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田子乃古道 5 ばばが井戸と「太平記」の記述

(ばばが井戸 - 砂山の上、阿字神社奥宮の東側に
見附宿跡の碑の隣にある井戸枠がそれのようである)

「田子乃古道」の解読を続ける。

さてここに鈴川村の古え、高は四百石余、内四拾石余砂入り、その内生贄の蛇免、お免有り。六拾四、五年以前まで、阿ぢ神の守に祢宜のおかわという巫女母、この森下に一家あり。舟手初穂もらい、世渡り、湊大浪の時はあぢ神へ念じ祈祷する。今に残りて婆母井戸(ばばがいど)とて、明水出る。その辺り松山となり、この辺、見附宿屋鋪跡なり。
※ 砂入 - 洪水などで田地に土砂が流れ込み、荒れるとその田畑は砂入として年貢の減免がなされた。
※ 舟手 - 船手頭のこと。江戸幕府の職名。若年寄の支配に属し、幕府の用船の管理や、山陽道・西海道の海上巡視などにあたった
※ 初穂 - 神主への謝礼金。
※ 明水 - 祭礼の時に用いる水。神前などに供える清浄な水。鏡で月からとるとされる。


この堤添いに壱反ばかりの地ありて、岸に肥芦生い繁げり、底知れず。人々恐れて、釣り、網もしる事なし。これ添いに四畝七歩の高盛りあり。引き崩して灯籠川の池へ持込み、田と成す。その時この畑より演(縁)石の添いたる平石出て、その内に大なるすえ石も出る。考うるに、これは見附屋敷跡、添いの池は、堀溝の跡と見えたり。

惣じてこの所の古義は、考(こう)ずるに遠し太平記の乱の頃、足柄、箱根両陣破れて、新田義貞上方へ引き退く。鎌倉勢これまで追い返えす。その道筋にて、三嶋宿川原かえの橋にてあるなり。車帰し三枚ばし、沼津浮嶌の宿は原の宿にてもあらんか。なお、今井、見附宿、萩下と太平記に書き有る萩下とは、宮嶋の事ならんか。萩原村と云いし事、甲陽軍記にも見へたり。

太平記の巻第十四「官軍箱根を引き退く事」という段で、箱根竹下の合戦に足利軍に破れた官軍新田義貞軍が、追われて西へ落ちてゆく様子が描かれている。太平記を読み返すに、地名として出て来るのは、黄瀬川、浮島原ぐらいで、次に出てくるのは、「今井、見付を過ぐるところに、また旗五流れ指し掲げて、小山の上に敵二千騎ばかりひかえたり」とあって、「萩下」は出て来ない。そして、次の場面はもう天竜川へ飛ぶ。

往昔、「太平記読み」と呼ばれる人々(後世の講釈師の祖)が各地を回って、一ヶ所で何日も泊まって、太平記などを読み聞かせた。彼らが各地でご当地の地名を織り込むのは、「つかみ」の秘訣であっただろう。だからそういう異本が沢山あったのかも知れない。確証はない話であるが。

新潮社版の太平記の注には「今井、見付」について、「富士市今井。見付は未詳。今井の近くの地の旧名か」と書かれていた。「田子乃古道」にお付き合い頂いている方は、「見付」がどこなのかは自明のことである。
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