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藤田まことの死

(川面に春の陽-大代川)

藤田まことの死の報に接した。長く続いたドラマが終ったりして、何となくこういう日が来るのを予感していたが、惜しい役者をまた亡くしたと残念でならない。

大木が倒れれば、森にぽっかりと穴が空き、日当たりが良くなった若い木がいっせいに芽を出して成長し、その樹間はたちまち埋められていく。そのように森林更新は進む。だから芸能界は何も心配することはないのだろう。しかし、その大木に、生れて以来ずっと憩ってきた鳥たちは、明日からどこへ行けば良いのだろう。団塊の鳥たちはいささか数が多いときている。今さら若い鳥たちが憩っている樹木へ引越しなど出来ない相談で、ビデオなどで幻の木に憩うしかないのであろうか。

物心ついたときには、テレビの「てなもんや三度笠」がお茶の間を席巻していた。「あったりまえだのクラッカー」は刷り込まれて、今でも口を吐いて出て、その親父ギャグは古すぎると馬鹿にされる親父も少ないないだろう。藤田まことの死は、すなわち必殺シリーズの中村主水やはぐれ刑事の安浦刑事の死でもあり、三人同時に亡くしたような気分である。

最後の最後まで本人は復帰を目指していたというが、普通の人ならば、自分の好きなことをやって、静かな老後を過ごしている年齢にも関わらず、役者という職業は死ぬまで続けるものらしい。売れっ子であれば、芸能界は引くことを許してくれないのだろう。だから役者の死はいつでも“戦死”になってしまう。

藤田まことは一時、大きな借金があったという。売れっ子の役者が、役者だけやっていれば、そんな借金が出来ようはずがない。回りにおだてられて事業に手を出し、いいように汁を吸われて借金だけが残る。売れっ子には事業をやっている時間があるはずがないから、人任せにする結果である。

その借金を返すために身体を粉にして働かねばならない。そんな昔の女郎衆と変らない境遇に、幾人の売れっ子がはまり込んだことであろう。重ねた無理が役者人生を縮めているとしたら残念でならない。売れっ子たちに吸い付いたダニのような人種ばかりが蔓延っているとすれば、悲しい芸能界である。

売れっ子男優だけでも、渥美清、いかりや長介、緒形拳、森繁久弥、と鬼籍に入った人が挙げられる。丹波哲郎とかまだまだたくさんいたような気がする。歳を取ると、自分が慣れ親しんだ人たちが次々に消えていくということである。ある時、親父が長生きするのもいいが、知った人が亡くなっていって、年々寂しくなると話していた。そんな気持も少しずつ理解できる年齢になってきた。
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オリンピックと品格

(庭のクロッカスの蕾)

バンクーバー冬季五輪が始まって、スピードスケート男子500mで、ようやく、銀、銅のメダルを一つずつ取って、日本中がわいた。男子フィギアスケートも始まり、3人とも良い位置に付けている。女子カーリングもアメリカにミリ単位の差で勝ち、幸先のよい予選スタートとなった。

冬季五輪ではスノーボード、ハーフパイプの国母選手が、服装の乱れや言動に対してマスコミからオリンピック選手としての品格を問われ、協会から出場辞退の申し入れがあったり、大きな問題まで発展した。しかし自分の責任において出場させるという橋本聖子団長の決断で、騒ぎはいっぺんに収拾された。

話を聞いていると、国母選手のマスコミに対する対応が悪くて、服装の乱れや不真面目な言動が指摘され、それを協会が過剰反応して出場辞退問題にまで発展したように見える。ドーピングなどオリンピックのルールに反したとか、刑事事件を起こしたとかであれば、出場辞退もやむを得ない。国母選手はまだ大人になりきれていないだけなのだと思う。それだけ競技1本だったとも言える。

マスコミがどれだけ品格があるか知らないが、マスコミの前での服装や言動だけをとって、あれこれ言われたくない。とても品格があるとは思えないスポーツ取材記者に、あれこれ言う資格はないと思う。品格はマスコミが決めるわけでもないから、橋本団長の処置は当然のことで、大変立派だった。マスコミなどはメダルを取れば黙らせることができる。国母選手にはぜひがんばってもらいたい。

今から思うと、朝青龍問題も、相撲協会のトップに橋本団長ほどの断固たる決断力があれば、朝青龍を引退に追い込むことは無かったと思う。腹が立つのは、あれだけ糾弾したマスコミが、引退が決まった次の日に引退を惜しむような番組を平気で流していることである。引退することも無かったのではないかとさえ、口にした人もいた。マスコミとはその程度のもので、マスコミが品格を云々するような風潮は問題だと思う。

マスコミが世論を人質にとって権力を振るうようになったら、マスコミの顔色を窺いながら世の中が動くようになったら、とんでもないことになる。マスコミは世論を思い通りに操作だって出来るのだから、十分に自重しなければならない。

品格を言うならば、平気で嘘を言い包める権力者に対して物申すべきである。
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自費出版の見積を依頼する

(庭のヒイラギナンテンの花が咲く)

「四国お遍路曼荼羅」を自費出版すると決心して、今朝、O印刷さんを呼んで、最初の打診をした。原稿の量からして250ページほどで、白黒写真をカット代わりに40枚ほど入れ、箱は無く、表紙もハードにはしない。表紙にカラーのカバーを掛ける。部数は200部と300部の2種類、見積もってもらうことにした。

長年、会社の仕事で色々な印刷業者とお付き合いしてきたが、O印刷さんは最も信頼できる印刷屋だと思ってきた。印刷を頼むときに最も気を遣ったのは、デザインや見栄えなどではなく、内容がいかに正しいか、誤字・脱字など間違いがないかどうかという点であった。原稿から版下を作成するときに、当然文字の拾い間違いが発生するのは仕方がない。しかし、版下の校正をすべて顧客に任せて平気でいる印刷業者がけっこう多い。自ら原稿と版下をチェックして校正した上で、顧客の校正を頼む印刷業者は大変少ない。校正に回ってきた版下に赤ペンを入れながら、明らかな間違いの多さに腹を立てたことが一度やニ度ではない。

印刷業者にとって、あらかじめ自分で校正する作業は無駄な作業だと思うのだろう。どうせ客がやるから二度手間だと考える。しかし顧客は、原稿が活字になったときに、手書き原稿の時には感じなかった言い回しなどを、再チェックしたいのである。ところが明らかな間違いを直すのに気を取られて、再チェックが出来ないで、悔いを後に残すことになる。

また、校正する部分が多いと心配で、チェック個所について責任校正に任せられず、再校正を要求したくなったりする。再校正のときに言い回しが気になって内容を変え、印刷屋さんの顰蹙をかったこともある。それこそ双方にとって無駄手間になると思う。

O印刷さんは町の小さな印刷屋さんであるが、先代の頃から、自分で校正した後の版下が校正に回ってくるので、チェックにかかるところが大変少ない印刷屋さんであった。それどころか、原稿の間違いまで指摘してもらい、大いに助かったこともある。信用できると1回の校正で、後はお任せすることが多く、出来上がった印刷物を安心して受領できた。

印刷屋さんによっては、印刷物になった段階でとんでもない間違いに気付き、対処に苦労したことも一度や二度ではない。たとえ明らかな間違いであっても、校正したのは顧客だから印刷業者の責任ではないと嘯かれ、泣き寝入りをさせられたことも経験している。

もっとも、今度の自費出版では内容はテキストデータで渡すので、そういう校正の問題は発生しない。見積に3、4日かかるという。どのくらいに提示されるのか、楽しみである。
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「豊文堂日録」ことはじめ

(遠くの山は雪の豊岡)

この土日に故郷に帰っていたことは書いた。土曜日の夜、次兄と話していてブログを始めてみたいという思いを感じた。次兄は教職にあって、退任後も色々なところでお話しする機会があったが、今ではそういう話もめっきり無くなり、自分の思いを発する場所も無くなっていた。兄嫁さんはそんな思いがあるなら新聞でも投稿してみたらというのだが、改まってはなかなか出来にくいものである。それならブログがぴったりだ。1時間もあれば無料でブログを立ち上げることが出来るからと勧めるとその気になった。

日曜の朝、さっそく立ち上げ作業を一緒にやった。何とかスタート出来るまで作業して故郷を後にした。タイトルはどうするかと聞くと、「豊文堂日録」で良いという。どこか似たようなネーミングである。「豊文堂主人」が次兄の雅号である。「豊文堂」は戦前に親父とお袋が営んでいた本屋の名前である。このブログでも一度書いた

「豊文堂」は自分が生れたときはすでに廃業していたから、どんな日々だったのかは知らないが、日曜の朝、寝床で眠い耳に、長兄から語られた子供の頃の話に、その一端が知ることが出来た。

