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故郷からの帰り道で

(故郷の饅頭「鴻乃鳥巣ごもり」)

今夜は名古屋の娘夫婦の家で書き込んでいる。ここでも無線ランに乗ることが出来た。みんなが寝静まらないと、なかなか書くことに集中しない。今日も結局12時を回ることになるであろう。


(出石名物「皿そば」)

長兄夫婦が朝伊勢に帰って行ったのを見送って、昼近くになって、我々も故郷を経ち帰路についた。長兄夫婦がいつか土産にもらっておいしかったといって、「鴻乃鳥巣ごもり」というお菓子を今朝買って帰ると言っていた。どんなお菓子なのか一つ買って食べてみようと、お店に寄って買ってきた。出石では皿そばを食べた。いつもは素通りのところ、たまたま今日は食事時になったので、「仙石」というそば屋に入った。ちなみに仙石さんは出石藩の殿様の名前である。朝食後まだ時間が経っていないこともあって、皿そばが5枚付いた「仙石そば 850円」で十分満腹感があった。出石名物「皿そば」だが、まあ期待を裏切ることはなかった。

今日は平日で高速道路どこまで乗っても1000円というわけには行かないので、高速に乗る距離を縮めて、京都回りで帰った。いつものように京丹波町の道の駅マークスでトイレ休憩。女房がエレキバンを買っている間に、駄菓子店でお徳用おかき詰め合わせを買った。財布が小銭で膨らんでいたので、575円の代金を小銭で払おうと数えたが、570円までカウンターに並べたが、5円玉がない。「5円(ご縁)がありませんでした」と10円を乗せた。店員はレシートに5円玉を乗せて「お釣り5円です」と返してよこした。「あっ、これでご縁(5円)が出来ました」と言葉を残し、反応を見ることなく店を出た。ちょっとアクセントを「ご縁」に合わせて言ってみたが、このオヤジギャグは店員さんに通じただろうか。

京都縦貫自動車道に乗る。いつもだと500円を2回、都合1000円払うところが、ETCの表示で割引料金350円×2回で3割引になっていた。さらに京都を抜けて、いつもなら京都南ICで名神高速に乗るところ、京都を横断して京都東ICから乗った。100km以内の通勤時割引を効かそうと、一度、竜王ICで下りた。表示された料金が割引で700円であった。何の割引なのかと不思議であったが、夕方5時を回って下りた名神の一宮ICでは予定通り、2550円のところ、割り引かれて1300円になった。ここまで〆て2700円の高速料金で名古屋まで来れた。

今夜は名古屋の娘夫婦の家に泊めてもらう。静岡まで通して運転するよりも、身体がずいぶん楽である。明日はゴーギャン展を見て帰ろうと思う。
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親父の13回忌

(故郷のお寺の祭壇)

朝、伊勢の兄夫婦と一緒に9時半にホテルを出て、実家へ行く。自宅で親父の13回忌の法要があった。今回は身内だけの法要で兄弟夫婦3組合わせて6人、実家の子供たち5夫婦中7人出席、その子供が9人、以上22名が集まった。

住職が来て、お経が始まった。はじめに法事の次第に従った、お経の解説書をみんなに配り、その通り進めるから少し長くなる。その分お経が早くなるが、解説書を見ながら聞くようにと断って始まった。浄土宗は南無阿弥陀仏の念仏で始まり、念仏で終わる。途中、阿弥陀経に入ると、木を入れて調子を取りながら、お経が飛ぶように流れていく。こんなにスピードの早いお経ははじめて聞く。孫たちもこの迫力に騒ぐことも無く、たちまち回し焼香も終わり、自宅での法事は無事に終わった。

その後はお寺に行って本堂に上がりお経と焼香をした。市内で4番目の大寺で、本堂も祭壇も大変立派である。住職にご本尊は阿弥陀様かと聞くと浄土宗のご本尊はほとんどが阿弥陀様だという。他に浄土真宗や時宗も阿弥陀様だと説明してくれた。祭壇は大変きらびやかであった。

