平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
陶淵明の飲酒二十首 その2
今夜、Mさんの呼びかけで、会社の山の会の同窓会があった。場所は昔の本社のそばの富士屋である。建物が新しくなってしばらく経つが、入るのは初めてである。会社が金谷にあった頃、残業によく出された富士屋のカツ丼は、その濃い味が自分たちの青春の味であった。今でもあの味を時々思い出す。健康に留意しなければならない昨今では、あの味を口にするのは難しいのかもしれない。
11人集まった面々が、一同に会するのは20年ぶりであろうか。最初は名前が思い浮かばず、しかしすぐにあの時代の山行の数々と共に、思い出すことが出来た。仲間たちの近況については、出席出来なかった人たちのためにも、後日このブログに書き込もうと思う。
Mさんに集まりを持って欲しいと、最初に声を掛けてくれたOさんは、急用で出席できず、申し訳ない気持ながら、二時間余りのよい時を過ごさせていただいた。出席出来なかったOさんのためにも、一年後にもう一度集まろうと約束して散会した。
* * * * * * *
昨日の続きを書こうと思う。昨日今日と酒席が続いているから「飲酒」の詩を取り上げるのも、無縁ではないと思う。二つ目に取り上げるのは、陶淵明の「飲酒二十首」の其十四である。飲酒には一人で飲む酒が多いが、ここではたくさんの人々と飲む酒について詠じている。
故人賞我趣 故人我が趣(おもむき)を賞(め)で
挈壺相與至 壺を挈(たずさ)えて相与(あいとも)に至る
班荊坐松下 荊(けい)を班(し)きて松下に坐し
數斟已復酔 数斟(すうしん)にして已(すで)に復(また)酔う
父老雜亂言 父老雑乱(ざつらん)して言い
觴酌失行次 觴酌(しょうしゃく)行次(こうじ)を失う
不覺知有我 覚えず我の有るを知るを
安知物爲貴 安(いずく)んぞ知らん物を貴しと為すを
悠悠迷所留 悠々として留まる所に迷う
酒中有深味 酒中に深味有り
古くからの友人たちが、私の性行を気に入り、酒壺をさげてみんなでやってきた。草をしいて松の下に坐り、四、五杯飲むともう酔ってしまった。おやじたちはろれつが回らなくなり、献酬の順序も何もあったものではない。私の存在も忘れてしまえば、物の価値も何も知ったものではなくなる。悠々として、私の地位や名声も意識しなくなる。そういう酒の中にこそ真実がある。
終わりから2行目、「悠悠迷所留 悠々として留まる所に迷う」の解釈に迷うところである。駒田信ニ氏の訳では「名利を求めてさまよっている者には、とどまるところがわからなくなる」とある。ネットで見ると、「名利に走る者たちはこせこせと自分の地位にしがみついている」という訳もあった。
もう一つ、しっくりしない解釈に思えた。いずれも「悠悠」の二文字の解釈が飛んでしまっていると思った。「悠悠」の意味は、「はるかに遠いさま。限りなく続くさま。ゆったりと落ち着いたさま。十分に余裕のあるさま。」である。講義では駒田信ニ氏の訳で説明された。
何れの訳も主語が「名利を求めてさまよっている者」あるいは「名利に走る者たち」と、取って付けられたような主語になっている。しかし、詩の流れからは、主語はここでもこの酒席のおやじたちであろう。「所留」は「陶淵明の地位や名声」と訳し、酒席での上下入り乱れた無礼講の様子を表わしていると解釈した。それで最後の行、「酒中有深味」がしっかり決まる。
しろうとの勝手な解釈でクレームが付くことを覚悟の上で、そんな風に読んでみた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 陶淵明の飲酒... | 陶淵明の雑詩... » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |