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59大林寺、60安西五丁目地蔵堂 - 駿河百地蔵巡り 7回目

(第60番安西五丁目地蔵堂)

(昨日のつづき)
玄忠寺から600メートルほど西へ進んだ、三番町小学校の西側に、第59番大林寺がある。仁王門には表側は阿吽の仁王像であるが、内側は、風神雷神の二神が守っていた。変わった仁王門である。境内にはそれらしい地蔵尊も無く、「駿河一国百地蔵尊」の板も、どこにも無かった。ここも戦災を受けて、明治40年に再建された七堂を焼失している。おそらく、地蔵尊もその折りに失われたのであろう。

安西通りに出て、安西橋の橋詰の第六十番安西五丁目地蔵堂に至った。この川除延命地蔵も、戦災でお堂も地蔵尊も失われ、昭和二十六年に再建されたという。「駿河一国百地蔵尊」の板も見当たらなかった。堂内を覗くと、正面に川除延命地蔵の石像が立ち、その左右にも石の地蔵が並んでいる。向かって右側の地蔵は、裏面に「昭和廿二年八月之建」と刻まれ、空襲の際に近くに墜落して死亡した、米国爆撃機B29の搭乗員を弔う地蔵であった。死体がこの地蔵堂のそばに埋められたという。川除延命地蔵との間に大きな木製の位牌があり、「靜岡市戦災横死者B二十九搭乗□□霊位」と墨で書かれていた。□□は供花に隠れて見えなかった。


(地蔵堂脇の秋葉燈籠)

地蔵堂脇に、嘉永元年(1848)に建てられた秋葉燈籠があった。安西から羽鳥、藁科と通じる道は、川根を経て秋葉山に通じている。江戸時代には安倍川に橋が無かった。秋葉山参詣者にとって、安倍川の徒渉は大変危険を伴った。この川除延命地蔵は、江戸時代、旅の途中で倒れたり、安倍川の徒渉中に流された人を弔うために祀られた。また、地元の人々は、この地蔵に、暴れる安倍川の川除け、水害除けを祈った。

地蔵堂の縁側に腰掛けて、昼食のおにぎりを食べた。現在、安西橋の拡幅工事が行われており、伴って、周囲の道路の付替えの必要から、近いうちに、安西五丁目地蔵堂は移設されるらしい。

昼食の後、安西橋を渡る。次回安倍川の右岸を歩いて、足久保口の第四十四番新光明寺へ参る予定でいる。今日は安西橋を渡ったところまで歩いておいて、バスで駅まで戻り、次回はそこまでバスで行く。そこからでも新光明寺までは10キロほどある。少しでも足を延して置きたいと思った。さらに、今日は、たくさんのお寺に寄ったけれども、歩いた距離としてやや不満だったので、ネットで調べて、羽鳥の見性寺まで往復しようと思った。


(山崎延命地蔵堂)

安西橋を渡ってすぐの、国道362号線の右側道路沿いに、番外の山崎延命地蔵堂があった。石に線彫りされた地蔵尊で、両側に一体づつ、都合三体が並んでいる。風化が進んでいて、線彫りがあまりはっきり見えなかった。

このあと、3キロ歩いて見性寺まで行った。ネットで調べたときに、「ぽっくり地蔵」があると思い、行く気になった。人は誰も、生きているうちは元気で、死ぬときは周囲に迷惑をかけずに、ぽっくりと逝きたいと思っている。それを叶えてくれるお地蔵さんがあるというのである。ところが、自分の勘違いで、見性寺の「ぽっくりさん」は弥勒菩薩であった。ぽっくりを願うにはまだ早いし、地蔵の旅にはそぐわないから、お参りもしないで、3キロ戻り、山崎のバス停から帰途についた。戻りの3キロでは、右足の甲が痛くなって難儀な歩きになった。本日の歩数35,934歩で25キロ弱くらいの歩行距離になった。
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