焼香のあと、焼香の作法について説明があった。作法は宗派によって少しずつ違うが、宗派が話し合って、他宗派のお葬式で焼香をするような場合でも、宗派それぞれの作法で焼香すると決められた。焼香の作法で焼香者が属する宗派がわかるといったことがあってよいということになった。浄土宗は焼香は一回、右手でつまみ上を向けて左手の手のひらを下から添えて戴き、火の上に落とすという作法を実演付きで説明してくれた。浄土真宗のように香を戴かないでそのまま火の上に落としたり、焼香を三回行ったりする宗派もあるようだ。

さらにお墓に参り、本堂横の和室で精進落しを行った。その席で話し好きの住職から、いろいろな話を聞いた。かつて小寺では住職だけでは生活できないため、教師などを兼職しているケースが多かった。ところが最近は兼職が難しくなった。学校側からはそのような教師を問題視し始めるし、檀家からも兼職を嫌がることが多くなった。その結果、小寺に住職がいなくて他の寺の住職が兼ねるケースも増えている。最近は一地域の複数の小寺がお互いに話し合い、その地域で出たお葬式には宗派を越えてその地域の住職が皆んなで出て取り行うようなことが始まった。相互扶助の盟約である。その代わり違う宗派のお経も読めるようにならないといけない。最近はお経もそろって来たという。兼職無しに暮らしを立てるためには最低でも200軒の檀家が必要であるが、ここのお寺は檀家が500軒あるという。
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帰郷、高速料金千円の現実

(大人数の故郷でハンバーグの山)

明日、故郷で親父の13回忌があるため、今朝10時に女房と自宅を車で出発した。今は豊岡の駅近くのビジネスホテルでこれを書き込んでいる。ここでもネットが使えることは夕方チェックインしたとき確認した。

今日は土曜日、「高速道路、どこまで走っても1000円」を実感することが出来る。実際のところどんな風に割引になるのか興味津々である。途中、名古屋の上の娘の家に寄る。夫君の在所からお父上が育てられた花の苗を頼まれたのが直接的な理由であるが、なに、本心は孫のかなくんの顔をみたいだけである。

かなくんは名古屋に帰ってますます成長した。2ヶ月そこそこで体重が倍近くになっている。明らかに頬がぷっくり丸くなった。自分の顔を見たあと、興味なさそうに目をつぶってしまった。眠いんだと娘は言ったが、時々薄目を開けてうかがっている。気にはなっているようだ。しばらくぶりだから忘れてしまったのか。抱いてやると、今度は大きな目で覗き込んで、視線を外さない。

上の娘の家には30分ほどしかいなかった。名古屋までの高速代が1250円、この250円分は名古屋ICから、楠ICまでの東名阪自動車道の料金のようだ。いま一つ、料金のルールが理解できない。確か、ソフトを変更に6月までかかり、その間不便を掛けると報道されたが、これもそのひとつなのだろうか。

さらに名神高速道路の小牧ICから乗り、名神、中国縦貫道と乗継いで、吉川JCTから近畿道の舞鶴道に入り、春日ICから北近畿豊岡自動車道で和田山まで走った。ここまでの高速代金は1400円、これも北近畿豊岡自動車道分が別料金に加算されていて、どこまで走っても1000円に例外があるようだ。

小一万円掛かる高速料金が一度途中下車したこともあったが、都合2650円で済んだわけで、夢のような話である。帰りは平日になるから、この特典には当てはまらない。かえって高速料金を高く感じてしまうことになるだろう。それでも、気にしていた渋滞も、岡崎あたりで数キロみられただけであった。5時半には豊岡に着いたから、7時間半しか掛かっていない。文句のないところである。

ただ、ラジオを聞いていると、通り過ぎた直後の名神の茨木あたりで事故が発生したと言っていたし、舞鶴道でもサイレンを鳴らしてユニック付きの事故処理車が追い抜いて行ったと思ったら、春日ICで北近畿豊岡自動車道へ移ろうとしていると、事故処理車が3台ほど春日インターでUターンして、上り線に入って走っていった。これもラジオによると、自分が通った直後の反対車線でトレーラーが横転する大事故が起きていた。7時間半というのはそれらの事故の影響を危うく免れてきた結果であった。

