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小川湯と行水

(今も残る銭湯「小川湯」)

故郷での夜、兄夫婦、女房、甥の嫁さんが茶のみ話をした。どんな話がきっかけになったのか。昔はどの家でも内風呂が無くて、銭湯を利用していたという話になった。話すのはもっぱら兄と自分。夏場は銭湯にも行かず、行水が一般的だったという話になった。今ならシャワーで済ますところだが、当然シャワーも無い。

家は鰻の寝床の町屋造りで、入り口から奥の炊事場までコンクリートで固めた土間が通っていた。炊事場の土間に大きな“たらい”を置いて、入り口の方に布を垂らして、行水場が出来る。炊事場の裏にある“かまど”でお湯を沸かし、“たらい”に熱湯を入れ水でぬるめる。入ってお尻をついてもお湯はせいぜい腰辺りまでしかない。ジャブジャブとお湯を掛けたり、タオルをお湯で湿して身体を拭うように洗ったり、暑い夏だとそれだけでお湯が濁るほど汚れる。もちろん石鹸を使うのは頭を洗うときぐらいで、あとはお湯で汗を流すだけになる。それでも、行水を使うとさっぱりして、昼間の暑さを忘れた。

行水のあとは、表に縁台を持ち出して家族皆んなで涼む。寝る前に夜の空気で昼間のほてりを取って置かなければ、クーラーの無い家の中ではとても寝られたものではない。大人たちは縁台将棋を始める。子供たちは夜も群れて遊ぶから、寝る前にはもう一度行水を使わなければならない時もある。テレビが入り、表に車が走るようになり、いつの間にか表で涼む習慣も無くなった。

考えてみれば、長兄の姉さんは結婚してきた夏から行水を使ったんどろうなあと兄が言う。それはカルチャーショックだっただろうと自分。しかし、あの当時はどの家もみんな同じ様なもので、内風呂のある家は無かった。

行水を使うには少し寒くなると、あとは銭湯である。行ったのは通りの向こうの「小川湯」であった。毎日ではなく、3日に一度位である。今もお寺の正面に小川湯は健在であった。昭和30年代、銭湯は子供は5円だったと思う。多分、大人で10円位だったろう。番台では50銭札が通用していたのを思い出す。
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コウノトリが餌場に17羽!

(コウノピアの屋根に止まる放鳥コウノトリ)

幼鳥が巣立ったばかりのコウノトリを、今回の帰郷で見に行かねばならないと思っていた。どこへ見に行けば見られるのかと聞いたところ、やはりコウノトリの郷公園の餌場しかなかった。出石から三開山(但馬富士)の裏を通ってコウノトリの郷公園に行く。駐車場は車で一杯だった。観光バスも見える。焼け付くような暑さの中、大にぎわいであった。

コウノトリ文化館コウノピアの屋根の鬼瓦に部分に、放鳥コウノトリ(背にアンテナが見える)が一羽とまっていた。女房は飛び立つ姿が見たいと言っていた。風が吹けば飛び立つかと注目していたが、うまくバランスを取って飛び立たない。餌場も見晴らせるそこが気に入っているようだ。

餌場には数えてみると17羽のコウノトリがいた。他にシラサギやアオサギのサギ類、天空にはトビが舞っている。係員の話では、放鳥したコウノトリも9羽集まっているという。

そのうちに一羽二羽と放鳥コウノトリが谷の奥へ行ったり戻ったり、飛翔を見せてくれた。その度に小さな歓声とカメラの砲列が動く。沢山のお客さんにコウノトリの精一杯のサービスである。と思ったが係員が餌場に餌を撒く時間で、コウノトリも落ち着かない時間なのだ。


(餌に集まるコウノトリ)

作業服にバケツを持った係員の姿が見えると、コウノトリが羽ばたきながら集まってきた。餌はフナの生餌と冷凍のアジだと兄が係員に聞いてきた。

餌を争奪して争いが始まる。コウノトリは一回り大きいから強い。サギは追い立てられて、餌場を取り囲むように、周りの柵や木々に止まって隙をうかがう。コウノトリが満足したらサギの出番になるのだろう。上空のトビは何時おこぼれを頂戴するのだろうか。水に入って啄ばむわけには行かないから、餌を見つけると急降下して掻っ攫うのだろう。

帰りに幼鳥が巣立った空の巣塔を見て帰った。幼鳥と親鳥の3羽は別の餌場で餌をとっているらしい。
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小佐の赤米と出石の皿そば

(小佐の赤米)