町一番の賑やかな通りに面した小さなお店で、両親と長兄以外に、ねえやさんが居て、二畳ほどの部屋に住んでいた。建物は借家で鉄筋コンクリート製で、一階が店舗、2階が住まいだった。両隣に長兄の同級生がおり、町には子供がたくさん居た。隣りが射的屋で、ネクタイ屋、かまぼこ屋、額縁屋、仏壇屋、散髪屋などが回りにあった。かまぼこ屋では朝早くからかまぼこを作る機械のガチャン、ガチャンの音が聞こえて来た。

親父はカバン製造の工場も経営していて、忙しい上に2度も召集を受け、一度は兵隊として、一度は兵隊を引率して中国へ行き、長期に家を空けた。家が回らなくて、長兄は長い間商業学校の校長をしていた伯父のうちへ預けられ、自宅と伯父の家を行き来していた。もっとたくさん聞いたのだが、眠い耳が聞き流してしまったようだ。

次兄のブログにもそのうち思い出話がたくさん出て来そうで楽しみである。次兄が校長をしていた7年間、ほぼ毎日父兄への学校通信「伝書鳩」を書き続けた経験を持ち、その対抗意識もあって「かさぶた日録」が継続出来ているとも言える。だから軌道に乗れば毎日続けて行くだろう事は想像できる。「豊文堂日録」が軌道に乗ったときには、「かさぶた日録」から飛べるようにして紹介したいと思っている。
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100歳のお祝い状

(100歳のお祝い状)

今朝、故郷にいた。お袋の100歳の「お祝い状」が、昨年の9月15日(老人の日)に内閣総理大臣名と県知事名でそれぞれ来ていて、見せてもらった。鳩山内閣が発足したのが9月16日だから、麻生太郎前総理大臣の最後の日の仕事であった。

今から思うと、麻生前総理大臣が懐かしい。漢字が読めないことはあっても、うそつきではなかったよなあ。ところで9月15日はいつから「老人の日」変ったのだっけ。確か昔は「敬老の日」と言わなかったかしん?

疑問に思ったら、そく調べるのがよい。早速ネットで調べると、たちまち疑問が解ける。元々は1954年に「としよりの日」が制定された。「としより」では酷かろうと、1964年に「敬老の日」に改められ、1966年には「敬老の日」が国民の祝日となった。

2003年、敬老の日を9月15日から9月の第3月曜日に移すにあたって、高齢者団体から反発が相次いだため、9月15日を「老人の日」、同日より1週間を「老人週間」とした。

それで国民の休日としての「敬老の日」は、この老人週間の内の一日になって、つじつまが合うわけである。国民の祝日としての「敬老の日」の呼び方はそのまま残っていることになる。9月15日は「老人の日」と呼ぶようになった。

知ってましたか。自分はてっきり団塊の世代がいっせいに年寄りになって、敬うに値しない老人が増えるから「敬」が外されたのかと思った。頭の良いお役人の考えそうな辻褄合わせで、事がややこしくなっている。このことをどれだけの国民が理解しているのだろう。

ともあれ、このお祝い状を貰えるまで生きてみたいものである。

午後、靜岡へ帰って来たが、途中の電車の中で眠くてたまらなかった。昨夜早く寝た長兄が、早朝に一町先の日蓮宗のお寺から聞こえてくる、ドンツクドンドンツクツク‥‥‥‥‥‥と続く朝のお勤め太鼓の音に目を覚ました。トイレに起きて寝なおそうと思った自分に、子供の頃の話を次々に話しかけて来るので、朝の貴重な睡眠が奪われてしまった。それはそれで懐かしい、自分の知らない話で良かったのだが、睡眠不足は否めない。

そういえば、故郷にいた時代、たまに朝早く目を覚ますと聞えてきた音だと思い出した。太鼓の低い音だけが地面を伝わるように聞こえてくる。


(豊岡駅の名物駅弁「かにずし」)

帰りに長兄の特急の指定席に合わせて、隣りの座席指定が取れたので、京都まで一緒に帰った。豊岡駅で長兄が駅弁を買ってくれた。たで川の「かにずし」は昔から有名である。新幹線に乗り換えてから頂いた。懐かしい味に舌鼓を打った。で、舌鼓ってどうやって打つのかなあ?
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円山川堤防嵩上げ工事

(宮津線円山川橋梁架替工事)

お袋の100歳の祝いもあって、ご機嫌うかがいに、伊勢の長兄と打ち合せて故郷に帰った。京都からJR山陰線を行く、特急城崎3号に乗るように打ち合わせていたが、長兄は指定席、自分は今朝切符を買おうとしたら指定席は満席で、自由席になりすれ違って、逢えたのは、結局豊岡駅に着いてからであった。