夜は故郷で夕食をよばれる。子供たちも帰っていて、大人数で、作ったハンバーグが山盛りになっていたのには驚かされた。
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丸子富士から朝鮮岩へ


(朝鮮岩からの眺望)

(昨日の続き)
12時40分、満観峰山頂に到着。着いても食べる昼飯はない。ベニフウキのお茶を飲んで、休憩舎で身支度をしているおじさんに声を掛けた。(ちなみに自分がおじさんと呼ぶ人には元気の良いおじいさんも含んでいる)

おじさんは焼津の住人で、花沢の里に車を止めてきたという。日本坂峠から登って来たが、この後、高草山の方に足を伸ばそうかと考えている。この山地にはルートのバリエーションが色々あって楽しめる。ハイキング地図に載っていない道も幾つもある。自分はもっぱらこの山で山歩きを楽しんでいる。などと問わず語りに話す。一つ重要な情報をもらった。花沢山から向こうに尾根伝いの山道が続いて、かんぽの宿まで行けるという。その道は使えそうだと思った。かんぽの宿の温泉に入れてもらい、焼津駅まで帰るというコースが浮かんだ。

この先の丸子富士から朝鮮岩の様子を聞くと、ピストンして来るのは大変だが、向こうへ下るならいいだろう。二時間くらい掛かるだろうかと聞くと、そんなには掛からないと少し歯切れが悪い。あまりそちらへ足を延したことが無いのだろうと思った。

丸子富士は名の通りの斜面の登りが待っていた。山頂への登り下りをパスする迂回路も山腹に通じていた。丸子富士山頂には「金光山蔵王権現」の石碑も建っており、金光山と呼ばれることもあるようだ。

高々標高400メートル足らずの山と侮るなかれ、丸子富士から先にこの日最大の難所が待っていた。谷底まで下ったと思うと、急登が待っているといった繰り返しが続いて、足ががくがくになった。そんな中でも一句浮かんだ。

   急登の 先に木漏れ日 シャガの花

見ただけを詠んだ句で、つまんないとは思うが、ウォーミングアップである。

朝鮮岩は絶好の見晴台で靜岡の市街地から大浜海岸、そして用宗港まで隠すところなく見張らせた。空気が澄んでおれば、その中央に富士山の雄姿も見えたはずである。

朝鮮岩の語源について、「新丸子路考」では、昔、唐に留学した安倍仲麻呂のことを唐名で晁卿と呼んだのにちなんで、文人たちの間で、安倍川を晁水、安倍川の堤を晁堤、駿府を晁陽などと呼んだことがあり、朝鮮岩は安倍川の西にあって目立った大岩の意味で、「晁西(ちょうせい)岩」と呼んでいたのが、一般に伝わって、「ちょうせいいわ」→「ちょうせんいわ」→「朝鮮岩」と変化したとする説が述べられている。

朝鮮岩からは一気の下りとなって、丸子の井尻という集落に出て、それより丸子川に沿って、16時に安倍川駅まで出た。さらに金谷駅から自宅まで歩いた。山道で歩数が増えず、そこまで歩いてやっと33,094歩となった。結局、食事にありついたのは自宅に帰ってからであった。
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日本坂峠から満観峰へ

(満観峰山頂-右手下に丸子富士が見える)

前回は焼津駅で終えたからというわけではないが、今日は焼津駅から歩くことにした。焼津駅に9時37分着、駅北へ出て山の方へ歩き始めた。道は瀬戸川の土手にぶつかった。土手下の緑地整備をしていたおじさんに花沢の里への道を聞いた。

歩いていて、物を尋ねたり、話しかける相手に、きまって自分と同年輩かあるいは年上のおじさんを選んでいることに最近気付いた。大半は道を聞くのが目的で、その点男性の方が適確に教えてくれるのを経験的に感じている。また自分より若い人を避けるのは、彼らはまだ現役で、仕事の最中のことが多く、仕事の手を休めてまでしては申し訳ない気持ちがあるからだ。その点、我々より年齢が上ならば、時間と経験をたっぷり持っている。今日も4人ほどに話しかけたが、皆んな丁寧に教えてくれた。声を掛けて拒否されたり、無視されたり、邪険に扱われたことは記憶に無い。

おじさんは土手の上まで登ってきて丁寧に教えてくれた。その通りにビール会社脇の川岸の道を進み、まっすぐ山のそばまで歩いて、東海道新幹線、国道150号線バイパス、東名高速道路を一束にガードで潜ったら、今まで何度か来た自分の記憶とつながった。

花沢の里まで来て、重大なことに気付いた。駅でおにぎりでも買って行くつもりが、お店の無い駅北に出てしまい、食料のことをすっかり忘れて来てしまった。花沢の里にも無人販売や喫茶店もあったと思ったが、平日で営業していなかった。無人販売で置かれていたのは筍だけであった。幸い飲み水はペットボトル2本にベニフウキを入れてきているから一日もつだろう。昼飯は下山まで我慢するしかないと思った。今日は鞍掛峠経由ではなくて、日本坂峠に登って尾根伝いに、満観峰、丸子富士、朝鮮岩と山道をたどって丸子へ下ろうと考えていた。

日本坂峠へは急斜面のジグザグの道が続いた。峠に出ると山道の十字路になっていた。越して下る道は小坂へ降りて用宗駅に通じる。かつてたどったことがある。降りてから用宗駅まで距離が長くて懲りた。右手に登っていくと30分ほどで花沢山へ登る。花沢山へも一度行ってみたいと思ったが、ピストンで1時間近くロスするのは、食料無しでは辛い。左手に登る道が満観峰に通じる尾根道である。

満観峰まで尾根道は想像していたよりも時間が掛かった。前歩いたときはそんな大変だった印象はなかった。もっとも満観峰からの下りで歩いたのであった。途中で3人ほど下ってくる登山者に会った。山頂にも3人登山者が休んでいた。その6人揃って自分より年配のおじさん達であった。こんな平日に山に登って来れるのは限られた人達なのだろう。満観峰山頂は標高403メートル、靜岡市街地方面が少しもやって見えた。この日、靜岡市街地では最高気温28度を記録したとあとで聞いた。山の上は風があって歩みを止めれば汗が引く。(明日へ続く)
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ふくらはぎに筋肉が付く

(庭のオダマキソウ-天を向くオダマキソウを初めてみた)

およそ一年ほど、しいて歩くことをしなかった。ある日、お風呂で自分の足を見て驚いた。筋肉が目に見えて減り、本当の年寄りの足を見るようであった。これではいけないと、この半月ほどで6回、はじめは足慣らしに半日、後半は一日歩く “超散歩” を始めた。本当は毎日1時間ほど散歩を続ければよいのだが、同じところを繰り返して散歩するのは性に合わない。それで始めたのが “超散歩” である。時間が取れた日に、まとめて何時間か歩く。足の向くままに、行ける所まで歩いていってしまう。あまりしっかりとした計画を決めない歩きで “超散歩” と名付けた。

6回分の “超散歩” を整理してみると、
  3月26日 自宅から島田駅まで、金谷駅から自宅。4時間 16km
  3月27日 自宅から原を越えて菊川駅まで、4時間 16km
  3月29日 大井川鉄道神尾駅から神尾山へ登り、自宅まで、4時間 16km
  4月 2日 自宅から柏原、千葉山を経て島田駅まで、7時間半 30km
  4月 9日 自宅から岳山、粟ヶ岳を経て掛川駅まで、7時間 28km
  4月11日 自宅から焼津駅まで、6時間 24km

これは来るべきお遍路の足慣らしでもある。徐々に歩く量を増やしてきたため、足を全く傷めることなく歩けた。豆一つ作らなかった。これは大きな自信になった。

今夜風呂で再び自分の足を見ると、何とふくらはぎに目に見えて筋肉が付いたのが判った。同じように腿にも、目で見てはっきり判らないが、筋肉が付いているはずである。人の筋肉は使わないとやせ細っていくのは早い。反対に少し使えば筋肉が付くのも早い。昔山登りをしていた頃、二週間に1回位山に登っておれば筋肉は衰えないと聞いたことがある。