名草神社へ車で登る途中、チラッと見えた「小佐赤米の郷」の看板が気になって、帰り道で車を停め、看板の立つ水田に立ち寄ってみた。

案内板によると、昭和38年春、奈良の平城宮跡から「小佐の木簡」が出土した。木簡の内容は「但馬国養父郡老佐郷(おさのさと)赤米五斗 天平勝宝七歳(755年)五月」の文字が記されていた。当地から赤米を平城宮へ上納した記録である。

昭和63年、往時の小佐小学校の校長の発案で、この故事にちなんで、赤米づくりが始まった。この取り組みは地域のイベントや児童の郷土学習、加工食品研究などに生かされるとともに、五月には「御田植祭り」、十月には「収穫祭」が催され、名草神社に奉納されている。教職だった兄はその校長のことはよく知っているという。

水田には「ジャポニカ系赤米 もち早生種」「小佐の赤米奉納田」の標柱が立っていた。稲田は丈は低くしっかりして、葉先がやや黄色くなっていた。まだ穂は出ておらず、実るにはいま少しかかりそうである。

赤米は普通の米に混ぜて炊くと赤い色が出て、小豆を混ぜて炊いた赤飯のようになる。おそらくこれが赤飯のルーツなのだろう。最近、料理の最後に、赤米を混ぜた赤飯に似た御飯を時々見る。

昼食は出石の皿そばをリクエストした。兄が時々行くという出石の郊外の「一鶴」というそば屋に行った。出石に50軒ある蕎麦屋のうち最も新しい蕎麦屋だという。入口に「春夏冬中」と記された看板があった。判じ文字で、はじめは「飽き(秋)が来ない」と読んで決まりかと思ったが、正しくは「商い(秋無い)中」で、営業中の看板だった。


(出石の皿そば)

皿は5枚プラスして各々10枚を頼んだ。若い人なら一皿一口分である。卵、山芋、大根おろし、ネギ、ワサビなどが付き、皿ごとに味を変えて食べるのも一興である。こんな風に皿に分けられるとついつい食が進むのが不思議である。

「出石の皿そば」といっても、昔は聞いた記憶がなかった。しかし今ではすっかり当地の名物になっている。お皿には出石焼の白い肌に青く鶴の絵が描かれている。この鶴はコウノトリであろうか。出石にはかつてコウノトリが繁殖した鶴山があった。

メニューの後ろがノートになっていて、お客が思い思いに感想を書いている。感想を読みながら蕎麦を待った。一つの面白いアイデアである。
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名草神社三重塔再訪

(名草神社の三重塔)

17日の朝、在所の兄が「どこへ行きたい?」と聞く。1日ドライブに付き合ってくれると言う。「それなら、名草神社の三重塔を見に行きたい」

名草神社の三重塔を見に行くのは何年振りであろうか。まだお袋が一緒だったような気がする。そのお袋も今はベッドの上で、97歳。記憶がまだらで惚けることはあるが、まずまず元気で安心した。このままなら100歳の長寿を迎えられそうだ。

名草神社は但馬の名峰、妙見山の標高800mの地点にある。あたりは巨木の妙見杉が林立する山中である。そこに朱色も鮮やかな三重塔がある。日本で最も高い標高にある塔である。

名草神社三重塔は塔の高さは24.1メートル、一層の間口4.7m、はじめは大永7年(1527年)に島根県の出雲大社に建立された。その後、守護尼子氏が出雲大社本殿の柱に当地の妙見杉を所望し、応諾してくれたお礼に、寛文5年(1655年)、この地に移築されたと伝わっている。


(軒を支える力士像)

昭和62年に解体修理のあと、大雪や倒壊した杉に当って傷ついたけれどその度に改修されて、今も国指定の重要文化財である。この三重塔は記憶していた以上に大きく見えた。一層の四方の軒を力士が支え、三層の軒は見ざる・言わざる・聞かざる・思わざるの四匹の猿が支えている。そんな面白い意匠になっている。


(夫婦スギ根株)

三重塔のかたわらには、高さ57m、幹回り14.5m、樹齢1500年とも言われた夫婦杉が立っていたが、1991年(平成3年)9月の台風19号により倒壊してしまった。現在は幹が巨体を横たえて朽ちるままに置かれているほか、根株の部分には上屋を掛けて保存されていた。

妙見山には小学校高学年の頃、担任の先生に連れられて、数人で一度登った遠い記憶がある。往時は三重塔や健在であった夫婦杉の記憶は無く、名草神社の手前、登り道の両側に平屋の山家が建ち並んでいて、その前の側溝を綺麗な水が音を立てて流れていた。持参した「渡辺のジュースの素」という粉末ジュースを、その流水を汲んで溶かして飲んだのを覚えている。その冷たさと甘い味が記憶に残っている。


