goo

「日本シュメール同族論」という原稿

(O氏の原稿「日本シュメール同族論」)

今朝、郵便小包がどさっと届いた。靜岡在住のO氏からであった。何事か知らんと荷を開けてみた。届いたのは原稿用紙のコピーで、厚み2センチにも及ぶ束である。表題に「日本シュメール同族論」と書かれている。288文字詰原稿用紙で216枚、6万2千文字にも及ぶ原稿であった。400字詰に直すと150枚である。

手紙と一緒に添書きが入っていた。岐阜の友人への書簡文のうちから、表題に関連する短文を寄せ集めたものであるという。理路整然、首尾一貫したものではないが、O氏自身の独創(オリジナル)思想なので、ぜひ見ていただきたいと書かれていた。

今までに何度か突然に自費出版の本や原稿が送られてきて、驚かされた経験があった。決して良い読者とは言えないが、続いているのは何かしら気脈の通じるものをお互いに感じているからであろう。学生時代は毎日のように会ってお話をしたが、この40年近くは、手紙のやり取りはあっても、一度も直接にお会いしてはいない。不思議な関係である。自分の知人の中でも異色の人である。

歴史言語学者の川崎真治氏が唱えた、「紀元前に世界最初の都市文明を築いたシュメール(現イラクの地)の言語の、東漸転訛したものが日本語である」という説がある。アカデミーでは受け入れられていない異端の説であるが、O氏は本を読んで深く感銘を受け、実際に日本へ東漸している痕跡を調べてきた結果、明らかに日本に至り、形を変えて現代にも息づいているという確信を得た。その経緯を岐阜の友人の書簡の中で展開してきたのであろう。どういう友人なのか知らないが、その友人の批判に答えて新しい展開をしてきたというようなこともあったに違いない。

松本清張が、飛鳥時代の斉明期に、大和地方に造られて残っている巨石群から、ゾロアスター教の影響を論じたことがあったのを思い出した。あれは歴史学の定説になってはいないだろうが、読後に妙に納得していた印象だけが残っている。

この原稿の束から、書いたO氏のエネルギーが伝わってくる。どこかに発表するわけではないし、功名心があるわけではない。生きるための糧を得るためでは無しに、ただ湧き出ずる知的好奇心だけで、人間はこれだけのことをやってしまう。読む方にも知的好奇心が試されているのであろう。これを最後まで読みきることが出来るであろうか。

O氏はこのブログでも何度か取り上げた人生の先輩である。ブログの書き込み「夢は仙人になること」で人となりを紹介した。O氏も自分の知る限り3冊の本を出版されている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「御巡見御触写」-喜三太さんの記録

(ムサシの散歩道のブルーサルビア)

午後、掛川の古文書講座に出かけた。先月は講座がお休みで、2ヶ月ぶりである。本日のテーマは喜三太さんの「記録」より「御巡見御触写」である。

10月3日に「検見廻村御触れ文書」を解読した。この「検見廻村」と「御巡見」の違いを述べておこう。「検見廻村」は代官所などの役人がその年の米の取れ高を想定するために、村々を調査しながら回る。それに対して「御巡見」は幕府が旗本に命じて諸国を回らせる。将軍が代替わりしたときなどに行なわれた。今回取り上げる巡見は、天保8年、将軍が11代家斉から12代家慶になったときに行なわれている。天明度というのは、その前に行なわれた巡見で、10代家治から11代家斉に変わったときである。

巡見は全国を畿内、北国(北陸)、西国(九州)、中国(中国地方)、東国(東海地方)に分けて、旗本に命じて巡国させる。地方の状況を見るぐらいで、確たる目的があったようではない。

この文書はその前触れの文書である。巡見使に対して目に余る接待などが過去にあったためであろうか、特別な処遇を諌める条がくどいほどに並んでいる。現代でも、綱紀粛正の声がかかると、まず末端の役人に厳しい対応がされる。出したお茶も飲んで行かなかったと礼を失するほどの厳しい対応がされる。天保といえば、この後、天保の改革が出され、倹約を領民に強いる政策が出る。そのような背景もあったのかもしれない。書かれていることはすべて過去に巡見使に行なわれたことなのだろう。裏読みすればけっこう面白い文書である。

少し長くなるが、書き下した文を示す。

御巡見御触れ写し
一 この度巡見御用仰せ付けられ、伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、美濃、飛騨、信濃国罷り越し候、これより天明度の通り相心得られ、書付差し出さるべく候
一 道筋並び休泊、先規之場所相違の所これ有り候わば、その訳書付差し出さるべく候
一 巡見通行場所、郡村町名など並び休泊の里数書付差し出さるべく候
一 休泊の儀、天明度巡見の通り、その処、差し支えこれ無く候わば、この度も休泊いたしたく候、もっとも手狭まに候とも、または二階家、寺院にても苦しからず、別家の下宿これ無き様、成るべくだけ一組一軒にて相済し候様致したく候、さりながら新規に取り繕うなどの儀、これ無き様その向き向きへ申し付けらるべく候
但し畳替えなど、その外取り繕う、これ無き様、これまた相達せらるべく候
一 通行の節、先触れの外、余計の人馬差し出し申すまじく候、もっとも山坂難所あるいは弱き馬一駄分一疋に付け難きこともこれ有り、御朱印人馬、先触れの人馬にて不足の分は雇い申し付くべく候、万一俄に病人などこれ有る節は、賃人足、山駕籠掻き、その所雇い申し付くべく候あいだ、前広手当して余計に人馬用意の儀、決して無用のことに候、これらの趣き、兼ねてその所の宿役人どもへ相達せらるべく候
一 巡見の節、休泊の旅宿あるいは道筋取り繕い、掃除など、その外、野間の休所取り建ての儀、堅く無用たるべくこと
一 巡見通行の節、農人耕作、売人家業、構い無くはたらき候よう相達せらるべく候
一 旅宿夜具の儀、有り合せの品にて、古く候とも聊か(いささか)苦しからず候、もっとも絹布などの類、無用に候、休泊宿賄い(まかない)の儀は木銭にて罷り通り候の間、一汁一菜の外、余計堅く差し出し申しまじく候、もしまた心得違いにて酒肴などはもちろん、少々の余菜差し出し候ても諸用致さず、差し戻し候あいだ、万一心掛け置き候の儀もこれ有り候わば、はなはだ無益の儀に付、かつてこれ無きよう、並びに膳椀などの儀、有り合せの品にて間に合せ候よう、きっと相達せらるべく候
但し野菜、魚類はもちろん有り合せの品何に限らず外より取寄せ候儀、決して無用のことに候、自然物ごと不自由なるところは、一汁一菜には限らず香の物ばかりにても苦しからず候
右の趣き申し達し候あいだ、その所々宿役人並び旅宿のもの厳しく被申し付けらるべく候、何に限らず新規に仕立て候儀、無用の事に候、諸事古例に拘わらず無益のことどもこれ無きよう、精々申し達せらるべく候、この外とも万端手軽の方、専一にいたしその所の難儀痛みに成らぬよう申し付けらるべく候
   天保九(戊戌)年二月
   御巡見役人
 本使 土屋市左衛門 添使 設楽甚十良 水野藤次郎
   右三人にて一組
御書付の趣意は前文の通り相心得申さるべき事
  戌二月
                     荒井九十九
              長谷川佐野四郎殿

※ 先規(せんき)- 前からのおきて。前からのしきたり。先例。
※ 前広(まえびろ) - 以前。前々。

この文書に出てくる名前と役柄を説明すると、巡見使は、本使が土屋市左衛門、添(副)使が設楽甚十良、水野藤次郎の2名の、計3名である。荒井九十九は代官所の役人、長谷川佐野四郎は各和村の名主である。

来月の講座では、巡見使の御通行の様子を記した文書を解読する。巡見使が何をして回ったのかがうかがえると思う。
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )

桜田門外の変、浪士提出趣意書

(色付き始めた裏の畑のミカン-もう十分食べられる)

先週の土曜日、「古文書に親しむ」の講座を近所の葬式に当ったために欠席した。その日講座で勉強したのは桜田門外の変の直後、そばの屋敷に駆け込み提出された書付である。自分たちが何故乱暴に及んだかが、書かれている。中々の名文で、マスコミも無い時代ながら、色々なところにこの文が書き写されて残っている。現在、ネットでもその全文を見ることが出来るが、書き写したために、誤写もあり、明らかに間違ったと思われる部分もあった。