この6回で、お遍路に出た時に歩きがどんな風になるのか、おおよそ想像できた。最初は無理をしないで、徐々に歩く距離を延していくと、どんな案内書にも書いてある。つまり、その間に足の筋肉も歩くための装備を整えていくのだと思う。歩くことが少なかった都会の人も、そんな風に歩き始めれば、歩きとおすだけの足の準備が出来るのであろう。それが実感として理解できた6回の “超散歩” であった。

心配は次の日曜日、故郷で行われる親父の13回忌の法事である。昔、山登りをしていたころ、正座をするとふくらはぎの筋肉がつかえて、何とも座りにくい思いをしたことがある。いま正座をしてみたが、足の筋肉が痩せていた頃に比べて、ややつかえるけれども、正座がしにくいほどでもない。これなら問題ないだろう。ということはまだ鍛え方が少ないということなのだろう。
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まーくんは福の神

(花見の宴のあと-近所のお花見ポイントも、今日の雨で花もすっかり流されただろう)

久し振りに、篠突く雨が降った。桜を散らし、物皆な緑に染める恵みの雨である。会社の窓から見ると脇の田んぼに水が入った。田の掻き均しが終ると、田植えである。かつては田植えは一番茶の作業の後に行われることが多かった。最近は温暖化の進んだこともあるのか、一番茶の前に済ませてしまう田んぼが増えてきた。早稲品種のコシヒカリは腰が弱いので、強い風が吹くと倒れてしまう。早く植えて、台風などの被害を受けないうちに収穫してしまおうという考えであろうか。作るのは少し大変だが、商品価値としてはコシヒカリの方が高い。

先週の話である。朝寝を決め込んでいると、女房が声を掛けて目医者に行ってくるという。左目にゴミが入って目が開けられないほど痛くてたまらない。これではムサシの散歩にも行けないから、目医者に行ってくるという。出掛けに玄関を開けたところ、まーくんの母子とばったりあった。「あら、いらっしゃい。まーくん、おはよう!おいで!」女房はいつものようにまーくんを抱き取った。一緒に家に入りながら、自分はいまどこへ行くのだったかと考えた。そうだ、目医者だったと思い出すが、肝心の目がけろっと治ってしまった。目をパチパチしても痛くない。「あれ、治ってしまった。まーくんはお医者さんみたいだ。」女房はそのまま目医者に行くのを止めてしまった。

あとで、女房は不思議だ、不思議だ、としきりに話す。まーくんは福の神だという。まーくんが生まれて我が家には良いことが続いた。まーくんの元気な成長は別にしても、まーくんに触発されるように8年間子供が無かった名古屋の上の娘夫婦に子供が出来た。まーくんに8ヶ月遅れのかなくんの誕生である。まーくんがかなくんを連れて来たというのが、我が家の定説となった。

息子は勤めていたソフト会社を退職して、職安通いをしていた。職探しには最も悪い時代だと、本人も長期戦を覚悟していたようであった。かなくんが我が家で育ち、家内中大わらわになっている間は、名古屋への送り迎えなど、職探し中ゆえに大いに役に立ってくれた。かなくんも、お宮参りを済ませ、母子して名古屋に帰って行った。その直後に息子の職が希望のソフト会社に決まり、4月から出勤し始めた。計ったような絶妙のタイミングである。女房はこれもまーくんのもたらした福だという。

二人の孫たちが生まれてきてくれただけで、我が家とそれぞれ夫君の実家の合わせて三つの家族に大きな福をもたらしてくれた。このごろ、二軒の夫君の実家で、二人の孫を通じて、親しい親戚付き合いが始まっている。子供の少ない現代、気にせずにごちゃ混ぜで付き合っていければいい。

夕方、まーくんのデジカメ写真を整理していた。まーくんの母親が女房のカメラで撮った、少し前のまーくんの顔だけの写真が何枚もあった。うすい頭の毛が頭頂に集まって尖がり、目を大きくしたら、まるでキューピイ人形だ。すこしとぼけた表情が笑いを誘う。やっぱり福の神か。
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焼津ラフカディオ・ハーン散歩

(明治石造り防潮堤-再現)