駅に迎えに来た次兄は、家に行く前に、変っていく豊岡の様子を見せたいようで、市内の北部を車で回ってくれた。

市内の大部分を水没させた2004年10月の台風23号の後、円山川の堤防を高くする工事が進んでいる現場を見せると話す。市街の北方の奈佐川が合流する辺りから少し上流の円山川の土手を車で走らせた。そこには北近畿タンゴ鉄道の宮津線が円山川を渡っている。その宮津線の円山川橋梁も堤防を高くするにともない架け替えになるといい、工事が進んでいた。辺りの景色が大きく変ってしまうから見せて置きたかったという。

円山川橋梁は国鉄時代の宮津線が出来た昭和4年(1929)に完成しているから、80年ぶりの架け替えである。

円山川はここから海まで落差がほとんど無い川で、実にゆったりと流れている。ダムの無い円山川の上流に降った大量の雨が海にはけ切れないで洪水を起こすのである。かつて円山川は豊岡で大きく蛇行していたために洪水を毎年のように起こしていた。大正11年~昭和9年に、円山川をまっすぐに付け替えられる工事が完成して、毎年の洪水は無くなったという。

ところが昭和34年(1959)の伊勢湾台風の時では、円山川の支流が決壊して、市内の大半が水没した。平成16年(2004)の洪水は円山川の本流の堤防が決壊したものであった。それで今回の堤防かさ上げ工事につながった。長兄がよく事業仕分けに引っかからなかったなあという。自民党政権時に決められていたからと大丈夫だったようだと次兄がいう。地方にとっては実際の洪水よりも、事業仕分けという洪水の方が怖いように聞こえた。

夕食の後、長兄、次兄ともに民主党政権について一大糾弾大会になり、とても自分が口を挟む余地のない状態になった。多分、日本全国津々浦々で起きている声なのだろう。もちろん、小沢・鳩山両氏に対する批判が大半である。知らなかったと言い続けるしかない総理大臣と、単に手続きの間違いで何らやましいことはないと居直る幹事長に、日本の国益がどんどん失われていく。国賊呼ばわりしそうな雰囲気であった。
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横書きを縦書きに変換する

(雨でもムサシは散歩に行く-止み間をぬって)

「四国お遍路曼荼羅」の原稿はワードでまとめてきた。当然横書きである。本にするには縦書きに変えなければならない。設定を変えるだけで変換は訳なく出来るが、数字やアルファベットをどう扱うかという問題が残る。アルファベットを使っているのはごくわずかで、km、m、kgくらいである。km、kgは「キロ」と表示し、mは「メートル」表示するように、文章をあらかじめ統一して書いていた。

問題は数字である。例えば、昭和55年11月22日をどう扱うか。みんなけっこう苦労しているようだ。このままで変換すると「55」の5と5が2文字になって見苦しくなる。だから漢字に変えると昭和五十五年十一月二十二日と昭和五五年一一月二二日の表示方法に分かれる。これは前者に統一することにした。西暦はどうだろう。2009年はニ千九年と二〇〇九年だから、これは勿論後者だろう。年齢はどうしよう。63歳は六十三歳と六三歳、これは前者にしたい。国道51号線は国道五一号線にする、88番札所は八八番札所にするなど細かく決め事をして1日かけて変換をした。

カッコ記号の中にも横から縦に変換される記号と、されない記号のあることが判った。<>や-の記号は縦に変えても変換しない。使用している部分があって直しに時間が掛かった。

歳のせいだといわれそうだが、横書きを縦書きに変えてみると、グッと読みやすくなった。自分が読む本の99%は縦書きだから、縦書きの文章の方が頭に入って来やすい。横書きの時には気付かなかった、ぎこちない言い回し、論理矛盾、不適切な用語などがよく判る。だから、縦書き文でもう一度読みながらチェックする必要があると思った。

現在、会社で出される文書はほとんど横書きである。ひょっとして、横書きにしていたから、なかなかしっかり読もうという気にならず、拾い読みして判ったような顔をしていたのでは無かったか。会議資料も縦書きに変えれば、会議がもっとスムースに進んでいたのかもしれない。いまとなっては試してみることも出来ないが、そんな想像を膨らませた。