以下、解読したものを講師から送っていただいたので、自分が予習していた部分と付き合わせ、書き下したものを示す。難しい言葉が羅列されていて、理解が難しいが、論旨に狂いはない。最初の「脇坂候」の部分が空欄になっていて、提出直前に書き加えたようで、その部分が違った名前のものもあり、複数枚作って飛び込んだ屋敷に何通か提出したものと思われる。内容に微妙に相違があるのもそのためであろう。

水戸殿元家来、脇坂候へ指し出し候書付の由
謹んで脇坂候執事へ言上奉り候、執事御義、賢明に為されあり、天下の御政道邪なく御取り計り遊ばされ候義に存じ奉り候あいだ、草奔の我々ども申上候は、恐れ入り候えども存じ詰め候義、腹臓なく別紙相認め尊覧に入れ奉り候、追々御大老井伊掃部頭殿所業を伺察(しさつ)仕り候ところ、権威をほしいままに致し、我が意を取り計り、忠誠厚き人々をば御親藩をはじめ、公卿衆、大名、御旗本限らず、讒誣(ざんぶ)致し、退隠幽閉など仰せ付けられ候よう取り計らい、就中(なかんずく)外虜の義につき、その虚喝の狩勢に恐怖致し、神州の大害を醸し、容易ならぬことども指し許し、御国体を穢し、恐れながら叡慮を悩まし奉り、勅意をも違背のみならず、御譲位の義を企て候、奸曲に至り、天下の大罪人とて申し存じ奉り候、右罪状の義を委細別紙に認め候ゆえ、塾読御賢慮遊ばさるよう願い奉り候、

さて右などの奸賊御座候うては、已来(いらい)将軍家に御政道を乱し、夷狄(いてき)の為に禍害を制され、成春の義、眼前にこれ有り、実に天下の安危こだわり候義と存じ奉り候ゆえ、この度天誅にかわり候心得にて、私戮(しりく)仕ることに御座候、毛頭公辺へ御敵対申し上げ候義はこれ無く、かつ全て我々ども忠憤の余り、天下の為を存じ詰め候うてことに御座候間、巌刑の御所置遊ばされ候うても御恨みは申し上げず候、これよりは元主人家譴責を蒙り候ようの義はこれ無き様、願い奉り候ため、またこの旨は天下之御政事正道に御復(お)ち、忠邪御弁別遊ばされ、ことさら夷狄の御取扱に至り候うては、祖宗の御遺訓御斟酌在らせられ、華夷内外の弁御勘考遊ばされ、御国威を損じ申さぬ様、御判断のほど渇望奉り候、この段、罪を顧みず萬死申し上げ奉り候、恐惶頓首

※ 伺察(しさつ)- ひそかにようすなどを見ること。
※ 讒誣(ざんぶ)- 事実ではないことを言いたてて他人をそしること。
※ 外虜 - 外敵
※ 夷狄(いてき)- 未開の民や外国人。
※ 私戮(しりく)- 私的にむごたらしく多くの人を殺すこと。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

中国反日デモの欺瞞

(土手のススキの道を散歩するムサシ)

中国で反日デモが3日連続で起きている。またかと思い腹立たしくなりながら、少し裏読みしてみたくなった。

中国における若者たちの反日デモは、中国当局が裏で操っていることは確かである。煽る必要は何も無い。誘導するだけでどうにでもなるのである。

中国の若者たちは中国憲法でうたわれている、集会の自由、結社の自由、言論の自由など、すべてにおいて、当局の意向のままに規制され、当局の意向に添わない自由は奪われている。かつてのように、食うことで一杯一杯であった頃は、人民には考える余裕が無かった。近年、食うことに心配がなくなって、色々なことを考えるようになった。いくら情報を規制しても、現代では情報を得ようと思えば色々な手段が揃っている。マスメディアが如何に本当のことを伝えていないかを、若者たちは知ってしまっている。しかし、発言の場は頼みのインターネットでさえ、「天安門」とか「劉暁波」と検索するだけでシャットアウトされてしまう。当局を批判するような発言は許されない。もし恐れずに行なえば、劉暁波のように獄に繋がれる。

中国当局は尖閣について、人民の強い意志によって動かされていることを演出したいのであろう。この件については全く取り締まる意思がない。もしいざこざを好まないなら、いつものように「反日」と検索するだけでシャットアウトも出来る国柄なのである。

