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道聴塗説 その三 1

(散歩道の紅白の梅の花)

土手下に紅白の梅の花が咲いていた。一見、混ざって咲いているように見えるが、手前の紅梅と向うの白梅が重なっているためである。

午前中、ミンクルで古文書講座のN氏と待ち合わせ、展示発表会の打ち合わせをする。話が盛り上がって、終ったときはお昼を少し回っていた。

午前中に、金谷宿大学の事務局から電話があり、理事をもう一年続けてくれないかと打診があった。欠席の人を理事に選んでしまったため、気になっていたが、やはりこういう結果になったかと思った。大した手間でもないので、引き受けることにした。

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今日より「道聴塗説 その三」の解読に入る。

その三
問う。臨終に来迎等の奇特を以って、往生を試みなば、これ等の奇特なき時は、往生に非ざるべし。流義には不来迎と申すよし。この事は如何(いかが)心得べしや。 答う。臨終の来迎等の有無を以って、往生を定むると申すは、開山(親鸞)の嫌い給う説なり。但し、臨終の正念は、必ず往生の験(しるし)なれば、正念を以って試むべし。

この正念は弥陀経の説にて、黒谷(法然)は来迎に依って正念ありと定め給う。自力にて申せば、正念の上に来迎あるの道理なれども、他力を申すときは、凡夫の力にて臨終を正念に住せんと、ましないつけんこと、なり難けれは、弥陀経にも「阿弥陀仏と諸の聖衆、現にその前に在す。この人終る時、心顛倒せずして、即ち往生を得」とありて、聖衆現前の後に、心不顛倒と説き給いて、聖衆来迎の他力を以って、行者の心不顛倒の益を得ることを示し給う。
※ ましないつく(れい)- 語呂を合せて何かに当て付けること。
※ 聖衆(しょうじゅ)- 仏・菩薩など多くの聖なる存在。特に臨終の際、阿弥陀仏とともに浄土への迎えとしてやってくる聖者たち。
※ 顛倒(てんどう)- 煩悩のために誤った考えやあり方をすること。


称讃経には、「慈悲、加え祐(たす)け」と、直に他力を顕したりしかれば、臨終の来迎などの相は現ぜずとも、正念に住するは、来迎冥加の験(しるし)と知るべし。それを不来迎と申すは開山(親鸞)の御こころに非ず。されば、開山(親鸞)章鈔などに、一処として不来迎の語なし。
※ 称讃経(しょうさんきょう)- 称讃浄土経。唐の玄奘訳。「小経」の異訳。
※ 章鈔(しょうしょう)- 文章。(「章」は、まとまってひと区切りをなした文。「鈔」は、長い文章などの一部を書き出すこと。抜き書き。)


教行證などの諸行と念仏と比較相対に、四十八対あれども、諸善は来迎、念仏は不来迎と申す相対なし。これその明験なり。況んや、開山(親鸞)は黒谷(法然)の相伝にて、かの一流を相承し給う。
※ 教行證(きょうぎょうしょう)- 教行信証。鎌倉時代初期の親鸞の著作。全6巻からなる浄土真宗の根本聖典である。
※ 相承(そうじょう)- 師から弟子へ代々、仏の悟りの本体を伝え受継ぐこと。
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