一昨日、歩き足りないと、新焼津漁港の方へ出てみた。焼津は何度か歩いているから目新しいことも無いだろうと思っていたところ、防潮堤の内側に、写真のような石垣が積まれた物見台のようなものがあった。鰯ヶ島という地区である。公園と防潮堤内側道路の間にその台を見つけたとき、津波警報で逃げ遅れた人のための避難所かと思った。ぽつんとあって、あまりあんなところには逃げたくないなと思って見ていた。

近寄ってみると、案内板に「明治石造り防潮堤」とあった。明治32年から40年までに、高さ7~8メートル、上部幅3.5メートル、総延長1,048メートルの、石造りの大堤防が作られ、以後100年の間、焼津の町を津波などから守ってきた。昭和62年から平成7年にかけて、明治の堤防の外側に新堤防が築かれ、その外側には新焼津漁港が埋立造成され、沖合いには防波堤も築かれた。明治の堤防は平成12年、役割を終えて撤去された。その石材を使って再現したのが、写真の構築物だという。

昔、静岡県の海岸歩きで、焼津の防潮堤沿いに歩いたとき、上に登って、新旧二つの防潮堤が並んでいるのを見たことがある。あの内側のやや低く貧弱に見えた方が取り壊されたのである。

「明治石造り防潮堤」に上がってみた。そこからは焼津の海と新漁港が見えた。旧防潮堤上にあった昭和天皇行幸記念碑がそこへ移されていた。昭和5年、29歳の青年天皇も、旧防波堤の上に登って焼津の海を眺められたのであろう。

それより、一すじ町側に入った通りは「八雲通り」と呼ばれている。鰹のなまり節など、海産物の加工品を売る老舗が何軒か並んでいた。門口に「小泉八雲滞在の家跡」という石碑が建っている民家があった。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は明治32年、33年、34年、35年、37年と、それぞれ夏を焼津の山口乙吉宅で過ごしている。当時の乙吉宅は現在は明治村に移築再現されている。

焼津の小泉八雲記念館でも気付いたことだが、明治の防潮堤が出来たのは明治32年から40年まで。ハーンの滞在とぴったり重なっている。ハーンの目には、年々、防潮堤が築かれていく様子が映っていたはずである。ハーンの作品にその防潮堤に触れたものがあってもよいと思うが、まだ自分は目にしていない。


(「小泉八雲先生諷詠の地」碑)

「八雲通り」の東の入口近くに、「小泉八雲先生諷詠の地」碑が建っている。その前に手押し車を押した老婆がきて、碑の前の花差に数輪の赤い花を差していた。老婆にとっては、この碑が小泉八雲のお墓のつもりなのだろうか。このように焼津では小泉八雲はいまでも大切な「まれびと(客人)」なのである。
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歩きながら考えること

(桜の並木にコースを取り)

歩きながら、何を考えているのですか。きっと、色々考えているんでしょうね。一日6時間も7時間も歩くと聞いて、疑問を発せられることがある。

歩く時によって考えることは違う。昨日最も考えていたことは、この道が焼津への最短距離だろうかという、コース取りのことである。高草山を目でとらえ、道の進む方向を予想し、角を曲がろうか判断する。さくらの並木が見えればそこにコース取りをするし、川沿いの気持ち良さそうな散歩道を発見すると、とにかくそこを歩いてみる。小さなお堂があれば立寄らねばならないし、立て札があれば読んでみる。右側を歩いた方が日陰が多そうだとか、左に歩道があって、そちらの方が安全だろうとか、車や自転車にも注意しなくてはならないし、なかなかぼんやりと考え事をするというわけにはいかない。

京都の哲学の道のように、毎日同じ道を散歩するのであれば、歩くことは足に任せて、哲学的な思索もできるかもしれない。今回のように地図を持たずに歩くと、五感すべてで情報をキャッチし、進む道を判断して行かねばならない。