若者たちも今までの経験知で「反日」という書き込みならフリーパスだと判っている。世の中に対する不満があれば、その方法で人を集めて騒ぎを起しても、少々器物を損壊しても、当局に咎められないことを知っている。だから、わずかなきっかけさえあれば、反日の旗印で街頭へ飛び出し、暴れて鬱憤晴らしが出来る。その証拠に街頭へ出て反日を叫んでいる若者たちの顔が、皆んな嬉々として笑顔に満ちている。

当局はガス抜きが出来たところで収拾をはかればよい。そのまま放置して、反日が反政府へ、あるいは自由化運動へ転じて来るのは最も恐れることだから、収拾を計るにやぶさかではない。収拾することで、中国政府としては過激な反日を阻止したというジェスチャーを日本へ示すことが出来る。

日本政府は全く舐められたものである。双方とも冷静になって、などと発言している日本政府の要人が、事を助長していることに気付いていない。今後も繰り返し繰り返し同じことが起きることであろう。日本政府が毅然たる態度を見せない限り、反日は中国政府の人民統治の一手段として繰り返されるだろう。中国と付き合うならば、そのデメリットを十分に頭に入れて付き合うべきである。政治家も、経営者もそういう事にもうそろそろ気付いても良さそうに思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

花火の音、村祭りの騒ぎと子供神輿

(稲を稲木に掛ける)

朝6時だったのか、花火の上がる音で目が覚めた。寝床から女房に何の花火かと聞くと、地域のお祭りの花火だという。お天気が晴れてお祭りを実施するという知らせの花火なのだろう。すぐにもう一つ少し離れた花火が上がった。先の花火が川向こうの地域の花火で、後の花火が我が地域の花火であろう。川向こうの神社は直線距離ではすぐ近くで、森の梢が我が家から見えている。一方、我が町の神社は第二東名の向こうで随分遠い。

そのまま再び寝て、次に、子供神輿が回ってくると言って、女房が騒いでいる音に目が覚めた。かすかに太鼓の音も聞こえているようだ。写真を撮って置こうと思い、まだ寝巻きだったので、息子にデジカメを渡して頼んだところ、戻ってきて子供神輿が来たのではなかったという。女房も帰り、川向こうの祭りの音が反対側のお茶問屋の再製工場の壁に当って響いていたのだったという。うちの地域の子供神輿はまだのようだという。

着替えて待つ間もなく、子供神輿がやってきた。太鼓を叩きながら神輿を引く小学生たちが揃いの祭り半纏で掛け声を出して行く。それに御祝儀の披露の声が重なる。一時、小学生も減って寂しくなったと思って見てきたが、最近は少し増えたような感じがする。第二東名の代替地などで、我が地域にも小規模ながら団地が出来て、新しい班も出来た。そこには若い人たちも入居したから、子供の数も増えたのかもしれない。恒例によって女房が御祝儀を渡す。デジカメを構えたが電池切れで写真は撮れなかった。


(小さな稲むらがたくさん立ち並ぶ)

夕方、ムサシの散歩を少し早めて、川向こうの神社のお祭りを土手から見ようと思って出かけた。しかし、もう終ってしまったのか、ひっそりとしていた。ムサシが田圃の方へ行きたがるので、土手へ登るのはやめた。今日は稲刈りをしている田圃が多く、昔ながらに刈り取った稲を稲木に掛けている風景も見られた。稲刈り機によっては、稲こぎまで同時にやってしまうものもあるようで、稲藁を敷き藁にでも使うのであろう、小さな稲むらがたくさん出来た田んぼもあった。

夜、再び川向こうのお祭りの騒ぎが聞こえてきた。夕方は夜に備えて一休みしていたようであった。その騒ぎもいつの間にか消えて静かな夜に戻った。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

小山城跡と香典帳の記帳

(小山城天守閣)

昨日の超散歩の目標であった吉田町の小山城へ、前回登ったのはいつ頃だっただろうか。かすかに記憶がある。島田から歩いて来たので、北側から回り込んで小山城跡に登った。入口に冠木門の大手門があり、それを潜るとすぐ目の前に小山城の天守閣があった。

小山城天守閣は昭和62年に築城されたものであるが、この地に天守閣が造られた歴史は無く、吉田町のやや勇み足だったようだ。案内書には「天守閣型展望台施設」と書かれている。天守閣は小山城跡の本丸辺りに建てられており、立派なものである。何はともあれ、平日で観光客の居ない天守閣に200円払って登ってみた。天守閣の最上階から見る、駿河湾側の景色は大変よく、また天守閣が建つ能満寺山の城跡の様子も展望できる。


