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「参河後風土記正説大全 第弐拾参」を読む 18

(大井川川越し太鼓の奉納/昨日撮影)

祭当番を終えて、今日は骨休みの一日。天候も雨降り。

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「参河後風土記正説大全 第弐拾参」の解読を続ける。「天龍川合戦松平清吉宇都山守」の項の続き。

さる程に、その夜御譜代衆、皆々御前へ罷り出でけるに、家康公は本多、大久保、榊原、大須賀、鳥居、内藤、その外、苦戦せし事を仰せ出され、それぞれに御褒美の御言葉ありて後、治右衛門忠佐(ただすけ)を召して仰せに曰(いわ)く、汝は勇なれども、才薄くして軍慮(ぐんりょ)大将の器(うつわ)にあらず。昔、頼朝石橋山にて敗せし時、佐々木兄弟しんがり(殿)して頼朝を落とす。また義経吉野山にて、大衆(だいしゅ)に襲われし時、佐藤忠信は主のために身命を軽んず。これ皆、戦いの理を工夫して、後の功を思う故なり。およそ大将の進退、節に当たるをもって良将とす。忠勝はすでに大将の器あり。汝はただ血気のみに誇る故、匹夫(ひっぷ)の勇なり。後来を慎み候えと仰せければ、忠佐は赤面して、御前を退(しりぞ)きけり。
※ 譜代衆(ふだいしゅう)➜ 代々仕える家臣たち。
※ 軍慮(ぐんりょ)➜ 戦術などを考えめぐらすこと。軍略。
※ 大衆(だいしゅ)➜ 僧兵の集団。
※ 匹夫の勇(ひっぷのゆう)➜ 思慮分別なく、血気にはやるだけのつまらない勇気。
※ 後来(こうらい)➜ こののち。行く末。将来。


かくて、信玄は、中根平左衛門正照青木又四郎貞治等、両人に下知して、松平善兵衛正親が籠りたる二俣の城を攻め取るべしと、大将には四郎勝頼、並びに武田左馬助信豊、穴山梅雪など多勢(たぜい)を以って、攻め囲む。然るに、城中微勢(びぜい)なれども、正親少しも臆せず、矢玉(やだま)を飛ばせて、よく防ぎ戦う。敵、城に近付く時は、突き出(いだ)し追っ立つる故、この城、容易に落つべしとは見えざる所に、小宮丹後守、思慮(しりょ)して、当城は井口から攻めずば落つべからず。水の手を破らば、速(すみ)やかに落城すべしとて、手の者どもに下知して、既に水の手に攻めかゝりて、終に城に乗り入らんとする故、城中より鉄砲の御目先を揃えて、付き出だす故、丹後守初めとして五十騎ばかり、堀の中へ打ち落すといえども、跡より大勢、少しも怯(ひる)まず、攻め破らんとす。
※ 中根平左衛門正照(まさてる)➜ 実際は家康の家臣で二俣城籠城側の武将であった。後に三方ヶ原の戦いで戦死。記述に誤りあり。
※ 青木又四郎貞治 ➜ 正しくは、又四郎吉継。中根正照と同様。
※ 松平善兵衛正親 ➜ 桶狭間の戦い(一五六〇)で戦死。二俣城には籠れない。
※ 微勢(びぜい)➜ わずかな軍勢。少ない人数。
※ 矢玉(やだま)➜ 矢と弾丸。
※ 思慮(しりょ)➜ 注意深く心を働かせて考えること。

(「天龍川合戦松平清吉宇都山守」の項つづく)

読書:「雨上りの宮 口入屋用心棒10」 鈴木英治 著
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