(もう一基の名草神社三重塔)

下ってきた八鹿の街角に、もう一基の名草神社の三重塔が建っていた。案内標識代わりの模型だが、かなりしっかりと造られていた。
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但東シルク温泉館に入る

(「但東シルク温泉館」-ゲルを模した建て屋が見える)

16日、故郷へ向かう。今回は東名豊田東ジャンクションから伊勢湾岸道に入り。東名阪道、名阪国道、西名阪道、近畿道、中国縦貫道、近畿道(舞鶴道)とたどって福知山から国道9号線に入り、野花交差点から出石へ向かう。登尾トンネルを抜けると、合併後の豊岡市に入る。左側の山裾に「但東シルク温泉館」という日帰り温泉がある。ここを通るたびに一度入りたいと思いながら実現できなかった。帰りはいつも朝方に通るから、とても温泉に入る気分にならない。この日はまだ午後3時20分で、意外と早く来れた。猛暑の街道を走ってきて汗も十分かいているから、ここは一つ温泉に入ってから故郷に帰ろうと女房に提案した。

豊岡市但東町には「日本・モンゴル民族博物館」や「但東シルクロード観光協会」などがあって、モンゴルやシルクロードで町興しをしている。モンゴルとの交流があるとは聞いたが、もう一つモンゴルやシルクロードとのつながりが分からない。この「但東シルク温泉館」の命名もその一環であろう。モンゴルのテント住居のゲルを模した建物が二つ並んで見えた。「山の湯」「花の湯」と呼ばれる温泉の建て屋である。

平成5年に第1泉源の掘削に成功し、平成6年から開業している。平成14年には第2泉源の掘削も行なっている。いずれも地下1100mから温泉を汲み上げている。重曹泉で肌がつるつるになることから「美人の湯」としても親しまれている。

お盆も過ぎてこの日は駐車場にも歯抜けが多く、中も比較的空いていた。お風呂は鉄錆び色をして、少し塩っぱかった。露天風呂に出るとこれだけ高温の季節だが、空気が肌に涼しく感じる。


(但東シルクなす)

女房が出てくるのを待つ間、併設された地元農産品の売店をのぞいてみた。「但東シルクなす」と命名された白いナスがあった。紫色の汁が出ないのでイタリア料理に向くとあったが、西欧の方の品種なのだろうか。

入湯料500円の、36湯目の日帰り温泉である。
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サブプライム住宅ローンの落し穴

(庭の千日紅)

このところ、世界の株式市場はアメリカのサブプライム住宅ローン問題で暴落している。各国の中央銀行の介入にもかかわらず、底がまだ見えていない。アメリカ経済がそんな問題を抱えていたことを、自分はうかつにも知らずにいた。

サブプライム住宅ローンは、アメリカで信用力の低い人を対象とした高金利型の住宅ローンのことで、昨日今日、移民してきた全く信用力の無い貧しい人たちにまで、住宅ローンを高利で貸し出していた。今までは全米的に住宅価格の値上がりが続いて、システム維持が何とか出来ていたが、最近持ち家の価値が下落しはじめて、高利のローンが支払えなくなる事態が多発し、サブプライム住宅ローン貸出し企業が苦境に陥っている。

それだけならアメリカの国内問題であって、米国の景気後退の一要素としてマイナス評価されるだけであったのだが、このサブプライム住宅ローンは一般に貸付債権として売買されて、その利回りが高利ゆえに、色々なファンドを構成する金融商品として組み入れられていた。

二年ほど前にアメリカの住宅ローンを全面的に組み入れたファンドを毎月配当型の高利回り商品として紹介され、しばらく持っていたことがあった。あの時、住宅ローンなら一つ一つの貸出しが小さいから、焦げ付きがあっても小さく、統計的に折込済みなのだろうと思っていた。幸い半年ほどで円高になって処分してしまった。あの住宅ローンの中にも、サブプライム住宅ローンが含まれていたのだろうか。そんな説明は一切無かったが‥‥。

今、世界の市場が混乱しているのは、ファンドのファンドと言われるヘッジファンドでは、たくさんのファンドを要素として組み入れていて、それらが複雑に絡み合って、サブプライム住宅ローンの破綻がそれらヘッジファンドにいったいどのくらい影響するのかわからなくなっているためである。投資家が疑心暗鬼になっている結果である。