とは言うものの、歩くこと以外何も考えていないわけではない。昨日は95歳で死んだ故郷の親父のことを考えていた。来週13回忌で、帰郷の予定になっていたからかもしれない。親父は米穀会社で、但馬一円にメーカー品を卸売りする仕事をしていた。現在のように、車を乗り回せたり、携帯・メール・ファックスなど、いながらにして仕事が出来る時代ではなかった。商談するために、毎日、農協を回ったが、当時は国鉄山陰線と全但バスが限られた交通手段であった。あとはひたすら足で歩くしかなかった。時には酷暑の中、何キロも歩くと聞いた。銭湯に一緒に行った時に目にした、真っ白な身体とは対照的な赤銅色の顔・首・腕がそのことを証明していた。親父が長生きし、亡くなるまでボケることが無かったのも、長年仕事の中で歩いてきたためだと思う。自分がいま歩くことにはまっているのも、少なからず親父の影響なのかもしれない。親父はどんなことを考えながら歩いていたのであろう。

歩きながら、誰に教わったものでもないが、最近、一句をひねることを始めた。昨日発句。

       魂も 迷い出でくる はるうらら

店先、庭先、玄関先に花がいっぱいである。盛りは過ぎたとはいえ、木々には花がいっぱいである。こんな不景気でも人々は浮かれ出てくる。墓地から霊魂だって、陽気につられて、迷い出てくるに違いない。どこかの墓石に「千の風になって」と刻まれていた。近頃の霊魂は、お墓の中でじっとしているはずはない。
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焼津駅まで歩く

(梨の花)

一昨日は札所が山の上にあるという想定で、山を二つ越してかなりの時間歩いた。足が特に痛むことも無く、靴擦れを起こすことも無く、想定時間内に予定をこなすことが出来た。今日は札所が平地にあって、平らな道を延々歩くという想定にした。東へ行くならば、焼津駅まで歩いてみようと思った。藤枝駅まで歩いたことはあったが、焼津駅までは初めてである。今計ってみると焼津駅までは直線距離で20キロ弱である。国道1号線は旧東海道と着かず離れずしているから、今回は国道1号線からは離れて、JR東海道本線より南を歩こうと思う。今日も地図を持たずに出た。


(岳山から粟ヶ岳の稜線)

出発が10時になった。国1バイパスの新大井川橋を渡る。振り返ると一昨日歩いた岳山から粟ヶ岳への稜線がよく見えたので写真に納めた。上の写真で、稜線は、右から、標高585.2mの岳山のピーク、岳山のもう一つのピーク、標高474mの小山、標高532mの粟ヶ岳へと続く。手前には右側に長者ヶ原、左側に西原が見えている。もう一つ手前の緑は大井川の河原に生えて橋の高さより高く成長した柳の林である。

島田では大井神社を通り、島田駅の先から駅南に出て、大井河原のマラソンコースを谷口橋の先まで歩き、河原から上がって藤枝市に入った。前方遠くにうっすらと高草山が見える。あの山の近くまで行けば焼津駅があると見当をつけて歩いた。主要道も小道もまっすぐ焼津に向かう道が意外とない。この道と見当をつけて歩くけれども、どんどん南にそれていくから、時々東へ向かう道へ乗り換えて行かねばならない。右へ左へと曲がりながら、大まかには高草山の方角に進むように調整しながら歩いた。

途中、白い花がたわわに咲いている果樹園があった。溝掃除をするおじいさんに何の花だか尋ねた。「梨の花だよ、もう摘花しなければならないのだけれど、ミツバチも飼っているので、もう4、5日このままで置こうと思っている。」おじいさんはミツバチにも優しい人だ。あるいは梨の花の蜜を取りたいだけかもしれない。「摘花はひと塊の花の中で、一花だけ残すように行う」質問をするとどんどん話が出てくる。「それじゃあ、一本の木で200~300個くらい成るんですね」と水を向けたが、その問いには笑っていて答えなかった。

途中、そば屋に寄って、勘定のついでに焼津駅までどのくらいあるかと聞いた。4kmほどとの答えに、それでは歩数が35,000歩まで行かないと思い、焼津港の方へ足を延して遠回りをした。それでも焼津駅まで4時過ぎに着いた。歩行時間約6時間、歩数38,183歩で、一昨日の歩数に及ばなかった。距離にして27kmほどであろうか。歩いた距離は夜にコースを凡そ地図でたどってみたが、意外と直線距離に近いコース取りをしていたことが判った。
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