目は横についているから横書きの方が生理に合っているという人もいる。しかし横書きの文章を読む場合、横に付いた二つの目は前後になって同じ行を追っているに過ぎない。ところが縦書きの文章を読むときは一方が文章を追いながら、もう一つの目はその文章の前後の行を見ているから、全体を理解することが出来やすいのではないだろうか。この話には確証はないから、自分の感覚だけの話である。
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小学校の同窓会通知他

(第九番 番外札所 文珠院)

中学校の同窓会通知に続いて、小学校の同窓会通知が来た。こちらは4月で、3月・4月と連続して帰郷するのは少し辛い。どちらを選ぶかとなると、やはり小学校の同窓会である。こちらは二、三年に1回続けているから、今浦島にはならない。

六年A組が我等のクラスで、今も恩師のN先生ご夫妻が健在でおられるのは嬉しい限りである。そしてクラス会にはご夫妻で出席していただける。

場所は但馬の湯村温泉である。湯村温泉は「夢千代日記」の舞台になった温泉として知られているが、源泉荒湯には98℃のお湯が自噴している。歴史の有る温泉である。これも魅力的である。こちらへ出席しようと思った。

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立松和平氏が亡くなった。それほど熱心な読者ではなかったけれども、有る意味団塊の世代の代表として、言動に注目していたところがあった。立松氏は最近仏教に興味を持って、仏教に関係する本も出していて、自分も読んだことがある。自分の感覚だけの話で、根拠があるわけではないが、日本人は人生の終末に当って、仏教に還っていくように思う。「最近仏教に興味を持っている」と話していて、間もなく死んでいった人を何人か知っている。

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自分における仏教は現時点ではお遍路である。「四国お遍路曼荼羅」とタイトルが先に決まった、我が歩き遍路の記録が、400字詰原稿用紙に換算して350枚ほど、本文は今日ほぼ書き終えた。まだ直し足らない気もするが、自費出版の作業に入ろうかと思っている。その前に、先ほど原稿が横書きになっているから、縦書きに替えてみたところ、数字など縦では具合が悪いところがたくさん出て来た。縦書きに変えるのに、また数日を要するようだ。

お遍路から帰ってから2ヶ月と少々、まだ足に歩いた影響が残る時点で原稿が出来てしまうのは我ながら早いと思う。ブログで同時進行していたから、それをメインにまとめてられた結果である。6月に自分の64歳の誕生日が来るからそれまでには本にしたいと思っている。

自分のお遍路はこれで終わりにはならないような気がする。今、おぼろげながら見えている姿は、四国八十八ヶ所プラス番外札所二十ヶ所、合せて百八ヶ所の通しの歩き遍路である。それを50日で巡りたい。実現がいつになるかは分からないが、まずは口に出すことで物事が始まる。
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小笠山溜池敷訴訟済口証文

(散歩の途中で-ヒマラヤユキノシタ)

掛川の古文書入門講座に出席した。本日の教材は小笠山溜池敷訴訟の済口証文である。以下に読み下した分を記す。

差し上げ申す済口証文の事
(中略)
出入り双方とくと懸け合い及び候ところ、訴訟方申し立て候、惣名、小笠山の内字奥山田溜池敷が田地に相成り、高請地に相成り候由にて、古損地帳を証拠として差し出し候えども、宝永三年の頃より作付け致し候由の申し立て候えば、延宝度の損地帳に字古池敷とこれ有り候。高請地が今般相争い候溜池敷の場所とは相決め難く、併せて貞享度の御裁許後絵図面に御書き載せこれ有り候溜池は訴訟方進退(しだい)の由、双方申し口も符合致し候上は、右溜池敷きへ追々試作いたし候有り形の分は、是までの通り訴訟方進退と心得、高受等の義は追ってその筋の御差図に任せ■り。尤も御料、私領七ヶ村入会秣(まぐさ)場にこれ有る処、私領子隣村の者ども池敷の続きへ猥り試作等いたし候始末、恐れ入り奉り候。相手桶田村蓑次こと名主与惣左衛門其の外の者ども儀、右躰の義致し候はばその筋へ申し立て取り計らうべきの処、右場所へ罷り越し子隣村にて作付致し置き候試作の場所、理不尽に掻き散し、直ぐさま南沢新溜井堤其の外入樋等打ち毀し候始末、相手の者ども御察当の処、恐れ入り奉り、この上訴え等請け奉り御吟味候いては一言申し上ぐべき様これ無く恐れ入り奉り候。然る上は右溜池敷試作いたし候場所と掻き散じ候場所、立会の上、境い杭打ち建て置き、向後争論これ無き様仕るべく候。以来入会山内へ切添え、切開き並び溜池の場所に上置き等致さじ義は勿論、すべて新規の儀は仕らず筈取り決め、去る貞享度、仰せ渡され候御裁許御絵図面の通り、一同堅く相守り申すべき定めにて、右出入り双方申し分無く熟談内済仕り偏に御威光と有り難き仕合せに存じ奉り候。然る上は右一件に付き重ねて御願がましき義、毛頭御座無く候。これに依り訴答連印済口証文差し上げ申す処件の如し。


