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石山寺の月見亭と「源氏の間」

(近江八景「石山の秋月」を望む月見亭)

(昨日より続き)
石山寺多宝塔の初層の縁に上って巡ってみた。国宝なのに柱などに細かい人名が落書きされている。もっとも落書きも時代が付いて、書いた落書は消えたのだろう、刻んだものだけが残っているから、多分最近のものではない。今でこそ国宝に落書をしたりしてマナーが悪いと思うが、国宝でなかった頃は参拝した記念に自分の名前を記すことにそれほど罪悪感は無かったのかもしれない。神社札がべたべた貼られている神社仏閣を見るとそんな気がする。多宝塔も建造したときは宗教施設の一つで、美術品として後世に残すことを意図して建造されたわけではない。ましてや後世になって国宝として珍重されることなど誰も考えなかった。しかし、だからといって現代に落書きをすれば不心得ものとして非難されるのは当然である。

瀬田川を展望する高台からせり出すように藁屋根をのせた「月見亭」が建てられている。近江八景「石山の秋月」をこの月見亭から眺めようという風流である。江戸時代後期、後白河天皇行幸のときに建造されたといわれ、明治、大正、昭和と歴代の天皇もこの地で月見をしている。月見亭の隣りには石山寺を好んで何度か訪れた芭蕉にちなんで茶席の「芭蕉亭」が併設されていた。

芭蕉が石山寺で作った一句に、「曙は まだむらさきに ほととぎす」という句がある。この句を作ったとき、芭蕉は本堂の「源氏の間」を見学している。句は明らかに「春はあけぼの やうやうしろくなりゆく山ぎは 少しあかりて 紫だちたる雲の細くたなびきたる」という枕草子の冒頭の一節を踏んでいるが、同時に「むらさき」の一語に「源氏の間」を見学したことを読み込んだことも確かであろう。

紫式部は源氏物語の創作を、女院から下命され、成就を祈願するため石山寺に七日間参籠した。その間に「源氏の間」から十五夜の月を眺めていて、霊感をうけて源氏物語の構想を得たと「石山寺縁起絵巻」に記されている。


(本堂内の「源氏の間」)

多宝塔を見たあと、少し下って本堂に立ち寄った。清水の舞台のように木組みされた上に、石山寺本堂(国宝)が建てられている。本堂内には「源氏の間」があり、マネキンの紫式部が展示されていた。
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