(小山城跡三重堀)

小山城は北の諏訪原城とともに、難攻不落の高天神城を攻めるための足場として築かれた城である。元は今川氏によって築かれた山崎の砦が土台となり、今川氏が没落した後、武田、徳川両氏は大井川を境に領地を分けた。しかし、武田軍は諏訪原城とともに、大井川を越えて山崎の砦に入り、永禄12年(1569)小山城を築いた。その後高天神城の攻防にともなって、武田、徳川両軍により、小山城を取ったり取られたりの攻防が続いた。小山城がどのような城であったかは明らかではないが、城跡には三日月堀や三重堀など、武田の築城による独特な堀などが残っている。

天正元年(1573)に信玄病没後、天正三年、織田、徳川連合軍が長篠で武田軍を破り、天正九年(1581)には高天神城が徳川軍に落ちると、武田軍は小山城に火を放ち甲州へ退却した。結局、小山城の歴史は13年間で幕を閉じた。

女性の係員にバス停の場所を聞いて、郷土資料館に行ってみたが、休日だけの開館で中には入れなかった。本当を言うと、吉田町の住吉から補陀洛渡海が行なわれたという件で、吉田に行けば情報が得られるかと思って来たのであったが、時間切れで改めて調査に来ることとし、バス停に出た。バスは数分の待ち時間で来た。

   *    *    *    *    *    *    *

今朝からGさんのお葬式で一日かかった。自分は裏方で香典帳に筆ペンで記帳をする役割であった。今回はそれ程でも無かったが、昔、葬式当日だけで200通を越す量を一人で記帳したことがあった。葬式が終ってもまだ記帳が終らず大変な目にあった。班の中には筆書きに手馴れて自分より余程上手な人がいるはずなのに、誰も手を挙げない。だから、それほど上手くも無い自分が書く破目になる。書いてみると、段々手馴れるもので、自分のプラスになると思うから積極的に手を出すようにしている。喪主の人が後々見るためのものだから、上手い字ではなく、読みやすい字を心がけて書くようにしている。この30年間に、班で執り行ったお葬式が9回ほどあったが、そのうち6回ぐらいは自分が記帳したことになる。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

超散歩、島田駅-小山城

(島田大橋より大井川、蓬莱橋も見える)

Gさんのお通夜の前に一汗流そうと、超散歩に出かけた。今日の目標歩数は15000歩である。

一昨日の健康診断で腹回り90センチ、メタボの基準値を5センチオーバーだった。この夏の暑さで明らかに運動不足でそんな結果になった。メタボの基準値、男性85センチ、女性90センチは医学界でも異論があるようだ。肥っていることがイコール、マイナスではないという考えもあるという。しかし、90センチは自分でも腹回りに脂肪が付き過ぎである。この秋に歩いて減らそうと思う。目標はもちろん85センチ以下である。

電車で島田駅まで行き、そこから歩き出した。今朝未明には雨音が聞こえていたが、天気は回復してきた。目標は吉田町の小山城である。

島田駅南口を出て、大井川の土手に向かった。足は軽やかで土手に出ると間もなく蓬莱橋がある。今日はこの橋は渡らずに、もう一つ下流にある島田大橋を渡ることにした。土手から階段で大橋に登る。大井川に出ると風が強くなり、帽子を飛ばされないように、ポケットに入れた。橋を渡りきって谷口の敬満神社に立寄った。境内は大木が鬱蒼と茂り、近在では有名な古社である。少し休憩して、谷口原から県道へ下って行った。

収穫の終った田圃にレタスの植え付けが始まっていた。レタスの苗を植えつける機械が動いて、スコン、スコンという音とともに4列ずつ(5列だったかもしれない)のレタスが植えつけられていく。小気味良い機械の動きであった。

県道島田吉田線に出て、その後は県道をひたすら歩いた。少しお遍路のときの歩きを思い出していた。道路は富士山靜岡空港の開港にともなって随分様変わりしている。新幹線のガードを潜り、初倉の街を歩く。この近くの動物病院に、その時間に女房がムサシのシャンプーに来ているはずであった。東名の吉田インターを過ぎて、蕎麦屋に入ってざるそばを食べた。

