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大井河源紀行 29  3月23日、24日 洗沢、峰山

(頂いたカラマツソウの鉢)

日本男子サッカーがブラジルのワールドカップ出場を決めた。今夜、埼玉で行われた。オーストラリアとの一戦で、1対1の引き分けで決めた。5回連続出場の中、国内で決めたのは初めてである。ロスタイムでの本田のペナルティキックにはしびれた。

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藤泰さん一行は復路に入る。この旅も残すところ、あと五日である。復路は大井川筋から離れて東側の山中を行く。3月23日は梅地から洗沢まで往路で通った道だから、元の山路の嶮岨を戻ると、簡単に記して、洗沢の舗舎に宿泊した。3月24日、11日目、洗沢から先は、初めての道である。

廿四日、今朝は宵の程より曇る。洗沢を立ちて笹間郷に越えなんとて、道くだりむかい、半里ばかりして、蛇塚と云う所に出たり。この地は藁科の黒俣村の枝郷なり。こゝは国府より山中通路なれば、他よりは道の程もよろし。こゝより左の方に下りて、また右に廻りて、山の半腹なる横すじ路を、数十町過ぎ行き、芝おり敷きて憩たるに、杣人と覚しき人、同じく憩い、いづれの里人ぞと問えば、おのれは伊豆の国人なるが、近き年、この辺の山中に来たり。椎茸を作りおるものなり。用事ありて某の里へ出るという。我等は笹間の臼平へ行くものなり。いづれを行き越せる、近きにや、と問えば、これより右の方の坂を登り、嶺を越し給へば、則ち臼平へ下れる道ありと教えるまゝ、案内のものも、峰山にかゝれるよりは、近い方に行き侍らんとて、かの教えのかたに登る。

江戸時代、伊豆から椎茸栽培の技術が安倍川奥にもたらされたことは知られている。一方域外へ出すことを禁じられていた山葵が、その見返りとして、密かに伊豆へ持ち帰られて、その後、伊豆が山葵の一大産地になったことも有名な話である。

数百歩して、峠にいたるに、左の方にも古道のかたちあれど、篠竹、小楢など生い繁り、右の方に又一筋の道あり。これは右の峰の尾へ登る路と覚ゆ。左右の間にまた一すじのくだり路ありて、幽谷を臨む。この方ならめと、つゞらおりなる処を降り、数歩して渓を臨むに、谷川ありと覚えて、水声遥かに潺々たり。されど幽谷の中、人烟ありとも覚えず。
※ 潺々(せんせん)- 浅瀬を流れる水に音。

これはそも道の違いたるならん、といえば、案内いう。さるにても侍らむ。谷川まで下りて、路ある方にや見極めなんとて、この処に齎(もちもの)を卸して、唯壱人下り過ぎ行く姿も、草木に隠れて見えざりけり。おのれは独り、芝おりしきて待ち居たること、やゝ久し。今は待ちわびたるまゝに、頻りに声を揚げて、呼びけれど、更に答もなく、唯、谷響(やまびこ)のひびきけるのみ。

漸く時刻移りて、かすかに人音の聞えたるにぞ。とこうする内に立ち帰りていう。谷川の向いに一筋の古道、荒るまゝ、川を渉りて、向うに越しのぼりて見るに、路次は木の葉にうずもれて、更に弁じがたく、椎茸小屋のふりたる、頽(くず)れてあるのみ。しかじ、元の道に出給へとて、これより又元の道に戻り、案内しれる峰山の方へ、過ぎ行きける。諺に、知らぬ近道を行かんより、遠き案内の道に入れとは、如様のことにこそとて、打ち笑いつゝ、足に任せて行く程に、ほどなく峰山に至る。山の嶺に近き在所なり。山家に立ち寄りて休い、午時の飯を弁じ、主に臼平越えの道筋を尋ねて、この家を立ち、おしえにまかせ、嶺に躋(のぼ)りぬ。

仕事道を登山道と間違えて山中で迷うのは、薮山歩きで、良く陥った間違いである。無駄を厭わずに、間違えた分かれ道まで戻るのが、正しい唯一の判断である。諺なら、「急がば回れ」である。
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