こんなニュースを聞くたびに腹が立つのは、日本の市場や企業の不明瞭さを糾弾して、グローバル化を求めて止まないアメリカが、自国の足元に多くの不明瞭さを内在していること看過していることである。住宅価格の値上がりを条件としているサブプライム住宅ローンの発想はバブル以外の何ものでもない。この問題が市場にどのくらい尾を引くのであろうか。
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夏らしいお天気が続く

(自宅近くの空に浮かぶ夏雲)

このところ日本列島は夏本番で夏らしい暑さが続いている。太平洋高気圧にすっぽり覆われて、各所でこの夏の最高気温を更新している。太平洋高気圧の張り出しが遅れていた間は、晴れても中国から流れてくるスモッグで春霞のような空気感に覆われて、北陸から東北に掛けてさえも光化学スモッグ注意報が出るような天気であった。そのスモッグも太平洋高気圧にガードされて、日本上空には来ないから、青空の下、白い輝くような入道雲がもくもくと立ち上がる。

次々に発生する台風も日本には近づけず、フィリッピン、台湾、中国南部に上陸し、名残の雲は東シナ海から朝鮮半島に真っ直ぐ北上し、沿海州から樺太へと続いて太平洋に南下する、くっきりと日本列島を取り巻く雲の環になって、衛星写真で見ると特異な天気状況となっている。

この影響をもろに受けているのは北朝鮮である。この雲の環は北朝鮮辺りで寒気に触れて一気に雨が降る。次から次へと供給される雲の帯に、雨は止むことがなく続いている。山に木が無くて保水力の無い国土には大規模な洪水が発生し、街は水没し、冠水した田畑はこの秋の収穫を絶望的にしている。

こんな中、ロシアではテロと見られる鉄道事故が発生、中国では建設中の橋が落ちたり、建築中に超高層ビルが火災を起したり、韓国では移動遊園地の仮設ゴンドラが引っ掛かってひっくり返り、乗っていた家族が落下して犠牲者が出ている。アメリカでは低所得者向けの住宅ローンが破綻して、景気の減退が世界の経済に急ブレーキをかけている。

この暑い夏、日本では甲子園で延長再試合などの熱戦に人々をクーラーの部屋にくぎ付けにし、地震による柏崎原発の操業停止を原因とする首都圏の電力不足に拍車を掛けている。ツーリングの途中、事故で自分の足を10cm失ったまま、気付かずに2kmも走った中年ライダーの話は暑さゆえの椿事なのだろう。

明日から女房と車で故郷にお墓参りに行ってくる。ブログの書き込みが3日間ほど、休みになるか、それとも帰ってきてから遡って埋めることになるか、とにかく更新が止まる。
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アマレットに再び

(明るいアマレットのテーブル)

上の娘夫婦、下の娘夫婦、息子と我々夫婦が揃ったところで、昼食に出掛けた。掛川の創作イタリア料理のレストラン、アマレットに、予約が取れたのが1時30分であった。人気があるのかよく混んでいる。7月12日にソフト会社の慰労会に利用したあと、すぐに女房が友達と昼食を食べに行き、いたく気に入ったようだ。

出かける前に、親父の人生はじめてのジーパンを穿いて見せて、お披露目をした。親父、意外と似合うと、概ね好評であった。ジーパンを穿いたまま、3台の車に分乗して食事に出かけた。


(前菜、「三河湾のマダコのカルパッチョ」)

予約したテーブルは外光の入る明るい部屋であった。それぞれ好みで注文する中で、上の娘夫婦と我々夫婦は「シェフおすすめランチ」2500円を頼んだ。料理を運ぶたびに料理の名前を教えてくれるが、カタカナでは頭に入らない。上の娘が覚えて、息子が携帯にメモしメールで送ってくれた。それでここへ書き込むことが出来た。

おまかせ前菜 …………………… 「三河湾のマダコのカルパッチョ」
おまかせパスタ&料理 ………… 「自家製のハムのトマトソースパスタ」
          ………… 「地鶏のコートレット」
おまかせデザート ……………… 「イチジクの赤ワイン煮ジェラード添え」
コーヒーor紅茶orオレンジジュース (紅茶を選ぶ)

料理の味に文句を言わない替りに、テレビタレントのように「うまい!」を連発出来ない自分であるが、すべてを美味しく完食できた。量が少ないかと思ったけれども、食べ終わる頃には快い満腹感が広がった。自分には最適量の昼食であった。

静岡県立美術館の「石田徹也遺作展」の話が出て、上の娘夫婦は帰りに直接、静岡県立美術館に行った。焼津文化センターであった遺作展にも行っている下の娘夫婦は明日行くと話していた。
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ジーパンを買う