※ 済口証文 - 和解文書
※ 出入り - 訴訟
※ 高請地 - 石高が計算された土地
※ 損地帳 - 水害などで失われた耕地を補充した内容を記した文書(?)
※ 進退(しだい)- 自由にすること
※ 有り形(ありかた)- 現にあるすがた
※ 御察当 - 非難、抗議
※ 向後 - 今後
※ 訴答 - 現代で言うならば、原告と被告


各村の入会地のまぐさ場を原告側が永年にわたり溜池を作り、埋まってきた土地を田地に変えているという不満から、被告側が大挙して溜池や田地を壊した。この訴訟は直接は溜池や田地を壊した事への訴えだが、溜池や田地の正統性が争われる裁判となった。

判決は両者和解ということで決着した。中略の部分に両者の言い分が記されているらしい。長い年月の間に、出来た田地が検地されて石高の計算に入っている部分もあったりして、なかなか一方勝訴の判決が出せずに、和解に持ち込まれたものである。ここまで争った訴訟は当時としては珍しいものだったのだろう。
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デコポンが青物野菜に変る

(規格外の格安デコポン)

女房が農家の友人から規格外の格安のデコポンを分けてもらった。甘くて大好評であった。規格品はマーケットで見るとけっこういい値が付いている。日曜日に、いつもお野菜などを頂く名古屋の娘婿の実家、島田のOさん宅へ届けた。

ご夫婦ともに在宅で、家の前の菜園に出て、野菜作りの話題に花が咲いた。それほど広くない菜園にチンゲン菜、小松菜、正月菜、京菜(水菜)、ブロッコリー、ホウレン草、大根、キャベツ、白菜などが少しずつ植えられている。ジャガイモを植えつける畝がすでに準備できている。暖かくなり次第植えつけるのであろう。Oさんは農家ではないが、大変熱心で、菜園には草1本生えていない。

Oさんの野菜作りは徹底していて、種をメーカーから直接取り寄せて、すべて種から育てている。種を蒔くとびっしり芽が出てくるから抜き菜をして食べながら、苗を別のところに植えていく。大きいものは食べて、小さい苗を植えていくと、順番に大きくなって、長い期間食べられる。農薬を全く使わず、虫が付けば一匹ずつ摘み取って排除する。化学肥料は使わずに、すべて堆肥を作って使用している。藁や籾殻を知り合いの農家から手に入れて、ふんだんに畑に入れている。畑土はいつも柔らかく、出来上がった野菜は虫食いもあるが、全般に甘くて美味しい。マーケットの野菜と比べれば歴然である。

前はお花をたくさん作っていて、我が家にもたくさん頂いて、今でもその子孫が花を咲かせる。孫が出来てから(自分の孫でもあるかなくん)、少しでも安全、安心、新鮮で美味しい野菜を食べさせたいと、野菜作りに熱心になった。度々、名古屋へ宅配便で送っていると聞く。その余分に出来たものが我が家にも届くわけである。


(Oさんの野菜畑-正月菜)

ご夫婦して家に持たせるために収穫をし始めた。奥さんが抜こうとすると、根を残さないように移植ごてを使って収穫するように注意している。根を残すと後が良くないらしい。ブロッコリーは一本の苗から大きな花芽部分が一つ取れて、それで終わりかと思ったら、そのまま置くと背が高くなり、次々に小さな花芽を付ける。商品価値はないが、茎の部分も含めて本当はその花芽の方が美味しいのだという。

頂いたものがレジ袋に4つほど、チンゲン菜、小松菜、正月菜、京菜、ブロッコリーの小さい芽、大根、白菜と当分野菜には困らないほど頂いて帰った。わずかなデコポンが物々交換でそんなにたくさんの野菜に化けた結果になった。

今日の夕方、裏の畑を覗くと、頂いた野菜の一部が耕しかけてある畑に植わっていた。女房はたくさん頂いて保存するために畑に植えたのだという。
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