一度、少しの道路の段差に危うく捻挫をしかけた。大事にならずに済んだが、くわばら、くわばらである。そういえばお遍路では捻挫になりそうな状況は一度もなかった。山登りをしている頃は、捻挫が一番怖いから、足を踏みしめるような歩き方をしていた。だからリュックを背負うと自然とそういう歩き方になる。ところが今日は小さなザックに飲み物が入っているくらいで、荷が軽いと歩き方が散漫になり、足をぐらすようなことが起きる。

小山城へはあと1キロちょっと、すでに目標の15000歩に近付いていた。もう10キロ近く歩いているが、足はまだまだ疲れを感じていない。しかし、今日は小山城を見学してバスで帰ろうと思った。本日の歩数、19501歩。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ご近所のGさんの訃報

(これって桜だよね -ムサシの散歩道、季節はずれの桜)

朝、玄関にご近所の奥さんが来て女房と話す声で目が覚めた。入院していた近所のGさんが亡くなったと話している。年寄り夫婦だけの家で、病院通いをしている奥さんが大変だろうと過日女房が話していた。歳はもう90歳になったと聞くから大往生の方である。

カレンダーを見ると、明日が仏滅、明後日が大安だから、この辺りでお通夜、お葬式が行なわれるのであろう。この班は34軒もある、町内でも大きい班である。お葬式に夫婦で出ると50人を越える大人数になり、喪主にかえって迷惑をかける。そこである時期から班を4つのグループに分けて、お葬式はそのグループが手伝いに出るルールになった。Gさんは別のグループだから手伝いはない。金、土の2日は古文書講座に出る予定にしていたけれども、どちらか女房が出れば、片方だけは出られるだろうと考えていた。

夕方、手伝いのグループのOさんが来て、手伝いが3軒しかないので、手伝ってもらえないかという。班長さんには御願いして、後長の我が家に来たのだという。何とか片方だけでも古文書講座に出れないものかと、お話しを聞いた。香典帳の記入を出来る人がいないので御願いしたいという。香典は、昔はお葬式に受取るのが通例であったが、今はお通夜の方が多いのだという。どちらか片方というわけにはいかないようだ。古文書講座の方は両日とも欠席に決めて、承諾した。

香典帳への記入はボールペンでも良いのだが、細筆で書いた方が丁寧だとして、今でも筆書きにしている。その昔、今度亡くなったGさんが書く係りをしていたのを手伝ったのが縁で、お葬式の度にその役割が当然のように回ってくるようになった。Gさんは書きなれていて、達筆で書かれ、下手な自分の文字が恥ずかしい気もあったが、別に展示されるわけではないからと、度胸だけで我流の筆運びで書いた。もちろん楷書しか書けない。

Gさんの字を横から覗くと、くずし字の達筆で書かれていて、読めない人もいるだろうと思った。自分は読みやすく書くのだと、筆運びの無知を弁解していた。Gさんの字は随分薄くなっているから新しい筆ぺんをすすめると、お葬式の文字は薄く書くのが礼儀で、自分が使っているのは薄い文字用の筆ぺんだと教えられた。さらに自分の無知をさらしたことになった。

この後のお葬式で、Gさんは手が震えるからと、香典の記帳係りを降りられて、もっぱら自分に回って来るようになった。そのGさんのお葬式である。これも何かの縁だから下手くそながら、その役を勤めさせてもらおうと思った。だから両日ともに勤めさせていただくことにした。

下手な字で、こんなに濃く書いて、礼儀も知らないと、Gさんに苦笑いをされるかもしれないが。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

生還おめでとう

(最近の稲刈り後の田圃は昔と違う)

生還おめでとう。

遠い国の話はひとまず置いて、入院していたS氏が今日退院したと、彼のブログで知った。予定は知っていたが、何が起きるか判らないから、その日までは安心できないと思っていた。一ヶ月を越える入院で、入院期間がどんどん短くなっている今どきの病院では、かなり長期入院になっていると本人からも聞いていた。まず、一つのハードルを越えたことを祝いたい。

心配な部分はまだまだあるが、徐々に身体を慣らしていって欲しい。夕方、地域起しの「ツール・ド・安倍峠」という自転車競技(?)の話題が出ていた。Sさんも元気だったら出たかったかもしれないね、と女房。今年が第一回で毎年やるらしいから、また挑戦できるさ。

チリの銅鉱山の落盤事故で閉じ込められた33人の救出が始まった。お昼のニュースで最初の一名が救出される映像が流れていた。その映像に被せて、最初の一名救出のニュース速報のテロップが流れる。生還おめでとう。全世界のテレビ画面がその瞬間の映像を流しているのだろう。あたかも、月面着陸したアポロ11号に世界が釘付けになったように、世界中で多くの人々がテレビ画面に釘付けになったことであろう。

