平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
陶淵明の雑詩十二首其一、「歳月は人を待たず」
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午前中、掛川の娘の嫁ぎ先に、建て前のお祝いに行き、お昼をよばれて帰って来た。今朝は本を読んでいて、3時間ほどしか寝ておらず、帰って昼寝をした。
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文学講座の続きである。同じく陶淵明の雑詩十二首の其一に、有名な漢詩がある。
人生無根蔕 人生根蔕(こんてい)無く
飄如陌上塵 飄として陌上(はくじょう)の塵の如し
分散逐風轉 分散し風を逐(お)いて転ず
此已非常身 此れ已(すで)に常身に非ず
落地爲兄弟 地に落ちて兄弟(けいてい)と為るもの
何必骨肉親 何ぞ必ずしも骨肉の親(しん)のみならんや
得歡當作樂 歓を得ては当(まさ)に楽しみを作(な)すべし
斗酒聚比鄰 斗酒もて比隣を聚(あつ)めよ
盛年不重來 盛年(せいねん)重ねて來らず
一日難再晨 一日(いちじつ)再び晨(あした)なり難し
及時當勉勵 時に及んで勉励すべし
歳月不待人 歳月は人を待たず
※ 飄 - つむじかぜ
※ 陌上 - 路上。道のあたり。
人生は根も蔕(へた)も無くて、つむじ風に舞い上がる路上の塵のようなものである。風のままに飛び散り転がっていき、人生は生れ落ちてから、すでに常住の地を持つ永久不変の存在ではない。風のままに地に落ちて、兄弟となるものは、何も血を分けた肉親だけではない。うれしいことがあったら一緒に楽しむべきである。お酒を用意して近所の連中を集めようではないか。若い盛りの頃は二度と来ないし、一日に朝は再びやってこない。その二度と来ない時に及んで、勉めて楽しく過ごすべきである。歳月は人を待ってくれない。
この詩は最後の四句が一人歩きして、若者に学問に励むように諌めた詩として利用されることが多い。しかし、本来は人生をはかないものと認めた上で、今を楽しむことを肯定している詩である。
「武士道と云うは死ぬ事と見つけたり」という言葉で有名な武士の心得を綴った「葉隠」の中に、次のような一文のあることを思い出した。
人間一生誠に纔(わずか)の事なり。
好いた事をして暮すべきなり。
夢の間の世の中に、
すかぬ事ばかりして苦を見て暮すは愚かなることなり。
「葉隠」を読んだ当時、意外な言葉に驚いたが、死が隣り合わせの武士だからこそ、刹那々々の身の処し方を述べたものだろうと理解した。その後に、この言葉をそのまま若者に話すと間違って理解するから注意を要すると書かれていたのを思い出す。
「葉隠」の著者の山本常朝さんは陶淵明のこの詩を読んでいたのだろうか。
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