(オサダ店内)

土曜日の晩に、帰省していた上の娘は、計画していたのか、亭主のジーパンを試しに穿かせて、すごい!足が細く長く見えると言った。その殺し文句は豚も木に登らせてしまう。60年の生涯、初めてのジーパンを穿いてみる気になった。ただ試しに穿いたジーパンはジッパーが上がらず、全体に少し窮屈で、決して穿き心地の良いものではなかった。

少し遅れた誕生日祝いにジーパンを買ってくれると、日曜日、上の娘夫婦に藤枝のオサダに連れて行かれた。腹回りを店員さんに測ってもらい、幾つか穿いてみる。ジーパンは後ろは股上の丈に余裕があるが、前は股上の丈が短い。前の丈が短いと逆に足が長く見えるらしい。だから、出たお腹でもピークはジーパンの上に外れてそれほど圧迫感はなさそうだ。穿き心地が大変いい。下半身がすっと楽になったような穿き心地である。

いつも思うのだが、こういう店にはいろんな体型の人がやってくる。メタボなおじさんも沢山来るだろう。自分の体型を気にしている人も多いと思う。それらのお客の気分を害することなく、ぴったり合う商品をあてがって売りつける。マニュアルもあって、べからず集もあるのだろうけれど、すごいと思ってしまう。

購入したはじめてのジーパンは特に腿の部分にユーズド加工が施してある。ヤスリなどで擦ってブルーの染めをはがして使い込んだ形に作りこんでいる。これが格好いいらしい。
  「Lee RIDERS AUTHENTIC COWBOY PANTS」
と札が付いていた。

上の娘は洗うと長さは少し縮むからと、長さの指定は少し長めに頼んだ。待つうちにたちまち長さ調整も仕上がった。さらに家に帰って余り頻繁に洗わないようにと女房に注意している。洗ったときは裏返して干すようにとも話していた。


(足が長く見える?)

翌日、お墓参りに初めて穿いてみた。けっこう歩きやすい。この歳になって新しいことに挑戦できて、楽しんでいる。そんな楽しみのチャンスをくれた上の娘夫婦に感謝である。
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大学の友人との会食

(裏の畑のオクラの花)

11日、夏期休暇の1日目、夕方掛川駅に出かける。大学の友人が帰郷の途中に掛川に下車するというので、掛川駅で待ち合わせた。今夜は袋井で花火大会があり、駅は浴衣姿の若者たちでにぎわっていた。臨時列車が何本も出て、乗った電車も臨時列車であった。新幹線出口で待つうちに、ネクタイと背広、つばのある帽子を被った、いかにも大学教授といった風のM氏が降りて来た。花火大会に浮き立つ周囲とはいかにも違和感があった。やあ! お互いに手を挙げて挨拶をした。食事場所のリクエストを聞くと和食という。なら、静かな駅前のシティホテルの和食の店に決めた。時間が早くて客はおらず静かでいい。

お互いに還暦を越えて、人生の終着駅に近付いて、浮遊する思いや積もる話をして、三時間半に及んだ。私立大学で憲法学の教授であるM氏と、地方の地場産業で会社勤めの自分とは、考え方が随分開いてしまったと感じた。M氏は学生時代から40年も経つのに軸が全くぶれていない。学生時代の4年間ほとんど毎日のように一緒にいたM氏の考え方は100%近く理解していたと思う。40年経って議論して行くうち、自分も学生時代に引き戻されていくのを感じる。彼の発言は大変理解しやすい。今もなお形而上学的な発想を維持している。残念ながら自分は40年間庶民の中にずっぽりと浸かっていた。地を這いずるように生活している一般庶民がどんな思いでいるのか、M氏にはとうてい理解出来ないであろう。

M氏はブレーンではないが、安倍総理の側近と交流があるという。それで安倍内閣の続投について議論した。M氏は安倍内閣でなければ日本が駄目になるという。思いは解らないでもないが、20%代の安倍内閣の支持率ではどうしようもないと自分は語った。このまま続投して衆議院選挙を迎えれば確実に政権交代になる。小泉政権が壊してしまった自民党の支持基盤。地方の農業、中小企業など、ぼろぼろの支持基盤の下では、小泉政権にあった人気を持たない安倍政権では負けるのが当たり前である。高尚な思想よりも支持基盤の修復を図るのが先決であろうと話した。政権を野党に渡してしまったら何も出来ない。そんな自分の発想がどこまでM氏に理解できたであろうか。
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