生還おめでとう。

救出に多くの人たちが群がった。彼らの力添えで、当初4ヶ月かかるといわれていた救出抗の掘削が半分の期間で出来た。2月の大地震での対応遅れから下落していたピニェラ大統領の支持率は一気に上がるであろう。

専門家は、生還者たちは閉所での2ヶ月の救助を待つ間に、大きな心の傷を負っていると話す。今は救出の喜びに高揚しているけれども、この後英雄のように迎えられ大騒ぎの後、お祭の後に大きな心的な揺り戻しが来る。そこを十分にケアしなければ、後遺症を引きずることになるという。

NASAが早い時点で協力を申し出たのは、人道的な発想からだけではなさそうである。33人という多数の一般人が、生還が困難な閉所で、2ヶ月という長期間閉じ込められた後、生還するということは、今だかってないことである。絶好の研究対象だと考えたことは言うまでもなかろう。

すでにこの救出劇の映画化が企画され、「33人」というタイトルも決っているという。これから33人に群がる取材陣、手記の出版の誘いも多いことであろう。英雄視する人々は皆思惑があることを知るべきである。

救出劇に隠れて、事故そのものの検証が忘れられてしまってはならない。銅の世界的な需要増による高騰で、安全設備を怠った中小鉱山が高給で作業員を集め操業しているという。今年に入ってから鉱山事故で30人を越す労災死が発生しているともいう。ピニェラ大統領の支持率が本物になるかどうかは、これらに対する対策の如何によるであろう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

子供たちが茶苗を植える

(茶の苗が植えられた隣の茶畑)

我が家の隣りの茶畑が改植を始めている。機械が入って古い茶園を潰し、整地をして準備が進んでいた。お茶の苗も敷地の道路際に挿し木をして育てられていた。昔と違って今はポットで苗を作るから根さえ付けばいつでも植え付けが出来るようになった。この夏、寒冷紗で強い日差しを避け、毎日しっかりと水遣りが行なわれ、この酷暑にも関わらずほとんどの苗が根付いたようである。

新しく植えられる苗は、近所のMさんが開発した「金谷いぶき」と「金谷ほまれ」という新品種である。早場茶産地の南九州にも負けない極早生品種で、やぶきたを越える窒素量で美味いお茶が出来るという。今、金谷を中心に改植の試みが始まっている。隣りの茶畑は金谷の茶問屋が資金を出して、その実験茶園として改植されるという。

植え付けは来年の早春だろうと思っていたが、縄張りの準備が進み、近くの小学生が体験実習として茶の苗を植えるといい、最終準備が進められたことはすでに書いた。

印が付けられた畝間を目で測ってみると、昔の茶園のように狭い。聞けば1.5メートルだという。乗用摘採機を使うなら1.8~2.0メートルの幅だから、狭くないかと管理を任されているMさんに聞くと、手摘みでやるからこの幅でよいのだと話す。これは本格的に美味しいお茶を作ろうと考えているのだと、隣の話ながら茶摘みが始まるのが楽しみになってきた。


(小学生が茶苗を植える-NHKローカルニュースより)

その苗の植え付けが今日午前中に行なわれた。自分は会社に出ていて直接見ることはなかったが、NHKのお昼のローカルニュースに、その様子が出ていた。小学生が一人10苗ずつ穴を掘って植えたのだという。近くの小学校で茶農家の子供も多いのだが、皆んな初めての体験だったようだ。背景に我が家も少し写っていた。

新しいことを実施するのに、マスコミを呼んで報道してもらうのはよくあることだが、手間でも子供たちに体験させるという仕掛けを施すことで、マスコミを動かし易くなる。この手の報道は注意してみれば意外とよく見る。常套手段であるとは思っても、それでテレビ報道してもらえるなら、仕掛けないわけにはいかない。その日、大きなニュースがあると吹っ飛んでしまうネタなのだが、今日、報道されたということは、平穏な日だったのであろう。

午後、自宅に帰って、まだ作業をしていたMさんにお昼のNHKニュースで見たよと声を掛けると、放映が早すぎて自分たちは見れなかったと話す。夕方にも再び報道されたからMさんも見られたと思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ 次ページ »