙巳 小牧へ陣替え候。羽柴、小牧原へ押し出し候。
※ 小牧原(こまきばら)- 現、愛知県小牧市小牧原。
廿九日丙午 信雄、川内より小牧へ移られ候。
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「家忠日記 四」を読む 14

(静岡城北公園前の、ツルニチニチソウの群落)

毎年、野生化したように、辺り一面に花を咲かせるツルニチニチソウだが、写真に撮ったのは今年が初めてである。

「家忠日記 四」の解読を続ける。

 天正十二年(1584)申三月
 三月小
一日 戊寅 会下へ参り候。
二日 己卯 雨降り。酒左より、家康へあて、御下賜米、御差し量候間、
      早々御礼に越し候への由、申し来り候。
※ 差し量(さしりょう)- 差し料。自分が腰に差すための刀。

三日 庚辰 浜松へ日駈けに越し候。舞坂より雨降る。
      城に御能候。観世息子、神愛越し候。
※ 観世(かんぜ)- 観世元尚。八世観世太夫。天正5年(1577年)春、三河吉田で死去。
※ 神愛(しんあい)- 観世身愛。九世観世太夫。観世元尚の息子。観世流猿楽師、七世観世大夫(観世宗節)に育てられ、天下人となった徳川家康の元、観世座を再興させる。


四日 辛巳 城へ出候。昨日三日、三川、遠州、徳政入り候。
      永代質物ばかり除き、その外建て入れ候。
※ 徳政(とくせい)- 鎌倉時代末期から室町時代にかけて、御家人や農民の困窮を救うために幕府から発せられた債務・債権の破棄令。江戸時代には棄捐令と呼ばれた。
五日 壬午 深溝へ帰り候。

六日 癸未 
七日 甲申 雨降り。酒左より信雄、長嶋にて、岡田長門守津玄蕃、御生涯(害)候の間、
      尾州御陣、明日、明後日、これ有るべく候由、申し来り候。
      戌刻に、吉田より、家康と早々岡崎へ御返り候間、
      御陣、明日に候由、申し来り候。
※ 長嶋(ながしま)- 長嶋城。伊勢国桑名郡長島にあった城。長島一向一揆の拠点となった後、信長によって攻略。賤ヶ岳の戦い後、織田信雄の居城となる。
※ 岡田長門守、津玄蕃 - 岡田長門守、津川玄蕃助、浅井新八の三名は、秀吉に意を通じた廉で、織田信雄より自害させられた。
※ 生害(れい)- 自殺すること。自害。


八日 乙酉 雨降り。岡崎まで出陣候えば、何比(頃)まで越らるべく候由、
      御意にて、矢作まで越し候。
※ 矢作(やはぎ)- 愛知県岡崎市矢作町。
九日 丙戌 阿野まで着陣候。
※ 阿野(あの)- 愛知県豊明市阿野町。
十日 丁亥 酒左、同心にて鳴海まで着陣候。
※ 同心(どうしん)- ともに事にあたること。協力すること。
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